聖書は、この世界は神によって造られたと教えます。また、この地球は人や動物たちの住みかとして整えられたと言います。芸術家の心にあるものは、その作品に表れるように、この世界が神の作品だとすると、そこには神のお心が表れているはずです。当たり前のように見ていた自然界も、改めて考えてみれば、そこにはこれを造られたお方の慈しみ、いのちを慈しむお心が見て取れます。今日はそのことを見ていきたいと思います。
10-12節。水が小川となって、山々を流れ、動物たちの渇きを癒されることが描かれています。家畜なら、人が飲ませるわけですが、そうではない野生の動物たちも、神がこうして水を飲ませている。人間のあずかり知らないところでも、神が動物を養う営みは黙々となされています。それも一匹二匹ではない、多くの動物たちを。また木々もその水を吸い上げて生長し、枝を張って、空の鳥たちに住みかを提供します。当たり前の光景に見えますが、何千年も水を切らすことなく、絶えず供給し続けているからです。
水というのは結構重たいものです。バケツ一杯でも満タンにすると結構重いし、ドラム缶となるととても持てません。それを全地に雨を降らせるだけの大量の水を空気よりも軽くして空に浮かばせ、また降らせます。潤された地面は植物を喜ばせ、山を縫って流れる小川や地表に現れた伏流水は動物たちの渇きを癒します。そして使われなかった大量の水は海に流れこみますが、海はあふれることなく、水蒸気となってまた空に昇り、雲となって循環します。人が、高い山の頂上まで水を運ぶとなったら大変ですが、神は天に水を浮かばせて、そこから降らせるので楽勝です。モーターなどの動力なし、燃料なし。太陽熱で蒸発するだけで無公害。人と動物のために神が備えて下さった巨大でクリーンな循環システムです。これこそ、本当のサステナブル(持続可能な)というものでしょう。
13節。神が雨を降らせて、地にはさまざまな実を生じさせます。穀物にせよ、果実にせよ、すべての植物は、種類に従って、種を持ち、繰り返し再生産reproduceします。一回で終わりでない。しかも一粒の種から何十、何百と増える。だから人や動物達が食べてもなくならない。むしろ増えていく。食べても食べてもなくならない、うれしい仕組みです。これも当たり前のように思っていますが、神の素晴らしい知恵の産物です。しかもその果実のバラエティに富んでいる事!スイカ、メロン、桃、梨、みかん、パイナップル、マンゴー、ドリアン…。色も形状も、香りも味も、含まれる栄養素も、それこそ千差万別。同じ土からそれぞれの種類に従って、それぞれに必要な栄養分を吸い上げて、吸い上げられた栄養分は幹を通り枝を通ればアーラ不思議、おいしい果物になるという具合です。果樹をならせるそれぞれの木は、あたかも不思議な果物工場のよう。一本一本の木が、みかん工場、りんご工場、ぶどう工場、梨工場…。同じ土、同じ日光から、何十種類もの味も栄養分も違う美味な果物を作り出してくれる天然自然の工場です。身近なところにある奇跡です。しかも無公害。いや無公害どころか、私たちが吐き出す二酸化炭素を吸って、逆に私たちに必要な酸素を作り出してくれているというスグレモノ。神の環境サイクルの仕組みはすばらしい。
植物の仕組みを調べ出したら、神の知恵がそこここに見られてキリがありませんが、一つだけ。植物が繁殖する仕組みで、これも実に様々で興味深いものです。種がそのまま真下に落ちると、元の木の根が張っていてそちらに栄養分を取られてしまうし、葉も茂っていれば日光も当たりません。ですから種を離れたところに移動させる必要があるのですが、植物は自分で動くことができないので、あの手この手で自らの種を遠くに運ぶ、あるいは、運んでもらいます。たんぽぽは、軽くて空気抵抗を受けやすそうな綿を付けて、ちょっとしたそよ風でパーッと散り、風に乗って飛んでいく。スミレの仲間には、種にアリ用のエサをつけているのがあって、アリがエサと一緒に種を巣に持ち帰ってくれる。するとそこで種はエサと切り離されて、アリが耕してくれた巣の周りに置かれます。動物の毛にくっつきやすい形状をしたものもあって、動物が通ってそれに触れると種がその動物にくっついて適当な所まで運んでもらうのもあります。また果実などは動物に食べられて、適当なところでボットンと肥やしつきで地面に落とされる。その手があったか、と感心させられるアイディア満載です。神の知恵の豊かさ、多様さを教えられます。
14節。今の人は知っているかどうか、昔は、背中に薪を背負って歩きながら本を読んでいる像の人と言ったら、二宮尊徳とみんな答えたと思います。江戸時代中期の人。彼は、十四歳で父を、十六歳で母を亡くし、父方の伯父の所に預けられました。そして彼は、一日も早く二宮家を再興したいと願い、そのために学問をしようと志を立てて、伯父の家の仕事を手伝った後、夜遅くまで勉強しました。世話になっている伯父に迷惑をかけないために自分で燈油を得ようと、一握りの菜種を撒いたところ、七、八升(1升=約1.8リットルとして13~14リットル)の菜種が採れました。また田植えが終わって捨て置かれている苗を集め、荒地を耕して植えたところ、秋には一俵(約60㎏)あまりのお米を収穫することができました。このことから、彼は、天は、人が勤勉に働きさえすれば、大きな実りを与えて、助けてくれるのだと思ったそうです。菜種を植えたら菜種油が取れて、稲の苗を植えたらお米ができる事を、当たり前だと思わないで、その事に感動できる心を持っていたのでしょう。「天は人を助けよう、助けよう、とばかり思っている。」と言っていたそうです。それが、後の彼の人生にとって大きな影響を与えたと言われます。天が味方していると思えたら、こんな心強い事はないでしょう。彼は後に、いくつもの藩の財政改革に呼ばれて、見事に建て直したと言います。
15節。ここには、神は、私たちの身体の必要を満たすだけでなく、心を喜ばせ、心を支えてくださることが記されています。ぶどう酒とパンは、当時の一般的な食事の中心となるものでした。特別なごちそうでなくても、十分に喜ばしい食事でした。私たちのいのちを支えるためと言って、車にガソリンを入れるように、何の味もなく、ただエネルギーを注入するだけだとしたら、どれほどつまらない人生かと、私なんかは思います。神は、私たちが喜んで食べることができるように、美味しい食べ物を備えて下さいました。私たちの喜ぶ顔が見たい、神の親心がうかがえるところです。
19-23節。昼と夜のリズムを神が備えて、それによって行動する動物や人の生態が描かれています。21節を見ると、ライオンは夜行性なのか?と思って調べてみたら、夜行性でした。意外な感じがしました。23節にはそれとは逆に、朝、人は仕事に出て行き、夕暮れに戻って休む様子が書かれています。人間の身体には、自律神経というものがあり、それには交感神経と副交感神経というものがあるそうです。交感神経は起きているとき、何か活動するときに優位になるもので、反対に副交感神経は休むときに優位になるものだそうです。夜寝ている間は、副交感神経が働いて休息モードになっているわけですが、そこから交感神経の活動モードへと、スイッチを切り替えるには、朝の光を浴びることが効果的だそうです。目から入った朝の光によって、神経伝達物質のセロトニンの分泌が促され、これが睡眠中に優位だった副交感神経を交感神経へと切り替えて体を活動モードにするそうです。さらに、セロトニンは「睡眠ホルモン」であるメラトニンの原料にもなり、セロトニン分泌の14~15時間後にはメラトニン分泌が始まって自然と眠くなり、質の良い睡眠を得られるとのこと。またセロトニンにはストレスを和らげて精神を安定させる働きもあるそうです。
そうして、早起きして朝の光を浴び、夜になって1日の活動を終えるころには、交感神経から副交感神経へと切り替わって心身を休めるように、生体リズムはプログラムされているそうです。しかし現代では、夜の安息という神が備えて下さったリズムが乱されることが多く、切り替えがうまくいかなくなることも多いそうです。寝る直前までテレビやパソコン、スマホなどをいじっていると、自分ではのんびり過ごしているつもりでも、脳は覚醒モードになっていると言います。ちなみに、自律神経の乱れが続くと、体の中だけでなく、見た目も実年齢より老けて見える可能性があるそうです。
みなさんは「あしながおじさん」というお話をご存じでしょうか。ウェブスターという人が書いた小説で、映画にもなったそうです。孤児院で育ったジュディという少女のために、大学で学ぶ機会を与えてくれる「あしながおじさん」という人が現れました。その人は、自分の名前も居場所もいっさい明かさず、彼女が何不自由ない学生生活を送ることができるようにしてくれました。あしながおじさんは、また、彼女が病気で入院したといっては、お花とお見舞いのカードを送ってくれ、クリスマスだといってはプレゼントをくれたりと、暖かい心遣いまでくれます。この、会ったこともない、名前も知らない、だけれども愛情をもって自分を覚えていてくれるあしながおじさんが、この世界のどこかにいてくれるということは、ジュディの心に暖かな光を灯してくれました。
この世界を造られた神も、あしながおじさんのように、姿は見えませんけれども、私たち人間を慈しみ、季節の折々に実りを与えて楽しませ、数えきれないほどのいのちを育んで下さっています。ジュディが、目には見えないけれども、実際に受けている恵みによって、あしながおじさんの存在を疑わなかったように、私たちも、受けている恵みによって、これを与え続けているお方の存在に思いをいたすことができたら、幸いなことだと思います。目には見えないけれども、私たちに恵みを注いでおられる偉大なお方を知ることは、私たちの心にもあたたかいものを与えてくれるように思います。
この目に見えない偉大なあしながおじさんのことを、私たちはおじさんではなくて、私たちの父なる神と呼んでいます。聖書は、イエス・キリストを信じる者は、誰でも、みな、神の子どもとされると教えているからです。神と、父と子の関係に入れられるのです。それは、より個人的で、親しい関係です。神の子とされることによって、確かな神の愛を受けている者として、神の愛を確信して生きることができます。そしてこの神との関係は、永遠に続きます。死によっても途絶えることはありません。この神の永遠の愛の中に生きるようになること。これが永遠のいのちです。
この夏、自然に触れる機会があったら、そこに垣間見られる神の慈しみ、神の知恵は?という視点で見てみると、新たな発見、感動があるかもしれません。