「イエス・キリスト」という言い方がよくされるので、「イエス」が名で「キリスト」が姓と誤解している方が多いと思います。実は「イエス」が名で、「キリスト」は職務名です。これは「油注がれた者」という意味のギリシャ語で、元は旧約聖書が書かれたヘブル語では「メシア」「メサイア」でした。ヘンデルのメサイアのメサイアです。昔、イスラエルでは、王や祭司や預言者に任職するときに、頭から油を注ぎました。その油は神の霊(御霊、聖霊と言う。)を表わしていました。それらの務めに任じられる時に、神がその職務を遂行するのに必要な力を与えて下さることを表しています。で、いつしか、メシア=油注がれた者と言えば、神がお遣わしになるとずっと昔から約束されていた救い主を表わすようになりました。その救い主をあらわす「メシア」が、新約聖書が書かれたギリシャ語に翻訳されて「キリスト」となったという次第です。
そのキリストという名の通り、3章では天から聖霊がイエス様の上に降りて来られたことを見ました。イエス様が、救い主=キリストとして任職されたということでした。
今日はイエス様がそのキリストに任職されてから、初めて故郷ナザレ村に帰ったときのエピソードです。
イエス様は安息日(神を礼拝する日と定められていた日)にいつものように会堂に入りました。ちょうど皆さんがこうして集まって神を礼拝しているように。当時は、まず聖書の中の律法という所から一部読んで、その後で預言書という所から一部読むことになっていたと言われます。で、預言書を朗読する段になって、その時にイエス様が預言書を朗読しようとして立つと、預言者イザヤの書が渡されました。当時は巻物だったので、それを左手で持って、右手で開きながら巻き取るようにして読んだそうです。イエス様の目に留まったのはイザヤ書61:1-2で、そこには次のように書いてありました(ギリシャ語訳聖書、自由引用)。「主の御霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」ここの「貧しい人々」は文字通りの経済的に貧しい人のことでなく、私たち罪びとのことを表します。最初の人アダムが神に罪を犯して以来、人は神の御前から追放された世界に住むようになり、すべての人が神の恵みに窮乏しているのです。そんな人々に良い知らせを伝えるために、イエス様は遣わされました。
その「良い知らせ」の内容が続きます。「捕らわれ人には解放を」「解放」は第三版では「赦免」。最初の人アダムが罪を犯して以降、人はみな、罪と死の牢獄に閉じ込められた状態。実際、死なない人はいません。聖書によると、死は罪の結果。すべての人は、罪の結果である死の刑罰につながれています。そしてもっと恐ろしいのは、死後に待っているさばき、そして地獄です。ですから、あたかも刑の執行を待つ牢獄に閉じ込められているかのようです。生まれながらの人間はすべて。ところが、その牢獄に閉じ込められていた囚人に、イエス様は赦免をもたらしてくれたのです。何とありがたい!ローマ書8:1、新約pp. 308-309。
キリストがくださったのは、完全な赦免です。それにより、信じた者は罪と死の牢獄から完全に解放されました。地獄から天国への大転換。死すべき者、滅ぶべき者から永遠のいのちへの新生です。これ以上の良い知らせはありません。
次は「目の見えない人には目の開かれること」。イエス様はのちに、文字通り目の見えない人の目を開けますが、これも霊的な意味にとって、神から離れた私たち人間は、神が見えず、神の恵み深さ、神の偉大さ、神が義なる方であること、ゆえにさばきがあることなど、真理が見えなくなっています。また自分自身のことも、自分の罪も、見えなくなっているでしょうか。見たくないものは見ない。聞きたくないものは聞かない。言いたくないことは言わない。どこかのお猿さんのように…?小林一茶が死期を目前にして詠んだ一句「今までは 人のことだと思ったに 俺が死ぬとは こいつはたまらぬ」これほどあきらかな事実も、そのときが来るまでは他人事。見たくないことは見えない。しかしイエス様は、私たちの霊の目を開いて、神のこと、真理を見えるようにして下さいます。少なくとも、イエス様を信じた人は、神がこの上なく義なる方、聖なる方であると同時に、この上なく恵み深く、あわれみ深く、私たちを愛しておられ、罪ある私たちのために大切な御子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださったことに、目が開かれたはずです。この事実に目が開かれたら、世界が一変するでしょう。闇から光へと変わります。
そして「虐げられている人を自由の身とし」人は罪の奴隷だと聖書は教えています。罪という横暴で残忍な主人に容赦なく虐げられている奴隷。悪いこと、正しくないことと知りながら、それをやめられない。逆に正しいことと知りながら、それができない。誰かの言っていることが正しいとわかっていても、それを素直に聞き入れることができない。それらの結果は、わが身にさらなる苦しみを招くでしょう。しかしイエス様は、そんな罪の奴隷状態から自由の身にしてくださいます。キリストを信じた者は、もはや罪の奴隷ではなく、神に愛されている子です。義の道に歩めるようにと、聖霊を与えられています。もちろん完全ということはありません。しかし、心の一新によって、神に従っていこうと決心しているならば、罪の赦しは無限に与えられて尽きることがありません。完全な赦しの中に丸ごとすっぽり入れられているのですから、焦る必要はありません。みことばと聖霊の助けによって、少しずつ、罪からきよめられていく幸いを味わわせて頂きましょう。それまで凝り固まっていた罪の垢が取れて行って、私たちが少しずつ神の子の姿を回復していくのは、天の父にとっても大きな喜びに違いありません。
そして最後19節「主の恵みの年を告げるために。」ここの「恵みの」と訳された語は、「喜んで受け入れられる」というニュアンスの語だそうです(22節の「恵み」とは違う語)。主が喜んで私たちを受け入れてくださるという、そういう喜ばしい恵みの年です。救いという語を私たちはよく使いますが、救いとは何でしょう。それは、神に受け入れられることです。万物の創造者である神、いのちの源である神、あらゆる祝福の与え手である神に受け入れられること。罪によって、神から断絶してしまったことが、すべての悲惨、悲劇の元、死もその結果なのですから、神に受け入れられることが救いであって、それは私たち人間にとって永遠のいのち、神の永遠の祝福のうちに生きることになります。主の恵みの年は主に喜んで受け入れて頂くという、救いの年が来たということです。
それからもう一つ、「告げる」と訳された語は、公に告知するという意味あいです。たとえば、王がお触れを出して、それを伝令が各地へと伝えるような。たとえば、私が「明日から消費税ゼロにします」と言っても、それには何の効力もありませんが、しかるべきところで正式に決定して、それを告知したのなら効力があります。そのように、神は「私たちを喜んで受け入れてくださる」ということを公に告知するために、イエス様を遣わしたのです。死の牢獄、目の見えない状態、虐げられている者…そこに赦免、視力の回復、自由の身とすることを、王である神が正式に宣言、告知したということです。だから効力があるのです。福音宣教とは、この全宇宙の王である神の決定を人々に告げ知らせることです。神の決定ですから効力があるのです。誰が伝えても効力があるのです。福音は、私が言っていることではなくて、神が宣言されたことです。そして信じる者は誰でも、その効力にあずかるのです。だから、キリストの福音は、全世界に、全地の隅々まで伝えられる必要があるのです。
以上、預言者イザヤの書を朗読して、イエス様は「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のみことばが実現しました。」と言われました。主の恵みの年が来た、主が喜んであなた方を受け入れる年が来た、とイエス様は主から遣わされて、告げたのです。この預言通りに。ところが、故郷の人々は、つまづいてしまいました。
彼らは、イエス様の口から出てくる恵みのことばに驚きました。しかし、喜びや感動を伴う驚きというよりは、なんでこいつが…というような驚きだったようです。イエス様を、神から遣わされたキリストと認めずに、なんであのヨセフんとこの坊主が…としか、見れなかった。イエス様をキリストと信じる信仰がなかったのです。その信仰なしに、キリストのみわざを受けることはできません。彼らは、イエス様が周囲の町や村で行った病人を癒したように、ここでもやれと、要求しようとしました。「医者よ。自分を直せ。」ということわざを引いて、ほかの町の面倒ばかり見ていないで、自分の村の人たちを癒せと。それに対する、イエス様の答えは24節「まことに、あなたがたに言います。預言者だれも、自分の郷里では歓迎されません。」ここの「歓迎する」という語は、実は19節の「恵みの」と訳された語と同じ語です。なので、神は人々を「喜んで受け入れる」と、キリストを遣わしたのに、人々の方がそのキリストを「受け入れない」という皮肉です。彼らはイエス様を、キリストとしてではなく、あくまでも昔から知っているイエスとしてしか、認めようとしなかった。同郷なんだから、俺たちはヨセフが亡くなった後、何かとお前の家を助けてきたんだから、と人間的なつながりで、奇跡を行うことを要求しようとした。それではキリストとしてのみわざは行えない。イエス様は彼らの不信仰のゆえに、奇跡を行えませんでした。
25節以下、イエス様は旧約聖書の記事を引用しました。25—26節は、第一列王記17章以下の記事。エリヤという、旧約聖書最大の預言者と言われる人の時代、イスラエルは深刻な不信仰の時代で、ために二、三年天が閉じられ雨が降らない時があった。その大飢饉の時、エリヤは外国シドンのツアレファテという所にいたやもめに遣わされた。実は、その女も貧しくて、かめの中の最後の小麦粉と、壺にほんのわずか残った油で、最後のパンを作って焼き、子どもと自分で食べて、あとは死ぬのを待つばかり、という状況でした。で、その女にエリヤが「私に一口のパンをください。主が地の上に雨を降らせるまでは、あなたのかめの粉は尽きず、つぼの油はなくならないから。」と言うと、彼女はエリヤのことばを信じた。そして彼女は、可愛い我が子とともに、大飢饉の中、使っても使っても小麦粉がなくならないかめと、油がなくならない壺を与えられて、飢えから救われました。イスラエル人の不信仰と外国人の信仰が対照的に記されていました。
27節は、同じく旧約聖書の第二列王記5章の記事。預言者エリシャは、先のエリヤの弟子で、イスラエルは不信仰の時代でした。その時、イスラエルの中のツァラアト(重い皮膚病の一種)に冒された人はきよめられず、ただ不思議な導きでエリシャのもとに来た異邦人、シリヤ人ナアマンという人だけが、きよめられた記事があります。これも、背信のイスラエルに対して、預言者エリシャのことばを信じて従ったシリヤ人の信仰が対照的です。救いの恵みを受けたのは、信仰を持って預言者を受け入れた異邦人の方でした。それと同じように、この地元では、彼らの不信仰のゆえに、恵みを取り上げられてしまうというのです。イエス様にとっても、これはどれほど残念だったでしょう。
これを聞いた人々は激しく怒りました。人間的なつながりで、あるいは恩の貸し借りで、当然見返りを期待していたら、そうはならなかったときに、人は怒ります。つれない、冷たい、恩知らず。それとこれとは、違うのですが、その道理がわからない。しかし、この期に及んででも、もし彼らがイエス様の話を聞いて、自分たちも不信仰だったと、悔い改めたら、イエス様は喜んで恵みのみわざをしたはずです。ところが、彼らは悔い改めるどころか、頭から湯気を出して、鼻息を荒くして、崖から突き落とそうとしたというのです。ダメだこりゃ、です。ガリラヤ地方の人々は気性が荒いことで有名だそうですが、神が彼らの心にブレーキをかけたのでしょうか。イエス様は彼らの真ん中を通って去って行きました。
ナザレの人たちは「主の恵みの年」が来ているのに、その恵みを受けることができませんでした。残念なことでした。イエス・キリストを、神から遣わされた救い主として心に迎え入れるなら、その時から、その人に「主の恵みの年」が始まります。今日、信じるなら、今日からその人には「主の恵みの年」が始まります。すでに信じている人は、「主の恵みの年」の中に生きています。感謝しましょう。第二コリント6:2、新約p. 362