新約聖書にある四つの福音書には、それぞれに特徴がありますが、ルカの福音書の特徴の一つは、聖霊への言及が多くなされていることと言われます。今日の個所などまさにそうで、私たちにとって実は一番身近な存在でありながら、あまり多くを語られることのない聖霊というお方について、貴重な教えを記しているところです。聖霊というお方は、自分のことについてお語りになるのでなく、父なる神、子なる神キリストについて語り、私たちに示して下さる役割です。また、私たちに罪を示し、キリストへの信仰を与えて、救いへと導いて下さるお方です。信じた後も、普段、あまり意識することはないと思いますが、聖霊はキリストを信じる者たちの内に確かに住まれて、私たちを教え、導き、守っていて下さるお方です。そしてときに、ハッキリと私たちの内にあって働かれるのを見ることがあります。今日の個所のエリサベツもそうでした。
前回見た、マリアに御使いが現れて、受胎告知をしてまもなくと思われます。マリアはユダの山地にある、あの祭司ザカリヤの家に行って、妻エリサベツに会いに行こうと思い立ちました。何のために行こうと思ったのか。御使いが去ってあと、確かに御使いはああ言ったけども、それにしても…と戸惑いを覚えたのかもしれません。それで信仰の励ましが必要と感じたのでしょう。マリアは例によって、御使いが語った言葉を思い巡らしていると、そう言えば、御使いが、エリサベツを見なさいと言っていた(36節)。あの年になって、不可能と思われていたのに身ごもったではないか、神に不可能は何一つありません、と。その、神がなさった実例を自分の目で見て、信仰の励ましを受けたいと思ったのでしょう。
「マリアは立って」(39節)改めて書くまでもなく、当然立って行くわけですが、それをわざわざ書いているのは意味があるわけで、聖書では「立って」というのは、意を決してとか、思い切ってとか、決然と、などの様子を表す表現。そして「急いで行った」できるだけ早く、神のみわざを見たいと願うマリアの熱心さを表わします。信仰が弱りそうなときは、自分でも信仰の励ましを求める熱心さが必要です。みことばを読むのはもちろん、兄弟姉妹との交わりや、あかし、伝記などを読むのも有益です。
山地にあった家に、息を切らせてようやくたどり着いて、マリアはまずは挨拶しました。その瞬間です。いきなり、マリアは度肝を抜かれました。エリサベツのお腹の子(この頃、およそ6か月。26節)が胎内で踊り、エリサベツは聖霊に満たされて、大声で叫んで言ったのです。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。…」(41節)。いきなり「あなたの胎の実」と言っていますが、エリサベツはいつマリアが子を宿していると知ったのでしょう?マリアはたった今来たばかりで、挨拶した瞬間にこう言われたのです。実は、こないだ御使いが現れて、カクカクシカジカと告げたのですなどと、一言も言っていません。もちろん、マリアは受胎告知を受けてすぐにきたのですから、お腹も目立たっていない。それなのになぜ、いきなりエリサベツの口から「あなたの胎の実も祝福されています。」という言葉が出てくるのか。それはまさしく聖霊に満たされて、超自然的に神に示されて語ったことと、聖書は説明しています。こういう言葉が、自分が何も言わないうちから、エリサベツの口から出たということは、これが確かに神のわざであるとのさらなる確信を、マリアに与えたことでしょう。黙って座れば、ピタリと当たるどころか、座る前から、おそらく玄関で立ったまま挨拶を交わした途端の出来事です。
まだあります。エリサベツは「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」と続けました(43節)。ということは、マリアのお腹の中に宿っている子が、「私の主」だと信仰告白しているのです。まだ見ぬうちから。ありがたい教えを聞いたからとかでなく。これも先に御使いが「その子は・・いと高き方の子と呼ばれる」(32節)、「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(35節)と言った言葉と符合するでしょう。マリアは改めて「ああ、自分のお腹の中に、主であられるお方、聖なるお方が宿っておられるのだ」と確信を強くしたでしょう。このエリサベツの信仰告白も、聖霊によることでした。
もう一つ。マリアの挨拶を聞いた瞬間、エリサベツのお腹の中の子ヨハネも胎内で踊ったとありました(41節)。これも、ただ元気が良いということではない。ヨハネについて御使いは「まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ」と言っていました(15節)。ヨハネは、母の胎内にいる時から聖霊に満たされていたので、主が来られた時に、このような反応が起きたのでしょう。この反応も聖霊によるもの。彼のうちに宿っておられる聖霊が、胎児のキリストが来られたのを知って喜ばれたのです。
私たちのうちに宿る聖霊が、キリストに反応されるということで、一つ思い出すのは、今は天の安息に入っておられるある兄弟のことです。高齢になって病院に入られた頃は、同じ病室の方々に熱心に信仰を証し、伝道しておられたそうで、いつしか病院では「アーメンおじさん」と呼ばれていました。何年か経って、娘さんたちと訪問したあるときのこと。それは兄弟が召される二週間ほど前でしたが、その時はもう、娘さんが声をかけても反応がない、まばたきもしないような状態でした。が、私が「イエス様がいつもいっしょですからね。大丈夫ですよ。イエス様がいっしょですからね。」と申し上げたところ、それまで強ばっていたお顔が、見る見る穏やかなお顔に変わって、涙ぐまれたのです。凍っていたのが、溶けたようにと言いますか。その鮮やかな変わりようを今でも覚えています。「イエス様」というお名前を耳にした瞬間の、兄弟の何とも言えない穏やかなお顔を拝見させていただいて、確かに兄弟のうちには御霊が住んでおられるということを理屈でなく実感しました。
本文に戻って、この時、エリサベツは「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」と恐れ多い思いでいっぱいになりました。42節の「大声」は、原語では並々ならぬ大きな声を表します。それは主が来られたという恐れ多さからだったのでしょう。バプテスマのヨハネものちに、自分はイエス様の靴のひもを解く値打ちもない、と正しく告白していました。イエス様は、生ける神の御子。聖なるお方です。本来は、私たち人間が肩を並べて歩けるお方ではない。ただ、イエス様の自発的な、無限のへりくだりのおかげで、人となってくださり、私たちも「イエス様」と親しくお呼びさせて頂けるようになっているわけです。ここの微妙なところを心に留めておく必要があると思います。
さて、こうして聖霊に満たされたエリサベツの口から、最後の締めの言葉が出てきました。これも、マリアの方から何も言ってないのに、あたかも、マリアの心の中にある不安を見抜いて、諭すかのような言葉です。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)ここの「人」は、原文では女性形。ですから、具体的にマリアのことを指しています。せっかく神から恵みの約束、祝福の約束を頂いても、それを信じきる信仰がなければ、その実を受け取ることが出来ません。それで神は、エリサベツを通して、こんなふうにマリアの信仰を励まして、事を成就して下さいました。ここに、私たちの弱さを慮ってくださる神のご配慮を見ることができます。信仰というのは、ある時もっても、その後、揺すぶられたり、疑いが出てきたりするものです。そのために、神はいろいろなことを通して、私たちを励まし、強めて下さいます。
こうして、十分、十二分に励ましを頂いたマリアは、有名な「マリアの賛歌」、ラテン語訳聖書の最初の歌い出しの言葉から「マグニフィカート」と呼ばれる賛美を捧げます。それが46-55節ですが、ここにはもはや一点の疑いも不安もありません。ふっきれたマリア。もう一度ここを読みましょう。
いにしえの昔から主なる神が父祖たちに約束しておられた通り、悪をさばき、虐げられていた者たちを救われる救い主なるお方、とこしえの王として義をもって治め、平和をもたらしてくださるお方を、神がお遣わし下さった。みなが待ち焦がれていたお方を、神がついに与えて下さった。自分のような卑しいはしために目を留めて下さり、その計り知れない恵みと栄誉にあずからせて下さったことに震えつつ、賛美したことでしょう。マリヤという女性は、ヨセフとの結婚という自分一個の幸せよりも、大きな視野をもって、神が救い主を遣わされ、正義が実現する世界が来ることを喜んでいるようです。神は、高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与える方。飢えた者を良いもので満たされる方であられます。キリストが再び世に臨まれるとき、その世直しが力をもって行われ、実現します。
こうして、マリアは三ヶ月の間、エリサベツの臨月まで滞在して、交わりを恵まれました。エリサベツの言葉によって、大いに励まされるとともに、他方、御使いの言葉を信じなかった不信仰ゆえに懲らしめを受けているザカリヤをも目の当たりにして、気を引き締めさせられもしたでしょうか。
ルカがこの記事を書いたおもな目的は、マリアのおなかに宿った子が、確かに神の御子キリストであるということを、聖霊も証言しておられたという事実を記録することだったのでしょう。福音書は、ナザレのイエスが、神の御子キリストであると証言することが、おもな目的です。何よりもそのことを伝え、そして信じる者が救いにあずかることが、福音書の第一の目的です。そのことを押さえたうえで、今日は最後に、聖霊が私たちに信仰告白をさせてくださるということを覚えたいと思います。
エリサベツは聖霊に満たされて、マリアのおなかの中のイエス様を、「私の主」と呼びました。そのように、私たちがイエス・キリストを信じて、私の主と呼ぶことができるのは、私たちの内に聖霊が働いて下さったことによります。ただ通常は、お話を聞いて、ある程度理解して、そして自分の意思で、信じる決心をするという順序なので、自分で悟りを得て救われたかのように思いがちですが、でも本当のところは、すべて聖霊のみわざです。一方では確かに、自分の意思で決心するのですが、実はその決心は聖霊が働いていて下さったからできたということ。聖霊が働いて下さらなければ、神の方に心を向けることもないし、自分の罪を示されることもなく、従ってキリストが自分の罪を背負って身代わりに十字架にかかってくださったことも、三日目に復活したということも、信じられない。頭で理解することはできたとしても、信じようとは思わない。思えない。私たちが信仰告白することができたのは、聖霊のみわざです。だから、誰も誇ることができず、ただ神をあがめるのです。
これも昔のことですが、ある姉妹のご主人が特養に入っておられました。姉妹も教会も何十年もご主人の救いのために熱心に祈り続けていました。そしてある日、意識を失い、昏睡状態になりました。このまま召されてしまうのか…。あきらめかけていました。ところが、不思議なことに、ある日、突然意識が戻って、「洗礼を受ける」と言われたのです。昏睡状態のときに、どんな夢を見られたのか、何があったのか、わりませんが。そして病床洗礼を受けられて、数日、意識がありましたが、やがてまた昏睡状態になり、そのまま天国へ召されました。救霊は、聖霊のわざ、神のわざだと、鮮やかに示されました。
救われて欲しいと願って、何年、何十年と祈っておられる方、人間的には、この人は無理、と思われる方でも、人間に過ぎない者が勝手にあきらめたり、決めつけたりしてはいけません。救霊は聖霊のみわざですから、みこころならば、時が来れば、必ず信仰告白に導かれる。神に失敗、漏れはありません。その励ましと希望を受け取って、粘り強く、主に望みを置いて、執り成しの祈りに励ませて頂きたいものです。
そして私たちも、私たちの内に住まわれる聖霊に感謝しつつ、主イエス様の御名をほめたたえたいと思います。