礼拝説教要旨 2024年7月28日

でも、おことばですので

ルカの福音書5:1-11

<はじめに>

ここにはシモン、のちの使徒ペテロが、イエス様の弟子として召された経緯が記されています。今日はここから、私たち一人びとりがイエス様に召されたということについて、改めて教えられたいと思います。

<あらすじ①:(1-7節)>

「ゲネサレ湖」はガリラヤ湖の別名。シモンたちのホームグラウンド?ホームレイク?で、いつも漁をしていた湖ですから、いつの時期はどのあたりに魚がいるか、熟知している湖です。そこにイエス様が来られると、大勢の群衆がイエス様のお話を聞こうと押し迫まってきました。この頃には、あたり一帯はイエス様のうわさで持ち切りでした。それは単なる興味本位のうわさ話ではなく、彼らが待ち望んでいた救い主、神がついに約束の救い主キリストをお遣わし下さったのか、というある意味、信仰的な熱心の表われでもあったのでしょう。ところがこのとき、シモンはというと、そんな群衆の中にいたのではなく、ちょっと離れたところで商売道具の網をパシャパシャ洗っていました。シモンは、主のために何か熱く燃えていて、主に仕えるために自ら断食祈祷したりして、お声がかかるのを待っていた、というのではない。そんなことは考えたこともなかったでしょう。最初は、シモンはイエス様の話を聞こうと押し迫る群衆の中にもいなかった。イエス様のことは、関心がないわけではないけれども、仕事もあるし、そこまで熱心というわけでもない。ちょっと距離を置いていた感じでしょうか。そんなシモンに、まずイエス様のほうから、舟を少し出してくれと声をかけました。人々が押し迫っていたので、離れたところから話すため、また実際に現地に行った人によると、湖面から吹く風をバックに話すと、風に声が乗って遠くまで聞こえるそうです。自然の音響設備です。シモンはイエス様の求めに応じて舟を出しました。この時のシモンはまだ、イエス様への信仰のゆえというより、ただ頼まれて舟を出しただけでしょう。軽い気持ちで舟を出して差し上げた。そこから、シモンはイエス様の弟子となるという展開になるとは、人生、わからないものです。たまに、クリスチャンの奥さんを車で礼拝に連れてきて、最初は礼拝にも出ずにただ送り迎えだけしていたご主人が、やがて礼拝に出るようになり、イエス様を信じるようになったという話も聞きます。何気ない軽い気持ちで教会のお手伝からはじまって、あるいは何か関りができてそこから信仰に導かれる人もいるようです。何か、教会と関りを持ってもらうのも、イエス様がその機会を用いてくださるのかもしれません。

さて、ペテロは舟の上でイエス様の横でお話を聞いていたでしょうか。やがてお話が終わると、今度はイエス様はシモンに、深みに漕ぎ出し、網をおろして魚を捕りなさいと仰いました。ところが、シモンはついさっきまで、夜通し網を打ったけれども、一匹も捕れなかったのです。何で今日は一匹も捕れないんだと腹を立てながら、意地でも一匹捕るまで帰るか!と漁師としてのプライド、それに生来の負けず嫌いな性格もあり、気が付いたら徹夜になっていたのかもしれません。今の今までやってたけど、ダメだったんだから、ダメに決まってる。けれども、イエス様のおことばなので、一応、やってみます。おそらく、一応、従ってみたという程度でしょう。イエス様のおことばだから、必ずとれる!と確信があった訳では全然なく、ダメ元で、一応従ってみたという程度。前にシモンのお姑さんが病を癒してもらったから、義理があるから、イエス様がそうおっしゃるなら、やりましょう…くらいな気持ちだったのかもしれません。とにかく疲れた体を押してもう一度、イエス様のおことばに従って深みに漕ぎ出し、網を下ろしてみた。そしたら!シモンは目を疑うような光景を目の当たりにしたのです。網の中には、朝日を浴びてウロコを輝かせながらピチピチとはねる、活きのいい魚があふれるばかりに入っていました。なんと二艘の舟でも沈みそうなくらいの、見たこともない大漁…。ダメ元と思っても、イエス様のみことばに従ってやってみて、よかったのでした。

<あらすじ②:(8-11節)>

シモンはこれを見て大喜び!かと思いきや、シモンが見せたのは意外な反応でした。この光景を目の当たりにして、とっさに、シモンは何か神聖なものを感じて、イエス様の前にひれ伏したのです。シモンはこの湖を知り尽くしている漁師だからこそ、こんなことは絶対にあり得ない、とすぐにわかったのでしょう。海ならイワシ、サバ、アジなどの回遊魚がたまたま回ってきて…ということもあるかもしれませんが、湖ですからそんなことはありません。それが、イエス様の「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」ということばに、一応、従ってみたら、この結果です。イエス様のことばには、神の力がある。この方は、神から遣わされた、あるいは神がともにおられる聖なる方だと直感したのでしょう。シモンはイエス様の足もとにひれ伏して思わず言いました。「主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」とっさにこういう言葉が出て来るということは、シモンは、日頃から自分の罪深さを思うことがあったのでしょうか。神を聖なるお方として、神に対する正しい恐れというものも、もっていたのでしょうか。それこそ、神の目に尊い宝です。シモンは「私のような罪深い者から離れてください。」と自分からイエス様のもとから離れようとしましたが、そんな人をこそ、イエス様は決して見捨てないのです。「恐れることはない。」とやさしいことばをかけて、シモンを留めました。罪を悲しみ、嘆くところでこそ、キリストは最も親しく臨んで下さるのです。そして、そんなシモンに、というより、むしろ、そんなシモンだからこそ、でしょうか、「今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。イエス様に仕えて、人々に福音を宣べ伝え、神のもとに人々を立ち返らせる働きに召したのです。シモンたちはすべてを捨てて、イエス様に従いました。彼らはイエス様のことばには力がある、その通りになるという事実を実際に体験したので、ここで「あなたがたは人をとるようになる」とのイエス様のことばも疑うことなく、すぐに従ったのでしょう。その結果は、イエス様が仰った通り、彼らは大勢の人々に福音を伝え、多くの人々を主のもとにお連れすることになりました。

イエス様は、以後、数千年と続くキリスト教会の土台となる使徒として、普通の漁師さんを選びました。特別な宗教的な教育を受けた祭司やパリサイ人などの宗教的エリートでなく、また当時クムラン教団という、非常に熱心に修道院生活みたいなのを送っている人たちもいましたが、そういう人たちでなく、普通に生活している漁師シモンを選ばれました。それは、教会が、人間的な力や能力によって建てられるのではなく、ただ神の力によって、キリストご自身が建てられることをあかしすることでした。その原理は今も変わっていません。教会のかしらであるキリストは、様々な役割の人をお立てになり、人を通して教会を建て上げますが、その力の出どころはキリストご自身であり、信じる一人びとりのうちに働かれる聖霊の力によるのです。

<でも、おことばですので>

「 主よ御手もて 引かせ給え ただわが主の 道を歩まん 」新聖歌 384 番

以上、シモン・ペテロが、イエス様に従うようになった経緯を見ましたが、振り返ってみると、徹頭徹尾、イエス様がイニシアティブを取っておられるのがわかります。イエス様が、まず、イエス様の話を聞こうと集まっていた群衆から離れたところにいたシモンに「船を出してくれないか」と声をかけ、そしてさらにイエス様が「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい」とことばをかけて、イエス様のことばに従うことの結果を彼らに体験させた。そしてシモンが恐ろしくなって「離れてください」と身を引こうとした時にも、イエス様のほうから「恐れるな」と声をかけて彼をご自身のもとに留め、そして彼を弟子として召された。イエス様は、のちに弟子たちに向かって言いました。ヨハネ15:16。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命しました。」

その通り、弟子たちは、自分から名乗り出たのではなくて、イエス様がお選びになって、イエス様から召されて、弟子とされました。それはまた、使徒たちだけでなくて、教会に連なる私たち一人一人にもあてはまります。選ばれて、召されて、イエス様に従う者とされました。宣教師や牧師だけでなく、クリスチャンはみな、イエス様にお従いする者、イエス様のみことばにお従いするよう、召された者です。人は、神の口から出る一つ一つのことばによって生きると、ある通りです。

しかし、福音書を読むと、シモンは、私たちと同じ失敗もすれば、大失態をも演じてしまう普通の人です。そんな時に、主は、しまった、人選を失敗した、などと言って、途中放棄されたか。いや、主は、最初からすべてをお見通しで、腹の底まで、裏の裏まで、私たちが自分でも気づいていなかった部分まで全てご存じで、その上で召しておられます。主はシモンを忍耐し、教え、訓練し、途中で見放すことはありませんでした。私たちは不真実であっても、召した方のご真実は、変わることがありませんでした。私たちの救いの根拠は、神の側の選びにあるのです。だからそこが揺るぐことは決してないのです。(私たちごときが滑っても転んでも、ひっくり返っても、ビクともしない。)

さて、イニシアチブを取られるのは主。ならば、私たちに求められていることは、何でしょう?それはみことばへの従順です。

5節をもう一度、読みます。「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』」以前やって、一生懸命がんばってやったけど、ダメだった。でも、イエス様のおことばですので、とやってみる従順。同じことは、前にさんざんやったけど、ダメでしたから、やりません、ではなく、でも、イエス様が仰るなら、おことばですので、とやってみる。何度でも。やること自体は同じでも、イエス様のことばなしでやるのと、イエス様が語られたのでやる、というのとでは、結果は違うのでしょう。(モーセも40歳の時、同胞を助けるために立ち上がりましたが、それは尊い志でしたが、そのときは失敗しました。そしてその40年後、再び、立ち上がりましたが、今度は主の召しによって、むしろしり込みしているモーセを励まして、立ち上がらせて下さり、出エジプトを成し遂げられました。)

シモンの時代と違って、今はイエス様は天におられます。直接、御声を聞くことはできません。どのようにイエス様は語られるのでしょうか。聖霊によってです。聖霊は、祈りとみことばを用いられます。礼拝や個人的なデボーションを通して聖霊が示して下さいます。キリストを信じている人には、聖霊が住んでおられるので、聖霊が祈りとみことばを用いて、主のみこころを私たちの心に示して下さいます。たとえば、ある日の礼拝で、「赦しなさい」というところが心に迫ってきたときに、「おことばですが…」と言いたい気持ちをおさえて、「でも、おことばなので、やってみましょう。」と従ってみる。あの人、この人に福音を伝えなさいと主が導いているように感じる。今までも何度もやっているし、そんなことをしても無駄だと思いますが、でも、おことばですので、やってみましょう、と従う。

最後に、この時、イエス様のみことばに従って与えられた奇跡的な大漁は、のちにペテロが人を取る漁師となってからの働きの結果を表わすようです。今日、私たちの教会に、イエス様が語りかけてくださっていることは、何でしょうか。イエス様は、どこに漕ぎ出して、網を下ろすようにと導いておられるのか。イエス様が示しておられる深みへと漕ぎ出して、福音の網を下ろしたいものです。考えてみると、シモンが魚を作ったわけではありません。そこにいる魚を、イエス様の指示に従って網をおろしたら、捕れたのです。それと同じように、私たちがクリスチャンを作るのではありません。はじめからそこにいる、救いに定められていた神の民に福音を告げると、その人は(時が来たら)信じて、この世という巨大な湖から、神の国へと移されるのです。救われる魂はすでに私たちのまわりにいるのです。使徒の働き18:9-10 新約p.272

18:9 ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」