礼拝説教要旨 2024年6月23日

わたしの愛する子

ルカの福音書3:15-38

<はじめに>

前回は、バプテスマのヨハネが世に現れ、人々に「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えたところを見ました。その悔い改めとは、神を信じていると言いながら、実際には神などいないかのように生きていたユダヤ人たちが、根本的に心を入れ替えて、本当に生きておられる神を恐れ、神のみことばに従い、神に従う生き方に改めることでした。名前だけの信仰者でなく、実のある信仰者であることを求めるものでした。それは決して完璧、完全であることではなく、大切なのは「これからは生きておられる神に従って生きよう」という心の一新です。気づいたところから、できるところから、でいいのです。焦らなくて、急がなくていいのです。根本的な生きる姿勢が一新されているなら、罪の赦しは尽きることがない。キリストによる罪の赦しにすっぽり全身、全生涯、覆われて、神のあわれみが取り去られることは決してないのです。それゆえ、神に従おうという姿勢を投げ捨てずに保ち続けることができるのです。これが信仰者のあるべき姿勢なのだと思います(参考ピリピ3:12-16、新約p. 398、「大人である人はみな、このように考えましょう。」)。私たちも折りに触れて、「神に従って生きよう」と心の一新、悔い改めを何度でもして、聖霊によって、神への愛と隣人愛において成長し続けることを求めましょう。

さて、今日のところはその続きです。人に忖度せず、厳しく悔い改めを迫るヨハネを、人々はどう思ったのでしょうか。

<あらすじ>

この頃、イスラエルでは、救い主待望の機運が高まっていたようです。にっくきローマ帝国の屈辱的な支配から彼らを救い出し、神に祝福された、世界に冠たる神の国をもたらす救い主キリストが神から遣わされてくるのを、今か今かと首を長くして待っていました。それで、もしや、このヨハネがキリストでは…と思ったと言います。その辺の新興宗教の教祖なら、大喜びで、そうだ、我が輩がキリストだ!とその気になるところでしょうが、我らがヨハネはとんでもない!と全力で否定しました。「私は水であなたがたにバプテスマを授けていますが、しかし、私など比べ物にならないくらい、はるかに力ある方があとから来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。…」自分がお山の大将になるのでなく、あくまでも「私では断じてない。この方こそ…」とキリストを指さす。真の預言者の姿です(ヨハネ7:18)。「履き物のひもを解く」ことは、とても卑しいこととされていて、ユダヤ人奴隷にはさせてはいけないとされていたほどです。それをヨハネは、キリストに対しては、自分はその履き物のひもを解くことさえ、畏れ多くてさせていただくに値しないと言うのです。キリストと自分との間には、それほどの大きな隔たりがあると弁(わきま)えているのです。このヨハネは、のちに、女から生まれた者の中で最も偉大な人とイエス様から言われた人物です(ルカ7:28)。その彼でさえ、こうだというのです。それもそのはず、キリストは、この世界を造られた生ける神の御子ですから。まったくの無から全世界、全宇宙を造られた方。聖なる聖なるお方です。本来は、履き物のひもを解くどころか、近づくことすらできない光の中に住んでおられるお方です(第一テモテ6:16、新約p. 424)。

ヨハネは続けて「キリストは、聖霊と火でバプテスマを授ける」と言います。「聖霊と火」という表現は、火のように精錬する、きよめる聖霊という意味でしょう。鉱山から切り出した金や銀の鉱石から不純物を除くには、つるはしではだめで、火で精錬しなければいけません。そのように、私たちのうちに深く染みついている罪の性質も、ただ聖霊の火によって精錬して取り除かれるのでしょう。それは、試練の炉を通してなされるのかもしれません(第一ペテロ1:6-7、新約p. 465)。人は苦しみを通して肉の性質を焼き尽くされ、精錬されるということがあるように思われます。そして神がそうされるということは、そのようなことを通してでも、きよめられることには価値があるということ。神は意味もなく、ご自身の愛する者を苦しみにあわせることはなさいません(哀歌3:33、旧約p. 1408)。

続く17節はさばきのたとえです。箕とは、竹や木の皮で編んだ大きなザルのようなもので、麦など脱穀した後、実と空っぽの殻などをより分ける道具です。脱穀した後の麦には殻は混ざっているので、箕の上にそれを盛り、箕をあおったり揺らしたりして、軽い殻だけ箕から落とします。そして実は倉に納めて、下に落ちた殻は掃き集めて最後に焼きます。ここには「殻を消えない火で焼き尽く」すとありますから、これはゲヘナ=地獄を表わすのでしょう。一方、麦の実は倉=天国に納められます。試練を通らされてでもきよめられる価値があるとは、私たちが殻でなく、実として倉=天国に入れるからでしょうか。きよめられること、悔い改めの実を結ぶことを、真剣に求めさせられます。

こうしてヨハネは人々に率直に悔い改めを説き、福音を宣べ伝えました(18節)。厳しい言葉も福音なのです。それが罪の赦し、救い、天の御国へと導くものですから。しかし、それが通じない相手もいます。やがてヨハネは、領主ヘロデ・アンティパスの悪事を忖度せずに責めたために投獄されました。特に、ヘロデが兄弟の妻に横恋慕し、自分の妻を離婚して、その妻を奪い取るという罪を犯して、ヨハネがこれを非難したからです(18-20節)。預言者が報われるのは、来たるべき世、新しい世において。キリストが十字架の後に復活されたように。キリストの復活は、世の終わりに神が善と悪を正しくおさばきになるとき、すべてを清算するときが用意されていることを実証して見せたものです。

さて、お次は、いよいよイエス様の登場です。イエス様がヨハネからバプテスマを受ける場面です。時間的には、当然、ヨハネが投獄される前のことになります。これまではいわば準備期間。これからいよいよ救い主キリストとして公にご自身を現されます。21-22節は、いわばキリストとしての任職式でしょうか。キリストは「油注がれた者」の意。以前、出エジプト記で学びましたが、昔、イスラエルでは祭司を任命するとき、まず身体を水で洗い、そのあとで油を注がれました。油は聖霊を表します。その職務を果たすに必要な賜物を与え、その人を守り、導くお方として聖霊がその人に与えられることを表します。そのように、ここでもイエス様が川に入りバプテスマを受けたあと、祈っていると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に降られました。元々、イエス様は聖霊によってマリアの胎に宿り、その後も聖霊に満たされて成長したと思われますから、ここはキリストの職務に任命するための油注ぎとしての聖霊が降られたと思われます。そしてこのあと、イエス様は病人を癒したり、悪霊つきから悪霊を追い出したりなど、さまざまな奇跡を行い始められました。イエス様はこのときまでは奇跡を一つも行わず、罪がないことを除いては、いたって普通の人として過ごされたと思われます。

そして聖霊が降られたのに続いて、天から声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(22節)。もちろん、イエス様は永遠から神の御子ですから、父なる神の愛する子であり、喜ばれる方です。ですが、このタイミングでこう語られたことに意味があるように思われます。イエス様はバプテスマを受け、聖霊を受けて、公にキリストとしての働きに踏み出されました。それは、十字架に向かうキリストとしての道に、自ら踏み出したということです。イエス様はご自身が人々の罪を赦すために血を流すために世に来たという、そのキリストとしての使命を自覚していました。キリストとして任職されたということは、その十字架に向かう道を踏み出したということです。すべてをわかった上でイエス様は、任職を受けたのです。だからではないでしょうか。そのお姿にこそ、このとき、父なる神が「わたしの愛する子」と呼びかけ、「わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけずにはいられなかったのではないかとも思われるのです。ヨハネ10:17、新約p. 202

わたし(キリスト)が再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

さて、最後に系図を簡単に見ておきます。23節ではイエス様はこの時、およそ30歳と記されています。昔、イスラエルで、レビ人という、神に仕えるために指名された部族があり、彼らが正式に幕屋で神に仕えることができる年齢が30歳でした(民数記4:3、旧約p.240)。年齢条件パスです。で、当時、そのレビ人という部族が、神殿で神に仕えるためには、年齢条件とともに、系図が大変重要視されていました。ちゃんとその人が、正真正銘のレビ部族だと証明できる系図をもっていないと、いくら自分がレビ人だ、神殿で仕えたいと言っても、許されなかった。バビロン捕囚から帰った時に、レビ人の中には、ドサクサの中で系図をなくしてしまった人もいて、そういう人はエルサレムに帰還してから、いくら自分はレビ人で神殿で仕えたいと言っても許されなかった。それくらい、系図は重要なものでした。

で、イエス様も系図を調べて、救い主としての資格があるかどうか、大変重大な問題だったわけです。ルカは、ここにその系図を置いて、系図の点でも条件をクリアしていることを示したのでしょう。昔から旧約聖書で、救い主はダビデの子孫から出ると預言されていたことは、当時のユダヤ人はみな、知っていました。で、系図を遡っていくと、31節で「ダビデの子」と出てきます。イエス様は正真正銘、ダビデの子孫ということがわかります。さらに、ヤコブの子のユダも、その子孫から王たるキリストが出ると預言されています(創世記49:10)。ユダの名は33節に出てきます。さらに、アブラハムにも、あなたの子孫によって、地上のすべての民族は祝福されると、預言されていました。この「あなたの子孫」がキリストのことで、見てみると、34節に確かに「アブラハム」の名前があります。

最後に、実は、最初の人アダムとエバにも預言されていました。アダムとエバが罪を犯した時、神はエバに向かって、あなたの子孫は、敵であるサタンの頭を踏み砕く、サタンに完全に勝利する、という約束を与えられました。イエス様は、その約束の成就でもあります。もちろん、実はダビデの子孫であるなら、自動的にユダ、アブラハム、そしてすべての人祖先であるアダムとエバの子孫ということになりますから、これは条件云々ではなく、人類の最初、罪に落ちた直後から待ち望まれていた救いの約束の成就だということを示しているのでしょうか。ダビデは、イエス様がお生まれになるおよそ1000年前、さらにその1000年くらい前がアブラハム。アダムとなると、何千年前か、わかりませんが、こうして救い主は、何千年も前から預言され、多くの人々から待ち望まれてきました。そしてそれらの預言をすべて成就する者として、キリストが任職されて、いよいよ救いの働きを開始されると。

私たちは幸いなことに、こうしてかつて何千年もの間、待ち望まれた救い主が、地上に来られて、すでに救いのみわざを成し遂げられたあとの時代に生きています。私たちは、あとは悔い改めて、この救い主を信じることで救われます。今は恵みの時、今は救いの時です。

「 独りの御子を 賜いしほどに 」新聖歌88番

<わたしの愛する子>

きょう最後に覚えたいのは、父なる神が御子に語りかけられた「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」というおことばです。十字架に向かって踏み出された御子を、それこそ断腸の思いで、送り出す御父の心中はいかばかりだったか。いよいよ、キリストとしての道に送り出すにあたって、御父は、ご自分の愛を確認させるかのように、そうお声をかけずにはいられなかったのではなかったか、とも思われます。この天から響いた神の御声を読むと、人々が憎み、迫害し、十字架につけてしまったのは、この、神が愛しておられる御子、神が喜ばれた方だったのだということを、改めて思わされます。ここに人の罪の深さが表れているようでもあります。と同時に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)この御言葉がズシンと心に響きます。改めて、御父の私たちに対するご愛を深く心に思いたいものです。