イエス様は、天地万物の創造者であられる神の御子です。神のお心をそのまま表している神の御子です。そして、新約聖書の福音書には、そのイエス様が話された言葉、教え、それになされたことが、たくさん記されています。なので、イエス様がどういうお方か、私たちはこの福音書から知ることができます。今日の個所にも、イエス様がどういうお方なのかということがよく表れています。それは天の父なる神のお心を表わすものでもあります。
12節「イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。」「見よ!」と驚きを表わす言葉が入っています。いただけで、どうして驚かれなきゃいけないのかというと、当時、ツァラアトという病に冒された人は隔離されて、町中にはいられなかったからです。ツァラアトとは、旧約聖書が書かれたヘブル語の言葉をそのままカタカナ表記したものですが、ある種の皮膚病と思われます。彼らは町はずれの荒野のような所に追い出され、隔離されて、基本的には町の人たちと接触できないようにされていました。普通は家族などが食糧を持って来たようですが、何らかの事情でどうしても必要なときには、町に買いに行くこともあったようです。そのときには「私は汚れている。私は汚れている」と大声で叫ばなければなりませんでした。人々から遠巻きにされ、白い目で見られ、こっち来るな、と露骨に嫌な顔をされただろうことは想像に難くありません。この時も、この場にいた人たちは、ツァラアトの人がいるのを見て、ギクリとしたでしょう。あ、ツァラアトの人がいる!誰かが叫ぶと、この人を避けるように、みな、遠巻きにしたでしょう。
ですから、この病にかかった人は、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、大変つらい思いをしていました。霊的にもそうでした。彼らは、生活の場から追放されただけでなく、神殿からも締め出されました。ですから、人からも神からも見放されたかのようです。そこに持ってきて追い打ちをかけるのは、心ない人々の口でした。ああいう病にかかったのは、あの人か、その親が悪いことをしたから、天罰がくだったんだなどと言う人々がいます。さらに、そんな彼らを徹底的に痛めつけたのは当時の宗教家たちでした。自分のきよさーと言っても表面的で、形だけですがーにはやたらと神経質なパリサイ人と呼ばれる人の中には、ツァラアトの人のほうから風が吹いてくるときは50m風下に離れていても汚らわしいとか、また別の者は、他人がツァラアトの人を見て逃げて行く中で、自分は勇敢にも石を投げて追い払ってやった、と誇らしげに語ったといいます。そんな状況をふまえると、この人は、よくぞ、こうして勇気を奮って、イエス様のところに来てくれたと思います。聖霊が彼に働いて来させたということもそうですが、彼自身も、ヘタをしたら石を投げられるかもしれないのに、町中によく来てくれたと思います。それだけでも大した信仰です。
そして改めて12節の言葉を読むと、彼にはこう言うだけで精一杯だったのだろうな、とも思います。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」あなたがそのように意志して下さるなら、私をきよくすることができます、というのです。イエス様の意思にかかっているというのです。彼はイエス様が癒すことができるという、イエス様の力は信じていました。が、イエス様が自分のような者を受け入れて下さるかどうか、イエス様が自分に救いの手を差し伸べて下さるかどうかには、確信がなかったのでしょう。いつも人からそういう扱いを受けていたら、そう思ってしまうのも当たり前。だいたい、こんな恐ろしい病になったら、自分は神に呪われているのではないだろうか、と思うかもしれません。人からもそう言われて、自分でもそう思ってしまっていたかもしれません。しかし、食糧を届けに来てくれる人からか、イエス様がほうぼうで病人を癒しているという噂を耳にして、意を決して来たのでしょう。けれども、果たして、そのイエス様が、自分みたいな者を受け入れて下さるかどうか…。神から遣わされた聖なる方には、なおさら、この汚らわしい自分など「無礼者!」とかえって呪いを身に招いてしまうのではないか。そんな恐れもあったかもしれません。吉と出るか、凶と出るか。しかし、行動しなければ、何も変わらない。一か八か。もしかしたら、このイエス様というお方は、自分を救って下さるかもしれない。その一縷の望みを抱いて、勇気を振り絞って思い切って、それまでいたところから出て、踏み出して、イエス様のところに来た。そうして、イエス様の前に身を投げ出して、ひれ伏して、恐る恐る「もし、御心でしたら」と申し上げてみた。そしたら…。そこから彼の新しい人生が始まったのです。思い切って、来てみてよかったのです。
ちょっと考えてみて頂きたいのですが、見るからに恐ろしい皮膚病の患部には、誰も触りたくないものでしょう。この皮膚病の患部は、白いかさぶたのようなものが、腕なら腕中に、足なら足中にいっぱいできるようです。この人は全身にできていました。普通は、あまり触りたくないと思うでしょう。しかし、それが愛する人についたとしたら、どうでしょうか。見るだけでおそましいその病が、愛する人を苦しめているのを見たとしたら。憐れみの情が嫌悪の情を上回るでしょう。愛する我が子が見るもおぞましいツァラアトに冒されているのを見る時に、嫌悪する以上に、そんなおぞましいものに苦しめられている我が子が不憫で、胸が締め付けられるように心を痛めるでしょう。そしてそんな汚い患部を抱えたままでも、苦しむ我が子を抱きしめてあげたいという衝動に駆られるでしょう。決め手は愛なのです。イエス様は、この人に対する憐れみで心がいっぱいになったのでしょう。ためらわずに彼にさわりました。
さて、こうして癒された彼に、イエス様は続けて、14節以下、「このことを言いふらしてはならない」と言われました。この頃すでにあまりにも人々が多く集まってきて、身動きが取れない状態になっていたからでしょうか。前に見たように、イエス様は病人も癒されましたが、それ以上に神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされたという使命を第一にしていました。それから続けて「ただ行って、自分を祭司に見せて、人々への証しのため、モーセが命じたように、きよめのささげ物をしなさい。」と言われました。これは、当時の定めに従って社会復帰の手順を踏むようにということです。旧約聖書のレビ記というところ(著者モーセ)の14章に、ツァラアトがきよめられたら、祭司のところに行って、カクカクシカジカきよめの儀式をし、そして祭司から公に「きよめられた」という宣言を受けて、社会に復帰しなさいと教えているところがあります。これをこんにちに適用すると、信じて救われたら、ちゃんと神が定めておられる定めに従って、牧師なり長老なりに信仰を告白して、教会で洗礼を受けて、神と人との前に、公に「この人はキリストによってきよめられ、神の民、神の家族に受け入れられました」と宣言されるようにしなさい、ということ。そうして正式に教会の一員となり、ともに聖餐式にあずかり、教会員としてともに役割を担い、互いに仕えつつ、教会生活を送る。信仰は、イエス様と人との一対一の、個人的な関係がベースですが、同時にまた、教会という共同体に連なることも、とても大切なことです。
さて、こうしてイエス様は彼に口止めしたのですが、うれしくてか、興奮してか、彼はあっちこっちで言いふらしたので、おかげでイエス様は町に入れなくなったと、マルコの福音書にはあります。しかしルカは、そういう困った面よりも、荒野に退いて祈っておられたと積極的な面を出しています。物事には両面あるものだな、と思います。16節「だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。」このイエス様のお姿も印象的です。人々がますます集まって、俗な言い方をすれば人気絶頂の中、荒野に退いて、父なる神との祈りの時を大切にしておられた。イエス様は、天におられる御父と交わる祈りのときが何よりも喜ばしく、ご自分が御父のみこころに従って地上の歩みを送る上での原動力でもあったのでしょうか。私たちも、そのような神との交わりが行動の原動力となりますように。
今日はこの箇所から、きよめられることを求めなさい、という主の御声を聞いておきたいと思います。それがわたしのこころなのだ、と。そしてわたしには、あなたをきよめる意思も力もあるのだから、恐れずにわたしに求めなさい、と主の御声を受け止めたい。
先の祈祷会でも言いましたが、今の世界の状態は、目に見えるところではわかりませんが、霊の現実としてはと言いますか、神との関係という視点から見るとと言いますか、二つの目に見えない世界が混在している状態です。一つは、生まれながらの人はみな、そうなのですが、神に対して死んだ状態。神との関係が断絶した状態。そこは罪の支配する世界。多くの人々はその罪の支配する世界に生きています。それに対してもう一つの方は、神に対して生きている状態。神との関係が回復した状態。そういう世界。キリストを信じた者は、神なしの世界に対してオサラバして、神に対して生きる世界へと移されました。新しく生まれ変わった。両者は見えるところでは、同じ場所にいて、同じ空気を吸っていますが、霊の現実としては、まったく違う世界に住んでいます。私たちは罪の支配する世界に対して死んだ者、そこにはもういない。キリストがこの世に対して十字架につけられて死んで下さったように、私たちも、神なしの罪の世に対してキリストといっしょに十字架につけられて、死んで、そして、キリストが復活されたように、私たちもキリストとともに神に対して生きている世界に生まれました。私たちはキリストと結びあって一体となっています。
私たちは神に対して生きる者となりましたが、だからと言って完全にきよめられたわけではありません。罪の性質がツァラアトのように私たちのうちに残っています。これは自分の力で、頑張りで癒すことができません。しかしイエス様にはきよめることができます。
ただし、私たちの霊のきよめの場合は、この時のように瞬間的にではありません。生涯続く御霊のわざです。私たちは何度も挫折を繰り返しますが、それはかまいません。少しでもきよめられたいと願っているなら、赦しは無尽蔵。救いの恵みから、神の国からこぼれ落ちることは決してありません。それが恵みの契約というものです。そのためにイエス様は十字架にかかって、尊い血潮を流して下さったのです。クリスチャンの悔い改めとは、ただキリストにあって無限の赦しの中に、また神の国の中に自分が入れて頂いていることを信じて、そして神が全能の御力を御霊によって私たちのうちに働かせて下さり、きよめて下さり、造り変えて下さることを信じて、何度でも信じて、お委ねして、イエス様に従う道を歩む。その繰り返しです。それを飽くことなく続けることによって、少しずつ、神の御霊が私たちをきよめ、造り変えていって下さるのです。それはあたかも病が癒されて、健康になっていくようなもので、それはいのちの道、幸いな、喜ばしい道です。
ときに、自分でも思ってもいなかったような罪深さに気づかされることもあるかもしれません。しかし、イエス様は、私たちの最も醜い汚れた部分にさえ、あわれみの心をもって御手を差し伸べ、「わたしのこころだ。きよくなれ。」と仰って下さいます。イエス様は私たちの汚れに触れるのを厭われない。イエス様は、そういうお方なのです。それはすなわち、天の父のみこころでもあるのです。