礼拝説教要旨 2024年7月21日

神の国の福音を

ルカの福音書4:31-44

<はじめに>

前回は、イエス様が救い主に任職されてから初めて、故郷ナザレに戻ったときのエピソードを見ました。いつもように安息日に会堂に来て礼拝をささげていたイエス様は、ご自分が「主の恵みの年を告げるために」(19節)主から遣わされたと宣言されました。それは最初の人アダムが神に背いて以来、神の御前から追放され、神なき世界で罪と死の牢獄に捕らわれの身となった人類に、待ちに待った赦免を、解放を告げるものでした。はるか昔から、神が約束しておられた、罪びとを悲惨の牢獄から解放するという、主の恵みの日が、今、ついに来た、とイエス様は告知されたのでした。しかし残念ながら、ナザレでは受け入れられませんでした。それでイエス様はカペナウムという町へ行かれて、そこで主の恵みの年の到来を告げられました。そしてイエス様は、神に正式に救い主と任職されていたので、そのことばには神の権威が伴っていました。悪霊を叱りつければ、悪霊は出て行き、熱を叱りつければ、熱が出て行く。人々を虐げていたものを次々と追い出して、人々に主の恵みの年が来たことを証しされました。今日の個所はそのような場面です。

<あらすじ①:悪霊を追い出す権威(31-37節)>

今日の舞台のカペナウムは、ナザレから北東に約40km、ガリラヤ湖の北西岸に位置して、ローマ軍の駐留地であり、収税所もあった比較的栄えていた地方都市といった町でした。イエス様はここをガリラヤ宣教の基地とされて、多くの人々の病を癒し、悪霊につかれていた人を解放し、また会堂で、山で、野原で、教えられました。で、人々はイエス様の教えに権威が伴っていることに驚いたと言います(32節)。その実例として、33節以下、今の日本では、テレビや映画の中でしか、こういう場面に出くわすことはないかと思いますが、イエス様が悪霊につかれた人から悪霊を追い出した記事です。

ちなみに、悪霊というのが福音書によく出てきます。この分厚い聖書で、他のところにも少し出てきますが、ほとんどが福音書に集中しています。神の子が来られて、自分たちの滅びが近いことを感じて、じっとしていられず、活発に暴れ回ったのでしょうか。聖なる方が来られるのに、汚れた霊は耐えられない。部屋の中でバルサンを焚くと、ゴキブリが苦しくてたまらず、ワサワサッと出てくるように、悪霊もそうなのでしょうか。世の終わりが近づくと、それまで隠れていたのが、また出てきて悪さをするのかもしれません。今日でも、こういうことが全くないわけではないようで、たまにこれに類する話は耳にはします。

このときも、悪霊につかれた人は、「ああ、ナザレ人イエスよ。私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか、知っています。神の聖者です。」と自らの滅びを直感して叫びました。それに対してイエス様は「黙れ。この人から出て行け。」と𠮟りつけると、悪霊はその人を地面に投げ倒して、出て行きました。もちろん、その人には何の害もありませんでした。人々はこれを目撃して、「このことばは何だ。権威と力をもって命じると、汚れた霊が出て行くとは。」と驚いたのでした。「虐げられている人を自由にする」主の恵みの年の到来を証しする出来事でした。

それにしても、この悪霊につかれていた人は、家族に連れて来られたのか、あるいは自分で、悪霊につかれて苦しみながらも、救いを求めて来たのか。それとも、いつも礼拝に来ていたけれども、このとき、イエス様が来て初めて悪霊が正体を現したのか、わかりませんが、とにかくこの人も礼拝に来ていた。それが、本当によかったのです。それも聖霊の導きだったのでしょう。ともかく礼拝に来ていたおかげで、この人はキリストに出会い、解放されました。彼はこの時から、悪霊から解放された新しい人生を歩むことができました。礼拝は、神に出会う場、キリストに出会う場です。それが礼拝の、一番の根本的な意義です。ですから、礼拝に来る時には、神ご自身を慕い求めて来ましょう。

<あらすじ②:病を追い出す権威(38-39節)>

その悪霊を追い出した礼拝の後、イエス様一行は、シモンの家に行きました。お昼を呼ばれに行かれたのでしょう。シモンは、のちにペテロと呼ばれる十二使徒のひとりです。彼は、お姑さんといっしょに暮らしていました(38節)。ここから、彼は結婚していたことがわかります。で、彼の家に、安息日の午後、イエス様が来られました。イエス様は、教会の中だけに閉じこもっておられる方ではない。家にも来て下さる。家にも迎えるべきお方。いやいや、イエス様には、教会の中だけで結構です、家まで来られると、ちょっと都合の悪いこともあるんで…と門前払いしてはいけません。見せたくないところこそ、イエス様に見て頂く必要があるのかもしれません。キリストが来られる所、そこに主の恵みの年が始まるのです。家でも、イエス様を主と仰ぎ、賛美する。聖書を開いて、イエス様からみことばを頂く。ぜひ、それぞれの所でも、イエス様を歓迎して下さい。

この時、イエス様がシモンの家に入ると、お姑さんがひどい熱で寝込んでいた。ここにも、罪の世の現実があった。もちろん、お姑さんが何か悪いことをしたからという意味ではなく、アダムの罪の結果、世に苦しみがあふれているということです。そこにいた人々は、高熱で苦しむ彼女のために、イエス様にお願いしました。すると、イエス様は、まずお姑さんの枕元に来て下さいました。この日、病気で会堂の礼拝に出られなかったお姑さんの枕元に、イエス様の方から来て下さった。そして、熱を叱りつけると、熱は引きました。イエス様のことばは、悪霊に対してだけでなく、熱病に対しても権威あるものでした。イエス様は、ここでも、人々を虐げているものから解放して下さいました。

さて、こうして熱病を癒されたお姑さんは、その後どうしたか。すぐに立ち上がって彼らをもてなし始めました。癒して頂いた感謝と、健康になった喜びから、自然とイエス様たちに仕えようと、身体が動いたのでしょう。「もてなし始めた」とある所、米印がついていて、欄外注にはあるいは「仕え始めた」とあります。いわば奉仕です。ここに、奉仕の原点を見ることができます。私たちがイエス様に対して捧げる奉仕は、頂いた恵みに対する感謝の応答としてなされるものです。また、癒されてから、健康になってから仕え始めたということも、心に留めておくべき大切な点です。病んでいる状態の人に、無理やり「根性で、信仰で、奉仕しなさい」などとイエス様は仰いません。まず癒されること。ですから、「あの人、奉仕をしていない」などと指さすのは、罪です。奉仕は、主とその人との関係でなされるものです。人がとやかく言うものではありません。ローマ14:4、新約p. 320。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人(イエス様)次第です。

人には、外から見ただけではわからない傷もあるのです。

<あらすじ③:イエス様の優先順位(40-44節)>

以上、悪霊追い出しと病の癒しのうわさは、光速で?広がりました。その日の夕方です。日が沈むと、うわさを聞き付けた大勢の人々が、様々な病で弱っている者をかかえて、イエス様の所に来ました(40節)。当時、安息日には何もしてはいけないことになっていて、またイスラエルでは、夕方から次の日の夕方までを一日と数えていたので、日が暮れて、安息日が終わるのを今か今かと待って、日が暮れると、それ!と押し寄せてきたのでしょう。それに対してイエス様は、一人ひとりに手を置いて癒してあげました。また悪霊につかれた人たちも連れて来られては、悪霊が「あなたこそ、神の子です。」と叫んで出て行きました。それまで苦しめられていた本人、家族にとって、どれほどうれしかったでしょう。その人たちにとって、主の恵みの年が始まりました。なお、イエス様は、彼らがものを言うのをお許しにならなかった、イエスがキリストであることを彼らが知っていたから、とあるのは、悪霊どもがイエス様の神聖な御名を口にするのはふさわしくないから、とか、まだそのときではなかったから、と注解書には書いてありました。

こうしてこの日は夜遅くまで人々を悪霊や病から解放したイエス様。さぞかしお疲れと思いますが、翌朝早く、ほかの福音書によるとまだ暗いうちに、寂しい所に行きました。天の父と祈りのときを持つためです。天の父との交わりがイエス様の力の源であり、正しい判断をするために、欠かせないことだったのだと思います(ヨハネ5:19-20,30)。人生はある意味、判断の連続ですが、朝の祈りのメリットの一つは、こうして祈りによって神との交わりを持つことによって、その日一日、正しい判断をしやすいように整えられることです。朝、ちゃんとお祈りしたら、何か良いことがあるとか、オツトメをしないとバチが当たるとかいう問題ではなく、神と交わりを持つことによって、魂を整えられることです。

こうしてイエス様は祈りのうちに、ご自身の使命を改めて確信してでしょう。群衆は、イエス様を手放したくなくて、裾をつかんで何とか引き留めようとしましたが、イエス様は彼らの懇願を振り切って、言われました。43節「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」ここには、イエス様の優先順位が明らかにされています。イエス様が御父から与えられた第一の使命は、神の国の福音を宣べ伝えること。「主の恵みの年を告げる」こと。これです。なぜか。この方がはるかに重要だからです。地上のいのちにはるかにまさる永遠のいのちがかかっているからです。病は癒されても、人はいつかは死にます。死んだあと、そのままでは永遠の苦しみです。地獄です。だから、福音宣教が優先なのです。どちらが愛のある正しい判断か、明らかです。福音の価値を正しく理解しましょう。

イエス様の優先順位は、教会の優先順位です。教会がイエス様から託されている第一の使命は福音宣教。福祉活動、その他憐れみのわざも大切です。イエス様もそれもしました。教会もそれも行ないます。ただ、福音を宣べ伝えることは教会にしかできないことです。

「 いざ助けよ 汝が友を イエスは救わん 愛もて 」新聖歌 435 番

繰り返しになりますが、最初の人アダムが罪を犯して以降、人はみな、罪と死の牢獄に閉じ込められた状態です。聖書によると、死は罪の結果。すべての人は、罪の結果である死の刑罰につながれています。ですから、生まれながらの人間は、あたかも牢獄で、刑の執行を順番に待つ囚人のようです。一人、また一人と順番にその時が来ます。ところが、そんな牢獄につながれていた囚人に、イエス様は赦免をもたらしてくれたのです。天の神の決定として、この良い知らせを告げ知らせて下さった。もちろん、罪ある者が赦されるために、御子キリストご自身が私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかって、刑罰を受けるという犠牲を払ってのことです。しかし、そのことには触れずに、イエス様は赦免の良い知らせを告げ知らせます。キリストを信じた者は罪と死の牢獄から解放され、神に受け入れられて、永遠に神の恵みのうちに生きる、すなわち神の国に生きる者となることができる。

福音宣教とは、この主の恵みの年の到来を人々に告げ知らせることです。今もイエス様は天で生きておられて、そこから御霊とともに教会を、私たちを世に遣わして、福音を告げ知らせよとお命じになっています。この主からの使命を確認しましょう。マタイ28:18-20。

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」