礼拝説教要旨 2024年6月16日

罪の赦しに導く悔い改め

ルカの福音書3:1-14

<はじめに>

今まで何度か、聖書は「昔、昔、ある所に…」式のおとぎ話や神話の類いではなく、歴史書であると言ってきましたが、この3章の書き出しにもそのことが表れています。正確な事実を書き残すことを目的としていた著者ルカは、1-2節でかなり丁寧に時代特定のための手がかりを記録しています。「皇帝ティベリゥス」は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの養子で第二代ローマ皇帝。その「治世の第15年」は紀元29年になります。ちなみにイエス様は紀元前4年に生まれたと推測されているので、この頃およそ33歳になっていたと思われます(3:23では「およそ30歳」)。ということは、ヨハネもそれくらいの年ということになります。以下、総督ポンティオ・ピラトと4人の領主たちの名と支配地域が記され、資料を調べるとそれぞれの統治の年代がわかりますが(リサニアだけは不詳)、今日は割愛します。2節に入って大祭司はアンナスとカヤパ。本来、大祭司は一人ですが、この頃は大祭司の任命に関してさえローマ帝国が介入して、込み入った事情だったようで、そんなことになっていたようです。

このような時に神のことばが、荒野のヨハネに下りました。いよいよ、始まります。

<あらすじ>

ヨハネの使命は、神が遣わされる救い主キリストが来られる前に、前もって民に備えをさせることでした。では、その備えとはどういうものか、と言うと、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ(洗礼)」を宣べ伝えたということでした(3節)。罪の赦しに導く悔い改め。悔い改めなしに罪の赦しはありません。ここの悔い改めとは、これからは、神に従って生きるという、生き方の根本的な変革のことです。私たちはしっかりと悔い改めているでしょうか。そのように悔い改めた先に、賜物として罪の赦しが与えられます。そしてここの「バプテスマ(洗礼)」は、悔い改めて、これからは神に従って生きます、という神への誓いを表わすのでしょう(第一ペテロ3:21、第三版「正しい良心の神への誓い」)。私たちも、洗礼を受ける時に、それまで神なしで、神と関係なく生きて来たけれども、これからは神に従って生きます、と誓約したはずです。しかし私たちは洗礼を受ける時一回だけでなく、折りに触れて、あるいは日々、このように悔い改め、決心する必要があるのではないかと思います。何度失敗しても、すぐにそこからそれてしまっても、その都度悔い改めて、聖霊を頂いて、神に望みを置いて、また従う。それが真の神の民のあり方、ライフスタイルなのだと思います。その姿勢を失わない限り、罪の赦しは尽きることなく、無限に与えられます。そこには神の励ましがあります。臨在があります。しかし、その根本的な生きる姿勢、神に従います、という意思そのものがないならば、罪の赦しは期待できません。当時のユダヤ人たちがそうでした。それでヨハネは7節以下、「そこまで言う?」というくらいの厳しい言葉を発しています。悔い改めないところに、罪の赦しがないからです。ということは、神の御怒りを受けることになるからです。だから、ヨハネは激しく悔い改めを説いているのです。

7節の実際のヨハネの言葉に行く前に、4-6節には、これが旧約聖書で預言されていることの成就だと説明します(イザヤ40:3—5、70人訳)。この時よりおよそ700年ほど前に記された預言です。4-6節を読みます。自分は悔い改める必要なんかないよ、と山や丘のように高ぶっている者にも、逆に自分みたいな者なんか、いまさら悔い改めたって、と絶望の谷であきらめかけている者にも、ヨハネは正しく悔い改めを迫って救い主を迎える備えをさせます。また、本来シンプルな神の戒めを、人間の言い伝えや、勝手な思い込みによって罪のない人を罪に定めて、救いの道をねじ曲げてもいたのでしょうか。あるいはまた、一部の宗教的エリートが、一般の人がとても守れないような—というより不必要な—厳しい戒律を勝手に作って、救いのハードルを高くしていたのでしょうか。そんな状況にあって、ヨハネは正しい悔い改めを迫って、あらゆる人が神の救いを見るようにと備えるのです。

さて、ヨハネが具体的にどんなことを語ったか、7節以下記されています。まずイキナリ「まむしの子孫たち!」(7節)。こう言われてうれしい人はいないと思います。ましてやユダヤ人は、自分たちは「アブラハムの子孫」だと誇っていたのに、「まむしの子孫」と言われました。蛇はサタンを表しますから、サタンの子らと言っているようなものです。「アブラハムの子孫」とは、神が彼らの先祖アブラハムに約束された神の民ということです。それで自分たちはアブラハムの子孫だから、当然、神から祝福されると思っていたら、大間違い。誰が、迫りくる神の御怒りを逃れられると教えたのか、と厳しく迫るのです。そして、神の御怒りを逃れたいと思うなら、そんな間違った、偽りの平安に寝ぼけていないで、目をさまして、悔い改めにふさわしい実を結べ、と迫ります(8節)。彼らは、ただ自分たちがアブラハムの子孫だからと言って誇るばかりで、その内面は、心が神から遠く離れ、生きた信仰がなく、神のみことばに従って生きる気がなかったようです。彼らは、自分たちがアブラハムの子孫であるとか、神の民のしるしである割礼を与えられているとか、外面的なことで誇るばかりで、神に従うという、神の民としての実質をもっていなかった。実質がないのに、アブラハムの子孫だと誇っていた彼らに「神はそのへんの石ころからでも、アブラハムの子孫をお造りになることができるのだ」とヨハネは言い放つのです。おごり高ぶるなと。

烈火のごときヨハネの言葉は続きます。「斧もすでに木の根元に置かれています。」さばきが差し迫っていることを表わします。「だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(9節) 神のさばきは、いたずらにアブラハムの子孫である事に安んじて、神の御心に従う気のないあなたがたに容赦なく臨むのだ、と迫ります。イエス様も、ほかのところで「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行なうはずです』」と言われました(ヨハネ8:39、新約p. 197)。ある人の血管にアブラハムから先祖代々受け継いだ血が流れていても、もしもその人がアブラハムの「信仰」を持っておらず、アブラハムの「わざ」を行なっていなければ、本当の意味でアブラハムの子孫とは言えない。逆に異邦人でも、アブラハムの信仰を持ち、アブラハムのわざを行っているなら、アブラハムの約束の子孫です(ローマ4:16、新約p. 303)。大切なのは中身、実質です。

こうして、さばきの厳しさ、恐ろしさをあからさまに伝えられた人々は、どうしたでしょう。怒って捨て台詞を履いて、立ち去ったでしょうか。そうではありません。彼らは恐ろしくなって「それでは、私たちはどうしたらいいでしょうか」と震えながら尋ねたのでした(10節)。すばらしいこと。これこそ、真の神の民のしるしです。私たちにもこの姿勢は必要です。ウェストミンスター信仰告白14:2救いに至る信仰についての解説の中で、私たちがどのように聖書を読むべきか教えています。そこに「(聖書の)命令には従い、威嚇にはおののき、この世の命と後の世の命への約束は信じる。」とあります。私たちも、聖書の威嚇にはおののいて、自分の救いを達成する者でありましょう(ピリピ2:12、新約p. 396)。

神の民として、神のみことばに従って生きたいと、根本的な生きる姿勢を悔い改めたら、具体的な行動は人それぞれです。10-14節は、自分には悔い改めることはないと、山や丘のように高ぶる群衆や、逆に、自分みたいな者でも救われるのだろうか、と絶望の谷にあった取税人、兵士、それぞれに悔い改めるべき事を教えます。一般の群衆に対しては、「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」(11節)。これは、隣人愛を実践せよということ。特別に何か悪いことをしているわけではない群衆は、それで自己満足するのでなく、さらに神の御心、神のみことばに従うことを求める。そういう心の一新が求められます。11節「下着」は、いわゆる今日の肌着の類とは違って、今日で言うとTシャツのように、そのまま外に出てもおかしくないものです。亜麻布もしくは羊毛製で、ゆったりとした、長さはくるぶしまである長いものや、短いのもあったようです。当時はその下着一枚も貴重品で、それすら持っていない人もいた。裸でいたということでしょうか。寒い夜には凍えたでしょう。そういう人を見て、かわいそうに思う。そのかわいそうに思う心を押し潰したりせずに、下着を二枚持っていたら一枚を分けてあげなさい。見て見ぬふりをしないで、自分にできることをして助けなさい。それが神の民としての実質、アブラハムのわざということなのでしょう。

他方、12-14節は、取税人と兵士たち。当時の取税人は、異邦人のローマ帝国の手先となって、神の民ユダヤ人から税を取り立てる人。それだけでユダヤ人からは反感を買いますが、彼らは決められた額以上を徴収して、私腹を肥やしていました。ですから彼らは、ユダヤ人からは、お金のために神の民であることを捨てた者、信仰を捨てた者と見なされていました。救い主が来ても、お前らは神の国に入れると思うな、と一般のユダヤ人から言われててもおかしくないし、自分でもそう思っていたかもしれない。そういう人たちでした。よくヨハネのもとに来たと思います。彼らは、ヨハネから何を言われるか、恐れていたかもしれません。それこそ「まむしの子孫!」と言われても仕方がない…。ところが意外にも、彼らに対しては、ただ決められたもの以上には、取り立ててはいけないとだけ言ったのです。取税人をやめなさいとは言われませんでした。今までしこたまため込んだものを全部貧しい人たちに施せ、とも言われませんでした。兵士たちも同様です。力を笠に着てゆすり、たかり、散々あこぎなことをしていた彼らも、どんな宣告をくだされるか、と思いきや、ただそういう悪いことをやめて、自分の給料で満足しなさい、とだけ言われました。兵士をやめなさいとは言われませんでした。取税人も兵士も、その仕事自体は罪でも何でもないということです。彼らの中には、罪でないことを罪であるかのように言われて、無用な罪の意識に苦しんでいた人もいたかもしれません。これらの人々には、特に何か良いことを行え、というのでなく、今行なっている悪いことをやめなさいと言いました。いきなり高い基準を求めない。ただ、これまでの悪い生き方をやめて、これからは神に従って生きる、そういう心の一新が大切なのです。気づいたところで方向転換して、神に従う生き方をすると心に決める。そういう人のところにこそ、救い主は喜んで助けに来て下さるのでしょう。

<罪の赦しに導く悔い改め>

この箇所は、私たちに根本的な生きる姿勢の悔い改めというものの価値を教えてくれます。その悔い改めなしに、罪の赦し=救いはないということです。神のみことばに従って生きるという、その基本的な姿勢を保つことの大切さは、いくら強調してもし過ぎることはありません。その意志さえあるならば、何百回、何千回、同じ失敗を繰り返しても、それを覆って余りある赦しが与えられます。その人はさばきのときに神の御怒りに会うことは決してなく、むしろ、神から栄冠を与えられるでしょう。そのためのキリストの十字架です。

先週、柳先生の説教要旨を読ませて頂いたときに、真実な悔い改めという点で、ちょうど今日の個所と重なって、私には預言者の言葉のように思われました。一か所だけ引用。「…大切なことは、私たちこそ、この戒め(神を愛すること、隣人を愛すること)を心に留めて、この戒めに従って生きるかどうかになる。生きて働いておられる真の神を信じ、その神を心から愛する者となって生きるのか。戒めは知っていても、生き方においては、神なしのように生きるのか、その違いは大きいものとなる。…一番重要な戒めは何かが分かっていても、頭で理解して、口で答えることができても、その戒めに心から従って生きているか、日々歩んでいるか、自分で分かっているのではないだろうか。あるいは分かっていてもできない自分を知っているだろうか。気づかなかったり、気づいても通り過ごしていてはならない。気づいたところから、十字架の主イエスを仰ぐこと、それが大事なことである。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架で死なれた。十字架の主イエスを仰ぎ見ながら、この戒めに従って生きること、それが私たちに求められていることである。…」アーメン。