礼拝説教要旨 2024年6月9日

あなたの神、主を愛しなさい

マタイ 22:34~40

十字架に向かって歩まれた主イエスの教えに耳を傾けながら、私たちは心の内を探られてきた。今朝もその続きである。十字架で身代わりの死を遂げる、その時が迫っている中で、主イエスは切々と語っておられた。

ユダヤ人の指導者たちは、次々に難問を吹きかけ、言葉尻りに付け入ろうとしていた。彼らは主にパリサイ人とサドカイ人の二派があったが、交互しながらイエスに迫っていた。(※パリサイ人:律法に厳格であろうとする分離派で、少数派。サドカイ人:多数派を占め、復活はないとする裕福な人々。)今朝の個所では、パリサイ人たちがイエスを試そうとしていた。

1、

パリサイ人たちのうちの一人、「律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。』」と。(35~36節)律法について、自分はよく知っているとばかり、イエスがどんな答をするのか、と待ち構えた。

パリサイ人たちは、律法に関して厳格な立場を取っていた。守るべきものを明確にしようとするあまり、優先順位を設ける落し穴もあった。その矛盾をイエスが繰り返し指摘していたので、苦々しく思いながらいた。

イエスは、ユダヤ人ならほぼ誰でも知っている言葉をもって答えられた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」(37~38節)

これは申命記6章5節の言葉を引用したもので、4節の「聞け(シェマ)、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である」から始まる教えを、ユダヤ人たちは子どもの時から、日に二度唱えるほどに覚えていた教えであった。

2、

続けて、主イエスは、「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」と言われ、聖書全体がこの戒めに集約されると明言された。(39~40節)

「あなたの神、主を愛しなさい」と、「あなたの隣人を愛しなさい」の二つの戒めに、聖書全体がかかっていると言われたが、二つの別々の戒めがあるというよりも、「あなたの神を愛しなさい」の戒めには、「あなたの隣人を愛しなさい」も含まれていると理解できる。

この二つ目はレビ記19章18節にある教えで、主イエスの意図は、二つ合わせて一つというほどに、この戒めを心に留めよ!!である。

この後で主イエスは彼らに尋ねられた。「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」と。パリサイ人たちに対して、あなたがたは、聖書の教えをよくよく知ってますよね、と迫っておられたかのようである。

3、

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」との戒めは、新改訳第三版では「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と訳されている。

並行個所のマルコの福音書では、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と言われている。元々の申命記の言葉と、少しずつの違いがあるが、肝心なことは、心の思いも、頭に浮かぶ考えも、知性も感情も全てのことを、生ける神を愛することに集中しなさいという教えである。

私たち人間の本分は、全存在をかけて造り主である神を愛することにある。これが先ず第一で、同時に、神を愛する者は、隣人を自分自身のように愛することが求められている。聖書全体の教えの中心がここにあると、主イエスは告げておられた。そのまとめ方について、十戒の前半と後半の要約となっていることを、私たちは繰り返し教えられてきた。

4、

マルコの福音書では、イエスに尋ねた律法学者が、イエスの言葉に応答するように話し、戒めをよく理解している様子も窺われる。彼は「あなたは神の国から遠くはない」と言われている。

またもう一つ、よく似た記述がルカの福音書にある。律法の専門家がイエスに、「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことからの場面である。この時、イエスは「律法には何と書いてありますか。・・・」と問い返し、質問者本人に答えさせている。

彼は正しい答えを返したので、イエスは「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われた。けれども彼は、「では、私の隣人とはだれですか」と問い返してしまった。この後、イエスは「良きサマリヤ人」の譬えを話された。

「だれが隣人なのか」でなく、進んで「だれかの隣人となる」ことが肝心である。イエスは大切な戒めについて、折々に語っておられた。(マルコ12:28-34、ルカ10:25-37)

5、

同じ場面でも、また同じ教えでも、少しずつ強調点が違っている。いずれの場合も、「一番重要な戒め」についての問いに対して、イエスが答えられるか、あるいは問うた者自身が答えるかの違いがありながら、同じ答えに行き着いている。

心の底から「生ける真の神を愛する」ことと、自分自身を愛するように「隣人を愛する」こと、これが聖書の教えの全てがかかっていると。

恐らく、主イエスに言われなくても、当時のユダヤ人の指導者たちは、この大切な戒めについて、ほぼ理解していたのに違いない。その理解の仕方は、「分かってはいるけれども、実行することは難しい・・・」と、逃げ道を用意したものだったのではないか。

結局のところ、戒めを持ち出しての論争は何らの成果もなく、パリサイ人たちは引き下がっている。後の時代の私たちは、「一番重要な戒めは何であるか」をはっきり理解させられ、それを実行することが肝心と教えられることになる。

<結び>

大切なことは、私たちこそ、この戒めを心に留めて、この戒めに従って生きるかどうかになる。生きて働いておられる真の神を信じ、その神を心から愛する者となって生きるのか、戒めは知っていても、生き方においては、神なしのように生きるのか、その違いは大きいものとなる。

また、神を愛すると言いながらも、隣人が一体だれなのか、全く気付かないままであったり、無頓着に生きるなら、そのような生き方をする者は、神を愛しているとは言えない。私たちは、自分がどのように生きるのか、生きようとするのか、一人一人が問われている。神なしに生きる限り、本当に大切なことを、私たちは理解できず、生き方は揺れるばかりとなる。

一番重要な戒めは何かが分かっていても、頭で理解して、口で答えることができても、その戒めに、心から従って生きているか、日々歩んでいるか、自分で分かっている私たちではないだろうか。あるいは分かっていてもできない自分を知っているだろうか。

気づかなかったり、気づいても通り過ごしていてはならない。気づいたところから、十字架の主イエスを仰ぐこと、それが大事なことである。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架で死なれた。十字架の主イエスを仰ぎ見ながら、この戒めに従って生きること、それが私たちに求められていることである。

心を尽くして神を愛すること、そして隣人を愛すること、それは、私たちが罪の赦しを与えられ、神の測り知れない愛をいただいてこそできることである。日々、十字架の主イエスを仰いで歩めるように!