前回は、イエス様がお生まれになって一週間後、律法に定められた儀式を行うために宮に行ったマリアたちに、救い主の到来を待望していた老聖徒シメオンと老女預言者アンナが出会ったところを見ました。そして、そこでもイエス様について、この方こそ、神が遣わされた救い主であることが証言されました。もうこれで何人目の証人、何回目の証言でしょうか。証言が積み上げられて、その事柄の信憑性が高まります。そして今日のところは、イエス様ご自身の証言となります。
第一子長男が生まれたときになすべき律法の定めをすべて成し終えて、マリヤたちはガリラヤ地方の寒村ナザレに帰りました。当時、ナザレから何の良いものが出ようか、と言われていたような所。都エルサレムからは、野蛮で無教養なド田舎と見下されていたガリラヤ地方のナザレ村で、イエス様は幼少期、青年期と過ごされました。神の恵みは、高ぶるところからは逃げていき、低いところへと流れ込みます。イエス様は、そこでいわばひっそりと、しかし神の恵みに守られて、着実にメシア、救い主となるべく成長されました。そして「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった」(40節)こういう所を読むと改めて、神の御子は、本当に人となられたんだなあ、と思います。イエス様は本来は、全宇宙を造られた全知全能の神の御子です。それが人となって、それもアダムみたいに最初から大人というのではなく、無力な、無知な赤ちゃんとして生まれた。守ってもらわれなければ、生きていくことすらできない赤ちゃんから始められた。まったく無防備な赤ちゃん。そしてそこから、成長していくという過程を踏んでいかれた。最初はミルクを飲んで、やがて口に入れるものが段々カロリーの高い固形物になっていく。ハイハイしたり、つかまり立ちするようになり、やがて歩けるようになり、と少しずつ成長していきました。また、知恵に満ちていきました。イエス様は、神としては全知全能ですが、人となられたので、人としては知恵においても制限されました。無知な赤ちゃんとなった。生まれた時から説法したりしない。至って普通の赤ちゃん。もちろん、罪は別として。また、兄弟の中で揉まれて、長男ですから面倒を見たり、親の手伝いをしたりもしたでしょう。そのすべてにおいて神の恵みが常にあって、身体においても知恵においても成長していきました。
そして、41節以下、イエス様12歳の時のエピソードが記されます。当時ユダヤでは13歳で成人とされましたから、子ども時代の最後の年ということになります。イエス様について事実を綿密に調べ上げたルカだけが記す、イエス様の子ども時代の唯一の記録です。ヨセフとマリヤの若夫婦は、毎年きちんとエルサレムに行って、過越の祭りを守っていたと言います。感心な若夫婦です。直線距離で約140㎞、その旅費、祭りの間七日間の滞在費、それに犠牲として捧げる傷のない一歳の雄羊を買わなければいけません。大きな出費です。過越の祭りについては、出エジプト記で学びました。イスラエルの三大祭りの一つで、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神がそこから連れ出して、解放して、救って下さったことを記念する祭りです。イエス様が12歳になった年も、彼らはいつも通り、過越の祭りに行きました。そして一週間に及ぶ祭りの期間を過ごしました。が、その後、ヨセフとマリアは、イエス様を置いて帰路についてしまいました。というのも、この巡礼の旅は、親族やナザレ村の人たちの一団がワイワイガヤガヤしながらいっしょに旅をしていたので(44節)、その中にいるものと思ったのでした。子どものことですから、前や後ろを行ったり来たり、動き回るのは自然なこと。もう12歳だし、大丈夫だろうと。今の感覚だと、出発するときに確認しないとは、ずいぶんとおおらかな子育てだなあ、という気もします。しかも、その後を読むと、イエス様がいないことに、一時間後、二時間後に気づいたのでなく、「一日の道のり」を進んでから気づいたと言います。今日の旅はこれくらいにして、夕飯にしよう、という段になって、捜したら、いない。彼らは、日が傾く中、心配しながら探し回ったでしょう。彼らはとうとう、エルサレムまで戻ってしまいました。
ちなみに、マシューヘンリーという人は、ここから「私たちもイエス様を見失ってしまって、おいてけぼりにして、自分たちだけで進んでいってしまうことがないようにしよう。」とコメントしていました。日々、みことばを受け、天におられるイエス様に心を向けて祈り、イエス様と共に歩む者でありたいものです。万が一、イエス様からはぐれてしまっても、神殿ならぬ教会にイエス様を探しに来る者でありましょう。
さてマリアたちは、エルサレムをあちこち捜しましたが、見つかりません。誰かにさらわれたのでは?ということも、頭をよぎるでしょう。親としてはそれが一番、心配。胸騒ぎの、眠れない夜を過ごして、翌朝も、早くから一日中捜し回った。けれども見つからない。もう一晩、生きた心地もしない夜を過ごして、ようやく三日目に、イエス様を見つけました。イエス様の無事な姿を見たとき、ヨセフとマリアは心底、安堵したでしょう。イエス様は宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。そのとき、まわりで聞いていた人たちはみな、イエス様の知恵と答えに驚いていたと言います。イエス様は、ナザレの会堂で、毎週読まれる旧約聖書を聞いて、深い理解を持っていたのでしょう。
ところで、イエス様は宮で三日間も、何を話を聞いたり、質問したりしておられたのでしょう。これが過越の祭りのときの出来事だったことを考えると、もしかしたら、過越の祭りについて、教師たちに質問していたのかもしれません。かつて出エジプトの時、イスラエルの民が救い出されるためには、傷のない一歳の雄の子羊がほふられなければならなかった。血を流されなければならなかった。その血が家の門の入り口の二本の柱と鴨居に塗られていれば、その家の中にいる人は、さばきを免れた。そのとき、地をさばく者がエジプト中を行き巡ったのですが、そのさばく者がその血を見たら、その家の前を過ぎ越してくれたので、家の中にいる人はさばかれずに済んだ。子羊の血が入口に塗られた家の中にいるか、それとも外にいるか、その一点に救いはかかっていたということ。中にいる人が、なにをしたか、かにをしたか、でなく、このきよい子羊の血が塗られた門を通って中にいるか、外にいるかで、生きるか死ぬかが決まった。いのちか死かが決まった。家の中と言っても、子羊の血が塗られていない家はだめ。さばきを受ける。つまり、傷のない子羊の血に、人を滅びから救う力があるということ。では、その子羊の血とはなにか。なぜその血が、人を救うことができるのか。それは、子羊の血が、家の中にいる人の代わりに流された血だから。中にいる人の代わりにさばきを受けて、流された血を表わすものだから。聖書はいたるところで、罪びとを救うために、このような救済措置を定めている。しかし本当は、動物の血に、そのような力はない。動物は人の代わりになれない。人の身代わりとなるには、まったく罪のない、汚れのない人でなければいけない。それは神の子、自分のことを指している。自分は神の民の救いのために、過越の子羊としてほふられるために、世に遣わされたのだ…。イエス様のお心の内を思い計るのは、恐れ多いことですが、もしかしたら、このとき、過越の祭りでほふられる羊を見て、ご自分の使命をはっきりと認識されたという可能性もあるのかな、と思いました。マリアからも、いろいろな人がいろいろと証言していたことを、イエス様は聞いていたでしょう。また、イエス様は知恵に満ちておられましたから、過越の祭りの本当の意味を悟り、ご自分の使命を悟られたのかもしれません。そしてその使命を受け入れたのでしょうか。12歳の少年イエス様が。
さて、生きた心地もしないでイエス様を捜していたヨセフとマリアは、宮で大人たちの真ん中に座って、堂々と話し、質問をするイエス様の姿を見て、驚いたと言います。どこでこんな知識を得たのか、と。そしてすぐに、ホッとするやら、何やら、マリアは思わずイエス様に言いました。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」どれだけ心配したと思ってるの!という剣幕でしょうか。心底心配すればこそ、ですが。このマリアの口調と言いますか、言葉を読むと、改めて、ああ、こんなふうにマリアとイエス様は、普通の親子として会話していていたのかなと、何だかかえって普通であることに感動します。イエス様は子ども時代から後光がさして、マリアたちも畏れ多いと崇め奉っていた、などということはなかった。イエス様は子ども時代には奇跡は一つも行わなかったのだと思います。罪は別にして、本当に普通の子ども時代を過ごされたのでしょう。
さて、そんなことがあって、無事、イエス様もいっしょにナザレに帰りました。そしてそのあとがまたいいのです。51節「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。」神の子としての自覚がありながら、だからといって、いい気になったかというと、そうではない。ナザレに帰って、両親に仕えられた。両親に仕えた。モーセの十戒の第五戒「あなたの両親を敬え」に従ったのです。子が親を敬うことは、神の創造の秩序であり、神の御心ですから、イエス様は、ちゃんと神の御心を行なっていたのでした。
あるクリスチャン夫婦が破綻寸前でしたが、奥さんのほうはこのままではいけない、なんとか神に自分たちの関係を変えて頂かないと、と感じていました。そしてある時、彼女に、まずあなたから変わりなさい、夫のために理解し、祈り、出来る限り仕えるようにしなさい、と示されたそうです。しかし奥さんのほうは、自分も変わらなければならないのは、わかっています。でもどうして私からなんですか、不公平ではないですか。まずあの人からです、あの人が変わったら、私も変わります、と祈りの中で言いました。ところが神は彼女に、まず変わる可能性のある方から変わるべきです、と教えて下さったそうです。そして苦しい祈りの期間を通して、彼女はその神の御心に従いました。するとやがて夫の方も変えられていったそうです。まず自分が神の御心に従うことの大切さです。
そのように御心に仕え、人に仕えることが「イエスは神と人とにいつくしまれ」(52節)という祝福に通じるのでしょうか。神と人とにいつくしまれるとは、人としての理想でしょう。神との関係が祝され、神からご好意を注がれ、かつ、社会性と言いますか、人との関係においても祝される。神の国はそのようなところなのでしょう。
以上、今日は、生ける神の御子であられながら、へりくだって、正真正銘、普通の人となり、地上で過ごされたイエス様を心に思わせていただきたいと思います。神の御子の受肉が言葉の上だけでなく、事実、本当に人となられて、この地上で過ごされた。そしてみこころに従って、人々に仕えられた。そのお姿を心に収めさせていただきましょう。