礼拝説教要旨 2024年7月7日

試みにあわれた救い主

ルカの福音書4:1-15

<はじめに:試みとは?>

毎週、礼拝の中で一同で祈っている「主の祈り」の中に、「私たちを 試みにあわせないで 悪からお救いください。」とありますが、改めて「試み」とは何でしょう。試み、試されること。何を試されるのか。一般的には、試練という言葉から連想するような、苦難にあって、それに耐え抜くかどうか、乗り越えるかどうか、を試される。あるいは、悪に誘う誘惑にあったときに、それに負けないかどうか、試される。試練にしても、誘惑にしても、それに負けない強さを試されるのでしょうか。人生にはそういう試みというものが、あるのではないでしょうか。ただ、聖書の言う試みは、それとは違うように思います。単に苦しみに耐える、誘惑に負けないというのでなく、私たちが、神のみことばにとどまるか、どうか、あるいは、神のみことばに従うか、どうか、これを試みるものです。この世界を造られた神、すべての息のある者にいのちを与え、支えておられるいのちの源である神。慈しみ深く、真実な神のことばは、私たちにいのちの道を歩ませるものです。神は人を、そのいのちの道に歩むように、ご自身のみことばの道を歩む者として、お造りになりました。それは私たちを様々な危険から、人生の罠から守り、この世のいのちを育むものであるとともに、永遠のいのちに至る道であると、聖書は教えています。いのちの源である神のことばにとどまるということは、私たち自身のいのちを守り、永遠のいのちに導くものです。

ところが、世には、私たちが神のみことばの道を歩むのを、邪魔しようとする者がいると、聖書は注意を促します。2節「(イエス様は)悪魔の試みを受けられた」とありました。悪魔は、神のみことばの道から人を踏みはずさせようと、おびき出そうとする者です。たとえば、迫害、誘惑、試練を通して、人が弱っている所に近付いてきて、背信の道へ、罪の道へ、滅びの道へと誘い出そうとします。このときも、悪魔は四十日の断食で弱っているイエス様を神の御心から踏みはずさせようと、近づいてきました。

<あらすじ>

前の3章で、天から聖霊を注がれて、イエス様は神から遣わされた救い主として、公に任職されました。救い主としての歩みが始まります。イエス様は、聖霊に満ちてヨルダン(洗礼を受けた場所)から帰られ、そして御霊によって荒野に導かれて、そこで四十日間、悪魔の試みにあわれました。悪魔というと、トンガリ帽子をかぶって、しっぽが針みたいにとんがっている、バイキンマンみたいなのを思い浮かべるかもしれませんが、実物はそんなかわいらしいものではないようです。そもそも霊なので、決まった姿かたちはないと思われます。悪魔はサタンとも呼ばれ、それは「敵対する者」の意味です。神に敵対する者です。それで、神のすばらしい救いのご計画を妨害しようとします。ここでも悪魔は、救い主として任職されたイエス様を、さっそくつぶしに来たのでしょう。2節「試み」は脚注「誘惑」。神のみことばに従う道を一歩もそれることなく歩んでいるイエス様を、巧みな言葉で誘惑して、そこからおびき出して、神のみことばの道から一歩でも外に踏み出させたら、サタンの勝ち。イエス様は救い主として失格となります。それを企むサタン、驚くほど悪知恵に富む、根っからの悪者、人間の弱みを知り尽くしているサタンは、大胆にもイエス様に近付いて、三回にわたってイエス様を試みます。

第一の試み。イエス様は四十日間、食べ物を口にしなかったと言います。四十日間何も食べないと言ったら、これは人間にとって限界状況です。人間にとって最もキツイ試みではないかと思います。その四十日が終わって、空腹を覚えたところに、悪魔が近づいてきて誘惑したのです。「お前は神の子だというが、お前の父なる神は、お前のことを忘れてるんじゃないのか?ほったらかしにされているんじゃないのか?天の神なんかあてにしてないで、自分でさっさと石をパンにしたらどうだ?」と。イエス様は全宇宙を造られた神の御子ですから、石をパンにすることくらい、それこそ朝飯前です。しかし、私たちの救い主となるために、神の御子は完全に私たちと同じ人間になりきらなければいけませんでした。もしここで、神としての力を発揮して、自分のために石をパンに変えてしまったら、それは人となりきることができなかったことになります。イエス様は救い主として多くの人たちの病を癒したり、悪霊につかれた人たちから悪霊を追い出したり、おなかをすかせた群衆のために5つのパンと2匹の魚を増やして満腹にするという奇跡を行われましたが、自分のためにはその神としての力を捨てきって、私たちと同じ条件で、悪魔の試みを受けなければいけなかったのです。ただ天の父に信頼することに徹しなければいけなかったのです。

イエス様は、悪魔の誘惑に対して、聖書のみことばを引用して応戦しました。旧約聖書の申命記8:3(旧約p. 329)「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」そして元の申命記の方では続けて、「人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きる」とあります。パン、食糧は、もちろん必要ですが、それだけで、人は、生きるものでもありません。本能に従って食欲を満たすだけなら、動物と同じ。しかし「人は」身体の必要が満たされればそれでいいのではなく、先ほど言いましたように、神のみことばに従って生きるように造られた者です。そこに人として、人だけが持つ尊厳、栄誉がありました。このとき、イエス様は救い主として、人間になりきるという神のみこころに従っていたのですから、イエス様は、パンよりも優先させるべきことがあると示すべく「人は、パンだけで生きるのではない」と申命記のみことばを示されたのでしょう。イエス様は、みことばによって生きるという、その道からそれなかった。そこに留まられました。第一ラウンド、イエス様の勝ち。

続いて第二ラウンド。悪魔はイエス様を(おそらく幻の中で)高いところに連れて行き、世界中の国々を見せました。そして我が輩を拝めば、この世界中の国々の権力と栄光をみな、お前に授けよう、と言いました。悪魔が射かけた二の矢は、権力欲、名誉欲を刺激するものでした。悪魔のこれまでの経験から、先の食欲と並んで、ここをつっつけば、ほとんどすべての人がコロリといったのでしょう。イエス様も、神の国の王として世に来たのだから、王としての権力、名誉が欲しいだろうと踏んだのか。「私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものになる」と露骨に迫りました。名誉、権力のために、悪魔にひれ伏す人、悪魔に魂を売り渡す人、信仰を捨てる人、神を捨てる人、そして悲惨な結末を迎えた人…。

しかも、悪魔は狡猾です。言葉で言うだけでなく、見せています。いやらしい。ダイエットしている人の前に、いかにも美味しそうなごちそうを見せたら、言葉だけで誘惑するよりはるかに効くでしょう。ケーキとか、牛丼とか…。多くの誘惑は、言葉だけよりも、目とか臭いとか、感覚に訴えるほうが強力です。しかし我らがイエス様は、きらびやかな世の栄耀栄華を見せられても、ここでもみことばをもって、悪魔の誘惑を退けました。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(申命記6:13)そのものズバリのみことばで応戦。イエス様はもちろん、悪魔を拝みませんでした。みことばのうちに留まりました。これで第二ラウンドもイエス様の勝ち。

最後、第三ラウンド。今度は悪魔はイエス様を(おそらくこれも幻の中で)エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言いました。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。」神の子だったら、これくらいのこと、できるだろう、やってみろ、と挑発します。頭に血が上りやすい人なら、おう、やってやるよ、それくらい、なめんなよ、とまんまと悪魔の術中にはまりそうです。しかも、悪魔は今度は、聖書のみことばを使ってきました。「『神は、あなたのために御使いに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。』と書いてある。」(詩篇91:11-12)お前はさっきから、聖書、聖書と言っているが、だったら聖書にこう書いてあるのだから、さあ、やれと。悪魔も、聖書のみことばを利用することがあるようです。みことばの間違った解釈、間違った適用で道を誤らせる。異端がそうです。異端は、聖書の一部だけ取り出して、自分たちの主張を正当化しようとします。聖書は全体として理解する必要があります。そこに神学の必要性があります。

この時、サタンは、みことばを利用してイエス様をそそのかしましたが、イエス様には通用しませんでした。イエス様はここでも、聖書のみことばによって退けました。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」(申命記6:16)。悪魔の挑発に乗りませんでした。神のみことばの道に留まりました。第3ラウンドもイエス様の勝ちです。

以上、悪魔は手を尽くした挙げ句、イエス様をみことばに従う道から踏みはずさせることはできず、しっぽ巻いて逃げていきました。イエス様の完全勝利。悪魔は本気でイエス様をつぶしに来ましたが、誘惑にかけては右に出るものはいない悪魔が三度もやってもことごとく跳ね返されたということで、かえってイエス様が完全な救い主であることを証明することになりました。悪魔は、地団駄踏んで悔しがったことでしょう。そしてこの試みを経て、さらにイエス様はパワーアップしたのでしょうか。御霊の力を帯びてガリラヤに帰られると、評判が周辺一帯に広がり、また会堂で人々を教え、すべての人に称賛されました。

神のみことばにとどまるということは、突き詰めると、神を信頼するということ。神を信頼するから、神のことばに従い、とどまるのでしょう。世界を造られた神、私たちにいのちを与え、支えておられる神、私たちのいのちの源である神が、良い方で、決して裏切らないと、どんな状況、逆境の中でもーそれこそ、人生の荒野の中でもーこの神に全幅の信頼を置くことができたら、それはその人にとって大きな力となるでしょう。そして具体的に聖書に記されている神のことばに生きる道を歩むなら、神が約束している祝福にあずかるでしょう。たとえ、みことばに従うことに何度失敗しても、転んでも、その道を歩むと心の一新によって決めているならば、救い主は喜んで無限に赦しを与えて、応援して下さいます。

<試みにあわれた救い主>

「 われらの弱きを 知りて憐れむ 」新聖歌 209 番

最後に、今日は2つのことをおさえておきたいと思います。

一、信仰の戦いとは、みことばにとどまることの戦いです。腕力とか、気の強さとか、根性でなく、みことばに親しむことによって、勝利する戦いです。ですから、イエス様が三回が三回とも、みことばをもってサタンの誘惑を退けたように、私たちもみことばに親しみ、みことばをたくさん心に蓄えておくことが、試みに勝利する上で最善の備えです。試みに勝利するたびに、ますます神のみことばの真実を体験し、確信が増し加えられるでしょう。

二、イエス様が試みを受けたのは、私たち人間と同じように試みにあうためでもありました。ヘブル書2:17-18、新約p. 439。

2:17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。…
2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

イエス様は、本来は永遠の神の御子ですけども、私たちと同じ身体を持ってくださったので、食べなければお腹がすき、力も出なくなりました。身体を持つ者にとって、ひもじいということがどんなことかを体験なさった。また、イエス様は貧しい家庭に生まれましたから、いわゆる生活の苦労というものも、身をもって体験したでしょう。ほかの点でも、私たち身体を持つ者が、この地上にあって、-天国ではない、この罪の渦巻き、サタンの暗躍する地上にあって-生きるということが、どういうことか、どういう試みを受けるのか、身をもって体験してくださったのでした。だから、私たちが試みにある時にも、適切に助けて下さる事がおできになるのです。

イエス様ご自身は、悪魔の誘惑に完全に勝利されました。しかし、私たちを蔑まれない。ドヤ顔で威張らない。私たちの弱さに同情し、執り成し、助けてくださる、憐れみ深い大祭司でいらっしゃいます。地上の歩みには試みがありますが、私たちには、この大祭司イエス様が天におられるということを、ゆめゆめ忘れることのないように。この大祭司イエス様から助けを頂き、またこのお方に信頼して、神の子どもとして歩んでいきましょう。