説教題を見て、クリスマスみたいだな、と思った方もおられるかもしれません。クリスマスでおなじみの個所です。前回は、バプテスマのヨハネの誕生の記事でした。神が人類の救い主を遣わす前に、救い主を迎える備えをするよう人々に呼びかける、いわば露払い役を遣わすと、旧約聖書で預言されていましたが、その通りにヨハネがまず、遣わされて生まれた。そしてその約半年後、いよいよ救い主がご降誕されたというのが、今日の個所です。
「そのころ」は、皇帝アウグストゥスが全世界(=全ローマ)の住民登録をせよと勅令を出したころ。アウグストゥスとは「尊厳者」の意味で、初代ローマ皇帝となったオクタビアヌス帝(在位 紀元前27-紀元14)に対して元老院が贈った尊称です。英語の8月Augustの元になった人です。またこれは、キリニウスという人がシリアの総督であった時の最初の住民登録であったとあります(2節)。キリニウスは、二度、シリア総督になった可能性があり(証明はされていないが、その可能性を示唆する資料がある)、もしそうだとすると、その最初の住民登録ということになります。彼は二度目にシリア総督になったときも住民登録を実施しましたが(紀元6年。使徒5:37で言及されているのがこれ)、それは小規模なもので、とても「全世界の」というものではなかったそうです。それで、彼がシリア総督のときの「最初の」住民登録と指定しているものと思われます。いづれにしても、やはり聖書は、昔々ある所に…式の神話の類ではなくて、考古学の証言も得られる歴史書なのです。
このアウグストゥスは、外に向かって領土拡大政策を取らず、領土の維持や内政の充実に主眼を置き、平和政策を取りました。それで、以後200年ほど続くローマの平和、パクス ロマーナの土台を据えたとされます。水道、道路、神殿などを建設・整備し、また皇帝直属の軍隊を確立しました。そのための莫大な財源はというと、帝国内で徴収した税なわけで、ここに出てくる住民登録の勅令も税の徴収のために行なわれたものです。
皇帝の一声で、帝国中の人々は大移動を強いられます。仕事を中断し、家を空け、大きな出費も強いられて。ナザレの田舎に住むヨセフとマリアの貧しい若夫婦も、マリアは身重でしたけれども、従わなければならなかった。彼らはユダヤのベツレヘムというところに向かいました。エルサレムの南8キロの町。ベツレヘムは、「パンの家」の意。いのちのパン、天からのパンであるキリストにふさわしい地名です。ヨセフは、ダビデの血筋だったので、わざわざそのダビデの町とも呼ばれるベツレヘムまで行って、登録しなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで、直線距離で140kmほど。所沢から東に向かうと、船橋も佐倉も通り過ぎて、最東端銚子市まで行ってもあと20km足りないくらい。茨城方面では、つくば市も軽々越えて日立市のあたり。西に向かうと甲府、北杜市、さらに諏訪湖を越えて塩尻のあたり。大変な距離です。身重の、それも臨月間近のマリアを連れて、遠路はるばる140km。お上の勅令一つで、こんな大旅行をしなければならないとは難儀なことです。
しかしこういうところで、ふと思うのです。アウグストゥスの考えがどうであれ、こんな勅令が出たのも、実は神の御手の中にあったことなのだと。実は、この勅令によって、旧約聖書にあるミカ書の預言が成就しました。そこに、キリストはベツレヘムから出るという預言がありました(ミカ5:2、旧約p. 1586 )。神は、ローマ皇帝さえも、掌の中の一枚の駒として、自由自在に用いて預言を成就されるのです。そう言いながらも、もしかしたら、はたから見ている私たちは、マリアが大変だっただろう、かわいそうに、と思い、義憤に駆られて、神はどうしてこんな意地悪をなさるんですか、と言いたくなる人もいるかもしれません。当のマリヤはどうなのでしょう。やはり、なんでよりによってこんな時に…とブツブツ文句を言っていたのか。それとも「私は主のはしためです。」と告白していた彼女は、すべてを主の御手に委ねて、祈りつつ、ただ従っていたのか。わかりませんが、いづれにせよ、私たちにとって、人間的には、都合の悪いことが、神のみこころということもある、ということ。これは覚えておいて損はないというか、覚えておくべき真理だと思います。みこころが地でも行われますように、という祈りには、そういうことも含まれているのだと思います。自分の願いではなく、御父のみこころの通りになさってください、と。
彼らにとっての都合の悪さは、ベツレヘムに着いて、極まりました。人間的には最悪でした。ベツレヘムは、住民登録のために集まってきた人々でごった返し、すでに先着の客で宿屋はいっぱい。それで家畜小屋で枕することになった。そしてよりによって、と言いますか、そこで、イエス様はお生まれになったのです。救い主として来られた神の御子が、地上で最初に吸われた空気は、家畜小屋の空気でした。おいたわしや。もったいない。心が痛みます。十字架に至る受難の生涯が、誕生の瞬間から始まっていたのでした。イエス様という方は、生まれた時も受難、最期も十字架の上で受難、ついてない人生だったんだなあ…と知らない人は思うかもしれません。しかしついていなかったのではない。イエス様は、この世で一旗揚げるために来たのではない。この世で平穏に暮らすために来たのではないのです。私たちを罪から、滅びから救い出すために、ご自分が苦しみを受けるために来られたのです。そのために生まれて来られたのです。のちにそうご自分で言われました。そのことを象徴する誕生の場面です。私たちも、自分の十字架を背負って、イエス様にお従いするべく、人生の羅針盤をイエス様にあわせさせていただきたいものです。
さて、マリアは、どういう思いで飼葉桶に寝かせた幼子をながめていたでしょう。とにかく無事に生まれたことでホッとしたでしょうけれども、一息つくと、マリアももしかしたら、少し混乱し、落胆したかもしれません。御使いは、生まれてくる子について「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。」「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」と言っていた。それが、こんな家畜小屋でお生まれになったなんて…。こんな不衛生な場所で、病気にでもなったらどうしようと心配したかもしれません。また、こんな場所での出産は、聖なる方、神の子には、似つかわしくないように思えて、こうなったのは、自分に何か落ち度があったからか、と複雑な心境だったかもしれません。
しかし神は、この時もマリアのために励ましを用意していました。それが8-20節。野宿をして羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちに、主の使いが現れて言いました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」「今日」とありますから、イエス様がお生まれになったその日の夜のことです。ご自分の民を、敵であるサタンから、死の支配から解放して、救い出してくださる救い主誕生の知らせ。死を無効にする救い主の誕生なのですから、間違いなく人類の歴史上、最大の良い知らせです。イスラエルの民がずっと待ち望んでいた、いや、アダム以来、ずっと待ち望んでいた救い主が、ついに到来したのです。
その歴史的な喜びの第一報は、誰にもたらされたか。大祭司でもなく、祭司でもなく、エリート宗教家のパリサイ人でもなく、ましてや王侯貴族でもなく、野宿をしていた羊飼いたちでした。別に、彼らが特に熱心で、ここで徹夜祈祷会をしていたわけではありません。いつも通り夜番をしていたのです。また、ある注解書によると、いつの頃からか、羊飼いは羊の世話のため、神殿儀式などに参加できないので、ユダヤ教から破門され、裁判の証言も許されなかったといいます。そんな彼らに、です。まっさきにこの知らせがもたらされたのです。福音は、特別な一部の人にでなく、すべての人に与えられることを表しているのでしょう。続けて御使いは、ただ救い主の誕生を告げただけでなく、見に行ってきなさい、とみどりごの救い主を見分けるためのしるしを教えました。布にくるまって、飼葉桶に寝ているみどりご。これが目印です。確かにこの条件を満たすのは、ほかには、いなさそうです。「みどりご」緑色の子どものことではありません。生まればかりの赤ちゃんのこと(3歳くらいまでを指すとも)。これが王宮や神殿だったら、羊飼いは入れませんが、飼葉桶があるのは家畜小屋。これなら彼らも見に行けます。神のなさることにぬかりはありません。
そんな神の恵みを頂いた彼らは、すぐさま、行動に移しました。「急いで行って」(16節)。一刻も早く見たいという彼らの思いが伝わります。御使いは、「ダビデの町で」とだけ言ったので、ベツレヘムということはわかっているけれども、ベツレヘムのどこか、何丁目何番地まではわからない。でも「飼葉桶に寝かされている」と言っていたので、普通の宿屋ではなく、家畜小屋だけ見て回ればいいので、探しやすかったかもしれません。手分けして、あっちこっちと探し回って、まもなく探し当てたのでしょう。御使いが語った通りの光景が、そこにありました!布にくるまれて、飼葉桶に寝かされているみどりごという、御使いが告げた言葉そのまま。彼らは興奮して、御使いの言葉を話しました。御使いが、布にくるまって飼葉桶に寝ておられるこの子が、救い主キリストだとハッキリと告げられたと。その羊飼いたちの証言を聞いて、マリアはまた大いに励まされ、確信を強められたでしょう。ここにも、主のありがたいご配慮を見ます。こうして、羊飼いたちは、御使いの言葉通りだったことを見聞きして、神を賛美しながら帰って行きました。
今日最後に心に留めたいのは、やはり、キリストが家畜小屋の飼葉桶にお生まれになったということです。この場面、この事実は、百千の言葉よりも、強く重く、私たちの心に語りかけます。天では無数の御使いたちの賛美に囲まれ、仕えられている、栄光の神の御子なるお方。その一言で全宇宙を消え去らせることさえおできになる偉大なお方が、キンキラキンの王宮や神殿ではなく、普通の宿屋ですらなく、人が住む所ではない家畜小屋に。それも、家畜の飼料を入れ、馬や牛がそこに首を突っ込んではモッサモッサと草をはむ桶の中。普通の寝床でもない。御使いは羊飼いたちに、それを「あなたがたのためのしるし」と言いましたが、これを今日は「私たちのためのしるし」として心に留めたいのです。主のへりくだりのお姿。我が輩が、我が輩がと成り上がる道ではなく、自分をむなしくして、しもべのように仕えるお姿。仕えられるためではなく、仕えるために、ご自分のいのちさえお与えになるために、世に来られたことを雄弁に語るお姿。飼葉桶のイエス様という「しるし」は、私たちの主、私たちの王とは、どのようなお方なのか、何のために世にお生まれになったのか、いろいろなことを思わせ、教えてくれます。そしてこのお方を、私の主、私の王、私の救い主として、改めて心にお迎えしたいと思います。