礼拝説教要旨 2024年4月28日

とこしえの王にふさわしいお方

ルカの福音書1:26-38

<はじめに>

今日の個所は、ご覧の通り、クリスマスでよく読まれる、いわゆる「受胎告知」の場面です。ここを題材にした宗教画は多くあるようで、インターネットで検索してみたら、ある一つのホームページだけで、29もの「受胎告知」の絵が載せられていました。29種類のマリアの顔がありました。あ、このマリアさんは、ちょっとあの人に似ているな、このマリアさんはちょっと恐い顔してるな…。もちろん、それらはすべて、画家の想像によるもので、実際のマリアがどういう顔立ちだったかは、まったくわからないわけですが、ただ、今日の箇所などを読むと、なんと言いますか、彼女の内面の美しさとでもいうべきものが伝わってくる気がします。私たちプロテスタントは、聖人崇拝ということはしませんので、マリアという人も崇拝の対象とはしませんが、教えられるところはあると思います。

前回は、バプテスマのヨハネは、祭司ザカリヤとアロンの家系のエリサベツ夫婦から生まれるという、御使いのお告げを見ました。救い主が来られる前に、「これから救い主が来られるから、備えをしなさい。」と人々にお触れを告げる役回りのヨハネがそうなら、後から来られる救い主ご自身は、どんなふうに来られるのか。大祭司の家系か?それとも都エルサレムのエリートパリサイ人の家で英才教育を受けて世に出るのか、はたまた天から直接降りて来られるのか、と思いきや、意外や意外。おそらく誰も予想していなかったであろうところにお生まれになります。神のなさることは、意表をつかれます。

<あらすじ>

御使いガブリエルがヨハネの誕生を告げて半年後。同じガブリエルが再び、神から遣わされて、今度はいよいよ本命のイエス様の誕生を告げに、はるばる天からやってきました。ところが、御使いは今回は、神殿のある都エルサレムに向かわずに、そこから北の方にはずれたガリラヤ方面に向かい、その中にある一寒村ナザレに降り立ちました。そしてそこに住む、当時はまだ名もないマリアという一処女のもとに現れました。「マリア」という名は、旧約ではミリヤム。モーセの姉ミリヤムと同じです。彼女は、ダビデの家系のヨセフのいいなづけでした。「ダビデの家系」とは、ここでは特別な意味がありました。ダビデは、イスラエルの歴史上、燦然と輝く信仰深い王で、神が遣わす救い主は、そのダビデの家系から出ると預言されていました。この頃より約1000年ほど前、神は当時のダビデ王に向かって、あなたの子孫にとこしえの王座を与えると約束されました(第二サムエル7:16、旧約p. 551)。それで、イエス様の時代、人々は神が遣わす救い主のことを「ダビデの子」と呼んでいました。そのお約束通りに、ダビデの家系からイエス様はお生まれになります。

それにしても、神は華々しい都エルサレムではなく、ひなびた貧しい村に、イエス様の母となる人物を用意しておられたとは、ここにも神の御心があらわれているようです。当時、ナザレという村はケチョンケチョンに言われていました。誰かが、ナザレ人イエスがキリストだ、救い主だ、というと、「ナザレから何の良いものが出よう。」とか(ヨハ1:46)、あるいは「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう」(ヨハネ7:41)と言葉が返ってきたと言います。ところが、その「まさか」だったのです。救い主は、見下されていた人々をまっすぐに目指して、そこから救い主としてのわざを始めようとしておられました。

さて、御使いはマリアに現れて、最初に祝福の言葉を述べました。「おめでとう」原語は「喜べ」。続けて「恵まれた方」。そして「主があなたとともにおられます。」これらは確かに悪い言葉ではないけれども、目の前にいきなり御使いが現れて、こう言われても、何の事やら。ひどく戸惑い、これはいったい何の挨拶かと思案します。マリアという人はよく考える人のようです(2:19, 51)。考え込むマリアに御使いは続けました。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」ここでも「恵み」と繰り返します。これから告げることは、良いこと、喜ばしいことであると強調しているようです。続けて御使いは、内容を告げます。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。」こういうのを、予想の斜め上を行くというのでしょうか。突拍子もないことですが、これは、キリストが世に来られる時に、神自ら与えるしるしとして、これまた旧約聖書に預言されていたことでした。「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル(訳すと、神は私たちとともにおられるという意味。)』と呼ぶ。」(イザヤ書7:14、旧約p. 1178)。

処女であるマリアが、男の子をみごもる…?これが恵み?喜ばしいこと?というのはさて置き、そもそも、そんなことがあり得るのか。もちろん通常ではありえない、自然法則を超えたことです。神はこの世界に自然法則を定めた方ですから、神ご自身はその法則の下にはなく、その上におられる方です。従って、自由自在に自然法則を超えることもおできになります。これは科学的か非科学的かという問題ではなく、世界観の問題です。この世界を造られた全知全能のお方を認めるか、どうかという。その神を認めるなら、論理的に何の矛盾もなく、何の不思議もないことです。

さて、御使いは続けてマリアに言いました。「その名をイエスとつけなさい。」「イエス」という名は「主は救い」の意。主は救い!なんとありがたいお名前でしょうか!滅ぶばかりの罪びとに対して、救いとしてご自身をあらわしてくださったのです。神はさばくよりも救うことを望んでおられます。それで、主自ら、救いとなってくださったのです。救いを求めている人は、誰でもこのイエス様を信じて、従う決心をするなら、救われるのです。

さらに御使いは言葉を続けます。「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。」「いと高き方」とは神のこと。ですから、神の子と呼ばれるということ。前回のヨハネの使命は人々を主に立ち返らせる、整えられた民を主のために整える、ということでしたが、こちらイエス様は、その主ご自身です。「また、神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終りはありません。」先に触れた、主がかつてダビデ王に約束された、あの子孫だと。つまり、みなが首を長くして待ち望んでいた、あの救い主、とこしえの王を、マリアよ、あなたは宿すのだ…と。

御使いのことばを聞いたマリアは、どう反応したか。さすがに、はい、そうですか、と二つ返事というわけにはいきませんでした。ただただ驚いて、どうしてそんなことが…と戸惑うマリアに、御使いはさらに説明してくれます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれます。」自然法則を越えた、神の直接的な力によって、子どもを宿すのだと教えてくれました。これは、お腹に宿る子どもの起源が、人ではなくて、神ご自身であるということを表します。マリアの胎を借りて宿る者は、神ご自身だと。キリストは、正真正銘の神ご自身であられながら、正真正銘の人となられた方です。これを「二性一人格」と言います。神としてのご性質と、人としてのご性質の二つの性質が、ひとりのご人格の中に、混乱することなく、矛盾することなく、調和していることです。このどちらかを否定すると、異端となります。

さて、最後に御使いは、マリアの信仰を励ますために、エリサベツの例をあげました。「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6ヶ月です。」実例は、ほかの人の信仰を励ましてくれます。神がどんなふうに、現実に働いてくださったか、そういう実例、あかし、あるいは信仰者の人物伝というのは、励ましとなります。神から受けた恵み、体験は、自分だけのところでとどめておくものではなくて、時宜に応じて、あかしするべきものなのでしょう。

こうして最後に念押しの、有名な一言が御使いの口から出てきます。37節「神にとって不可能なことは何もありません。」だから、神のみこころ、神のご計画は、必ず成し遂げられるということです。人間的な不可能を可能に変えて。神のみこころは、です。

こう御使いに言われて、マリアはどう応答したか。そうは言っても、絶対あり得ないという不信仰ではなく、私みたいなものが…と謙遜傲慢?卑屈?でもなく、はたまた、そんなことになったら困ります、と辞退を申し出るでもなく、すべてを了解して、主のみこころのために、自ら進んで、自分自身を差し出しました。最後にこれまた、超有名なマリアの言葉。38節「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」受け身でありつつ、自発的。自発的受動性などとも言います。信仰の従順の極致と言うのでしょうか。あたかも、全焼のいけにえとして自分自身をささげるマリアの姿を、ここに見ます。思慮深くて、純粋で、素直で、信仰深くて、謙虚で、それでいてまったく受け身なだけではなく、自ら進んで主に自らを差し出す主体性。ヨセフといういいなづけがいましたが、迷いなくキッパリと主に自らをささげる。ここには、マリアという女性の内面の魅力が、凝縮して輝いているようです。もちろん神は、別途、ヨセフの方にもきちんと事の次第を説明して誤解を解き、二人はめでたく結ばれることになります。

「私は主のはしためです。」とマリアは言いました。はしためとは女奴隷のこと。マリアは神との関係において、自分をそう弁えていました。そういえば、御使いは、どうか、あなたのお腹を貸して下さい、と許可を求めに来たのではありませんでした。ただ神がお決めになったことを伝えに来たのです。そしてマリアはそれをそのまま、お受けしたのです。「私は主のはしためです」は口先だけでなく、実際、神に対して自分をそのようなものと自覚していたのでしょう。そんなマリアにとって、この御使いのお告げは、確かに喜ぶべきことであり、恵みと、素直に受け止めることができたのでしょう。

<とこしえの王にふさわしいお方>

さて、今日は最後に32—33節に目を留めたいと思います。バプテスマのヨハネには、救い主が来られる前に、民を主に立ち返らせるという使命があったように、イエス様にも遣わされた使命がありました。それは、とこしえの王としてヤコブの家(=神の民、教会)を治めることでした。では、キリストは今、どのようにして教会を治めているのでしょう。

キリストは、私たちの罪のために十字架にかかって苦しみを受けられ、死んで葬られて、三日目に復活しました。そして40日後に、弟子たちが見ている中で、天に上げられました。以後、キリストは、歴史と空間を超えて広がる教会の、信じるすべての者たちの王として、天の王座についておられます。そこから聖霊を遣わして、みことばによって、世界中の主にある教会を治めておられます。私たちの教会をも治めておられます。そして今のこの世界が過ぎ去っても、キリストは永遠の御国においても私たちの王であり続けます。

今日の説教題は「とこしえの王にふさわしいお方」とつけました。永遠の神の御子であられるお方が、人となってくださったのだから、当然、王であられる。それはもうそれだけで、十分で正当な理由です。しかし、それだけではありません。万物の創造者であられる神の御子は、私たちを愛し、ご自分から進んで、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかり、苦しみを受けてくださった。むち打たれ、血だらけになり、肉が裂かれて、十字架にかけられてからも、人々からののしられ、あざけられて。ただ私たちを、罪と滅びの牢獄から解放し、救い出すために、十字架にとどまってくださった。私たちの王は、このような王なのです。民のためにいのちを捨てるお方なのです。そのことがわかったときに、私たちは心から、このキリストを私の王、とこしえの王として、とこしえに私たちを治めてください、と心から願わずにいられないのではないでしょうか。神が望んでおられるのは、そういうご支配なのだと思います。力づくで支配するのでなく。

私たちも、今日、改めて、天の御座におられる御子キリストを、その御傷を覚えて、御傷のゆえに、心からほめたたえたいと思います。