「私のことばは、その時が来れば実現します。」(1:20、第三版)9ヶ月ちょっと前、神から遣わされた御使いガブリエルが、神殿で香を焚いていた祭司ザカリヤに現れて、こう言いました。御使いが言った「私のことば」とは、すでに高齢になっていたザカリヤ・エリサベツ夫婦に、子が与えられるというものでした。ザカリヤは、どうしてそんなことがありえましょう…と信じなかったために、それ以来、口がきけなくなっていました。それが今、御使いのことば通り、「その時」がついに来たというのが、今日の場面です。主が語られたことばは、必ず実現する。それを目の当たりにするときが来るのです。
月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました。親戚もご近所さんも、まるで旧約聖書の創世記に出てくる、神がアブラハムとサラになされた奇跡を見るような思いだったでしょう。話に聞いてはいたけれども、本当にアブラハムとサラになされたようなことが、今、目の前に起こった…。みなで、神のみわざを喜びました。そして八日目になって、当時の定めであった割礼を生まれた子に施すために人々が集まってきました。割礼とは、神の民のしるしとして体の一部に傷をつける儀式です。そのときに、人々は子どもの名前は、ザカリヤにしようとしました。当時、父の名にちなんで、子に名を付ける習慣があったそうです。そして気は良いけれどもお節介なご近所や親戚が集まって、名前はザカリヤだね、ザカちゃんとか、ザーちゃんとか、呼びかけていたのでしょうか。ところが、エリサベツもザカリヤも、彼の名はヨハネと決めていました。集まった人たちは驚きましたが、「ヨハネ」は御使いがこう名付けなさいと予め指定していた名です。彼らはそれに従ったのでした。
名前を付けるという行為は、その人に対する支配権とか所有権を意味します(参考 創世記2:19)。なので、ザカリヤとエリサベツが、この子に、御使いがつけよと命じていた名をつけたということは、この子が特別に神のものだという信仰告白の意味があったと思われます。ザカリヤは、御使いが言った通り、この子が特別に生涯を神にささげられた者、ナジル人だということを、しっかりとわきまえていたのでしょう(15節)。1章の最後80節を見ると、ヨハネはその使命に向けて、神の守りと恵みのうちに成長し、その霊は強くなり、公にあらわれるまで(およそ30歳前後と思われる)、俗世から離れて荒野にいたと言います。神に聖別された人として特別な生活をしていたのでしょう。
こうしてザカリヤが、御使いが命じておいた名前をつけた時に、あたかも、それでよし、と言うかのように、彼の口が開かれ、舌は解かれ、ものが言えるようになって、神をほめたたえました。これらのことの目撃者となった近所の人々は、恐れを抱いたと言います。そしてこの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていきました。この話を聞いた人は、こんなふうに生まれて来るなんて、この子はいったい、何になるのでょう、と言ったといいます。ルカは、この時すでに高齢だったザカリヤたちには会っていないでしょうけれども、当時のことを覚えていた近所の人たちや、ユダヤの山地で広がったその話を聞いた人々がまだ生きている時代に、丹念に何人にも聞き取り調査して、できる限り正確にこの記事を書いたのでしょう。聖書は、神話ではなくて、基本的に、歴史を記録した文書です。
ところで、この9ヶ月の間、ザカリヤは御使いのことばを思い巡らし、また旧約聖書も読んでは黙想したことでしょう。また、彼は耳も聞こえなかったようですが(62節)、マリアが三ヶ月間留まっていた間に、御使いが彼女に語ったことも、身振りや書き板を使って知ることができたでしょう。ザカリヤに語られた御使いのことば、旧約聖書の預言、マリアに語られた御使いの言葉。それらを思い巡らしていたザカリヤは、ただ単に自分の願いが叶ったと喜ぶのでなく、この子は神が特別な使命をもたせて遣わされた子だとの厳粛な思いを強くしたでしょう。そして、子の誕生に際して、その使命を理解していたザカリヤは、聖霊に満たされて預言したのです。68節以下このザカリヤの賛歌は、ラテン語聖書での最初の歌い出しのことばから「ベネディクトス」と呼ばれます。
結論から先に言うと、これは、神がご自身の民を敵から救い出すために、救い主なる王を遣わしてくださったことを告げている預言です。敵とは誰のことか。世のはじめからの人類の敵、神の民を滅ぼすことに執念を燃やしているサタン、悪魔のことです。このサタンは悪い奴で、人の弱さや欠けをあげつらっては、人を失望、落胆させ、人を罪に誘って罪を犯させては、破滅に至らせようとする。人々が神を信じないようにさせ、クリスチャンにも神を疑うように仕向けて、信仰からそらせようとします。真理を覆い隠し、偽りを吹き込んで、人を滅ぼそうとします。そして、悪魔は死の力もって、人々を支配しています。肉体の死と、そして魂の永遠の死。それは魂の消滅ではなく、永遠の苦しみであると、聖書は教えてくれています。そのサタンの支配から、私たちを救い出すために、キリストは神から遣わされて世に来てくださいました。人間がどんなに頑張っても、どうすることもできない死という現実から、人々を救い出すことができるのは、この救い主キリストだけです。その救いのとき、救い主の誕生のときがついに来たのです。神の勝利、サタンの敗北するときが。
それでザカリヤは開口一番、まっさきに「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし…」と主をほめたたえることばが、口からあふれ出ました。そして主が顧みてくださった。ここからすべては始まります。神が私たちを顧みてくださった。心を動かされてくださった。無視されていたら、そのままです。そして「贖い」とは、代価を払って、買い戻すこと、救い出すことです。身内が奴隷として売られた場合、彼を取り戻すためには、代金(贖い金)を支払って、取り戻す必要があります。それを贖うと言います。神は、神にとって何よりも大切な御子を十字架に引き渡すと言う代価を払って、私たちをサタンの支配から、死の支配から解放し、取り戻してくださいました。
その、私たちを救い出してくださる方のことを69節で「救いの角」と言っています。「角」は力や王の象徴です。オスの鹿はよく角をガチガチぶつけ合って勝負します。で、「救いの角」は救いをもたらす力強い王で、キリストを表します。このキリストを「しもべダビデの家に立てた」とは、ダビデの子孫として生まれるということ。神が遣わす救い主は、ダビデの子孫として生まれると、古くから預言されていましたから、その通りにお生まれになると。そして71節「この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。」キリストが来られたからには、敵であるサタンとその手下である悪霊ども、すべての者から、私たちを救い出される。
そのことを、今度はダビデの時代よりさらに千年さかのぼって、神がアブラハムと結ばれた契約の成就でもあると言います(参考 創世記15章、17章)。神はご自身の民を必ず贖うと。そして74-75節で再び、主は私たちを敵の手から救い出し、と言った後、今度は「恐れなく主に仕えるようにしてくださる。私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。」と続きます。キリストが私たちに罪の赦しを与えてくださったから。また、キリストが流された血潮によって、良心をきよめて頂いたからです。そして神との関係が回復したからです。恵みを土台とした、罪の赦しを土台とした関係に入れられたからです。
続いて76-77節では、ザカリヤは目を幼子に落として、ヨハネについて預言します。以前、御使いが告げたように、ヨハネ自身はメシア・救い主ではない。「いと高き方(神)の預言者」であり、その役割は「主の御前に先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に知識を与える」ことと言われます。罪の赦しによる救い。祭司として長年仕えてきたザカリヤは、罪のためのいけにえをはじめ、多くのいけにえをささげてきたでしょう。それらは罪の赦しのために流される血であることを知っていたでしょう。人には罪がある。聖なる神にふさわしくない、裁かれなければならない罪がある。それを、身代わりのいけにえにおいて裁きを執行することによって、人が罪の赦しを得、神に受け入れられる。あわれみ深い神は、そのような定めを定めて下さった。そのことを敬虔な祭司ザカリヤは知っていたのではないかと思われます。そしてその旧約の時代、いけにえが象徴していたのは、イエス・キリストでした。イエス・キリストが十字架上で流された血によって、私たちの罪は完全に洗い流され、赦され、神との関係が回復しました。私たちの、神との関係は、ただ罪の赦しにのみ、立っています。徹頭徹尾、罪の赦しです。
最後結び。78-79節「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」救いの一切の原因、出所を、ただ神の深いあわれみによる、と指さして、神をほめたたえます。この神のあわれみから発せられた、天からの救いの光が、地上の罪や悲惨の暗闇、死の支配のもとに住む者たちを照らし、光を当てて、彼らから恐れや不安を取り去って、平和の道へ、すなわち神との平和の道へ導きます。私たちは、神と平和を持っています。なぜなら、キリストが私たちのために、まったき罪の赦しを成し遂げて下さったからです。死は罪の結果、世に入ってきたものですから、罪の赦しを受けた者には、死はもはや何の力もありません。へブル書2:14-15、新約p. 439
キリストは、ご自身の十字架の死によって、悪魔のわざを打ち砕き、私たちを死の牢獄から救い出してくださいました。
神は最初、アダムを祝福の関係にある者としてお造りになりました。ところが、サタンの策略にまんまとだまされて、神に対して不信の罪を犯し、神に背いてしまいました。それによって、いのちの源であり、すべての祝福の源である神との関係が断絶しました。そして呪いの下に置かれました。諸悪の根源は、罪です。人は、その罪のゆえに、呪いの下に置かれ、サタンのもとに置かれ、虐げられた状態になりました。しかしあわれみ深い神は、その罪がもたらす呪いのもとで苦しむ人々を顧みて、神はあわれみがあふれて、御子を救い主としてお遣わし下さいました。そして救い主キリストは、私たちの罪がもたらす呪いを、私たちの代表として、身代わりに一身に受けて下さいました。それゆえ、信じる者は罪の赦しを受け、呪いの下から解放されて救い出され、本来の神との関係、祝福の関係に戻されました。
「罪の赦しによる救い」私たちの側からすれば、こんなありがたいことはない。この救いなら、誰でも救われる。難しいことをクリアしなければいけないとか、修行を積まなければいけないとか、たくさん献金しなければいけないとか、そういう条件は一切ない。罪を犯さなくなったら、という条件もない。罪の赦しによる救いなのですから。むしろ、キリストは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました(マルコ2:17)。
ただし、罪の赦しのためには、誰かが代価を払わなければいけないことは事実です。それを、神がなさってくださった。それも、ちょっとやそっとの代価ではありません。なぜそんなことを?私たちが苦しむのをご覧になって、あわれまずにいられなかったから。あわれみが、神を突き動かした唯一の理由。ただ私たちをあわれんで、御子が私たちの身代わりに、呪いをすべて引き受けてくださった。それゆえ、私たちは罪赦されて、救われた。救われたとは、神との関係が回復したということ。その行き着く先は、永遠のいのちです。