礼拝説教要旨 2024年8月11日

御霊の思いはいのちと平安です

ローマ人への手紙8:1~11

異常な暑さの中での8月、今年も私たちは過去の戦争の事実を思い返し、再び戦争の惨禍に巻き込まれないよう決意しながら、この時期を過ごしている。ところがここ数年、過去の反省を忘れたかのように、新たな戦争が始まって、世界中、心穏やかではいられない。不穏な状況であるからこそ、静まって御言葉に耳を傾けることを導かれたい。

その私たちの信仰の根幹の一つは、やはりローマ人への手紙であろう。パウロの手紙の中で一番長く、より詳しくイエス・キリストを信じる信仰の中心について、十字架で死なれたキリストは私たちの罪の身代わりとなって死なれた方であると。キリストを救い主と信じる者は、罪を赦され、義と認められ、永遠のいのちをいただくという、最高の栄誉、また栄光が約束されていることが説かれている。何度でも繰り返しこの手紙によって私たちは教えられ、信仰の理解が深められる。

今朝は、信仰によって義とされ、罪を赦された者として、この時期に、私たちは何を追い求め、どのように生きるのか、しっかりと思いを巡らせたい。

1、

パウロは、7章までで、キリストを信じて罪を赦され、義と認められる救いは決して揺るがされることはないと、恵みによる救いを詳しく説いている。義と認められた者が、地上でなお罪と向き合い、罪と戦って弱さを思い知らされることがあるとしても、キリストの十字架の御業を仰ぎ見ることができるからと。(7:24~25)天の御国に入るまで、地上で聖化の歩みをする途上では、弱さや愚かさに悩まされることがある。それでも、キリストの十字架の身代わりの死の確かさによって、救いの道は、全く確かで揺るがないのである。

この確信を、パウロは「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」(1~2節)と断言する。キリストにある者が有罪と宣告されることは有り得ない。キリストにある者とは、キリストのものとなった人、キリストを信じてキリストに従うことを告白した人で、洗礼を受けてキリストに結びついたことを公けにした人である。終わりの日の裁きにおいて、必ず無罪が宣告されるが、今この地上にあっても、もはや恐れなく歩むことができるのである。

2、

キリストにある、いのちの御霊の律法が、罪と死の律法から私たちを解放したことを、はっきりと知るようにと、パウロは明言する。「キリストにある」ことを、私たちは、「キリストにあって」「主にあって」または「主にありて」と言い表す。(※in Christ:在主etc.) キリストにあることによって、キリストの義が私たちを全く包んでくれるので、私たちは罪ある者と宣告されることはもはやない。神はそのように救いの道を定めて下さったのである。

キリストにあって、私たちを罪と死の律法から解放してくれるところのいのちの御霊の律法は、キリストの十字架の御業に基づいている。人は自分で自分を正すことはできない。罪から離れ、自分を聖くすることはできない。けれども、その人間に、救いの道を開くために、神は御子イエス・キリストを遣わされた。それは「肉において罪を処罰」するためで、また「御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるため」であった。キリストは罪のない方として地上を歩み、律法の要求を満たして十字架で死なれた。それによって、罪の刑罰としての死を身に受けながら、罪のない者として、神の義を打ち立てる身代わりの死を遂げられたのであった。(3~4節)

3、

この身代わりの死を信じるのは、ひとえに御霊の働きによる。御霊の働きなしに、キリストの十字架の死を、私の身代わりの死と信じることはできない。「キリストの十字架・・・?一体自分と何の関係があるのか・・・?」と、人はもっぱら自分の関心事に心を傾ける。キリストの十字架を目撃した人は多くいたが、ほとんどの人が「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来よ・・・そうしたら、われわれは信じるから」と叫んでいた。御霊に導かれる時に、初めて、そこに「いのちと平安」があることを悟る。いや、悟るよう導かれる。神が御霊によって成さる不思議である。(5~6節)

「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です」(6節)と、二つの思いが対比される。「肉の思い」は神に敵対し、神の律法に服従しない。いや、服従できない。(7節)それゆえに、「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」(8節)他方、御霊の思いとは、キリストの思いそのものである。キリストは父なる神に従い、神の御心を喜びとして、十字架の死にまで従い通された。御霊がうちに住んでおられるなら、その人はキリストにある者として、罪の赦しを得て、いのちと平安に満たされる。キリストを信じる人のうちに御霊が住んで、その人を神に喜ばれる人として生かして下さるからである。(9~10節)

<結び>

人が、肉と霊という二つの部分から成っているというのではなく、一人の人のうちにある、神に敵対する思いと神に聞き従う思いの、どちらによって生きるのか、そのことに心を傾けよ、とパウロは言う。十字架で死なれ、三日目によみがえられたキリストがおられ、このキリストの御霊がうちに住んでおられるなら、あなたは何も恐れなくてよい。罪があなたを悩ませることがあっても、あなたはキリストにあって義とされた者として生きることができる。もはや死さえも恐れず、よみがえりのいのちを望み見て生きる幸い、この幸いに勝るものはない・・・と。(11節)

その勧めに従って私たちは生きているだろうか。私たちを取り囲む社会の実情は、「いのちと平安」を得て生きる社会と言うより、「死と敵意」に満ちた社会のようである。人々の心は荒れすさんで、「いのち」を尊ぶことは後回しとなっている。人の「いのち」がどんなにか尊いものと叫んでも、空しく響く。何故か・・・? いのちの根源から離れているからである。人を造られた神から離れたところで、人の「いのち」を論じようとしても、その尊さの根拠が見失われているからである。

私たちは、神がおられること、その神の前に人は罪あること、しかし、神は罪ある私たちと救おうと、御子イエス・キリストを世に遣わされたことを聖書を通して知らされた。そして、キリストを信じる者は義と認められ、罪から救われると招かれている。キリストを救い主と信じ、キリストにあるなら、決して罪に定められることはない。その人は「いのちと平安」を得て生きることができる。私たちは、この招きに繰り返し答えることが大事となる。「死と敵意」に満ちて生きることを選ぶのか。それとも「いのちと平安」を得て生きることを選ぶのか。神に与えられたいのちを喜び、神が与えて下さる平安を得て生きようではないか。いのちを尊び、神との平和を得た者が、他の人々と和らいで生きる、そのような証しが求められている。私たちが、そして教会が、今の世に送り出されているのは、このためではないか。「いのちと平安」を喜び、精一杯証しする者として、世に送り出されたい。