礼拝説教要旨 2024年4月21日

主に立ち返る幸い

ルカの福音書1:5-25

<はじめに>

ほぼ一か月ぶりのルカの福音書です。前回の1‐5節は序文でしたから、今日のところから本文に入ります。ルカはまず、イエス様のご降誕より前に、バプテスマのヨハネという人の誕生から始めます。その際に、時代の特定と、それから聞き込み調査をしたのでしょうか、ヨハネの両親の身元とその人となりから記します。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました…。」といった昔話の類とは違って、時代が特定され、登場人物の身元もハッキリしています。何度も言っていますが、聖書はおとぎ話でなく歴史書なのです。

<あらすじ>

まず「ユダヤの王ヘロデの時代」(5節)とあることから時代が特定できます。このヘロデは「ヘロデ大王」のことで、在位BC37-4ということがわかっています。次にヨハネを授かるザカリヤ、エリサベツの紹介。ザカリヤ「主は覚えたもう」、エリサベツ「主は誓い」の意。当時、神殿で奉仕する祭司は二万人、それが24組に組分けされていました。ザカリヤはその第八組アビヤの組に属する祭司。その妻も、由緒正しいアロンの家系。ちなみにエリサベツはヘブル語「エリシェバ」で、あのアロンの妻と同じ名です(出エジプト記6:23)。

立派なのは家柄だけではありません。「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行なっていた。」「二人とも」夫婦そろって足並みがそろっている。これも尊いこと。彼らは、ともに主に仕えながら、静かな、平和な日々を送っていたのでしょう。そんな信仰深い彼らには、神のみこころによって、子どもが与えられなかったと言います。

そんなある日のこと、ザカリヤが神殿の中、聖所の中に入って、香をたくというお役目にあたりました。この当番は、くじを引いて決めるのですが、一生に一度しか担当できない大変名誉なことだそうです。中には一度も担当できずに一生を終える祭司もいたと言います。敬虔な老夫婦は、さぞ喜び、主に感謝したことでしょう。ザカリヤは感謝しつつ、ひとり、神聖な聖所に入りました。ケルビムの模様の壁に囲まれ、聖なる上にも聖なる至聖所の前、仕切りの幕の手前で、注意深く香をたいていました。すると、突然、主の使いが香の壇の右側に立ったと言います。向かって右側でしょうか。正確に御使いの立った位置まで記録します。さしものザカリヤもびっくり仰天、恐れました。しかし御使いは、恐れなくてよい、私はあなたの願いが聞かれたという良い知らせを伝えに来たのだから、と安心させてくれます。それは、子どもが与えられることで、御使いは名前まで指定して、ヨハネとつけなさいと言いました(ヨハネは「主は慈しみ深い」の意)。さらに御使いは続けました。その子は、あなたにとって大きな喜びとなり、それだけでなく多くの人も喜ぶところとなる。なぜなら、その子は「主の御前に大いなる者となるから」と。さらに、彼はお酒の類とは無縁で、胎内にいる時から聖霊に満たされていると言います。これは、この子が神に生涯を捧げられ、神のために聖別された者だということです。

その、神に聖別された子は、どんな使命をもって生まれて来るのか。それは一言でいうと16節「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ」ることでした。ここは詳しくは後で触れることにして、17節。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」「エリヤ」とは、旧約聖書中最大の預言者と称され、彼については、列王記第一17章以降にあります。この人は、生涯の最後、生きたまま、竜巻にのせられて、天に上げられたと記されています(第二列王記2:11、旧約p. 650)。そして、世の終りのとき、神が救い主を遣わす前に、このエリヤをいわば露払いのように、主が通られる道を整えるために遣わす、と預言されていました(マラキ書4:5-6、旧約p. 1635)。で、この主が来られる前に遣わされるエリヤとは、エリヤ本人のことではなくて、「エリヤの霊と力で」つまり、エリヤと同じような預言者の働きをする人のことで、やがて生まれくる子、ヨハネがそれだというのです。確かに、エリヤという預言者は、王に向っても忖度することなく罪を糾弾しましたし、同じようにヨハネも王の罪を糾弾しました。「エリヤの霊と力で」とは、そういうことでしょう。華々しい奇跡を行う力のことではなくて(参考 ヨハネ10:41)。人々はその到来を待ちかねていましたから、その誕生を喜ぶのでしょう。

こうして、主御自身が来られる前に、道備えを遣わしてくださるというのは、ありがたい神のご配慮です。突然、ぬきうちで来られると、地上はあまりにひどい状態で、神は全面的に滅ぼしてしまわなければならないほどの堕落ぶりなのでしょう。それで、あらかじめ、前触れをしてくれる人を遣わしてくださる。たとえば、家が散らかり放題の時に、いきなり人が訪ねてくると、困ってしまうということがあるといけないので、どこかへ行く時には、あらかじめこれから伺います、と一言入れます。するとその間に少しは整えられた状態に出来る。そのように、あらかじめ主の前触れをする預言者エリヤを遣わして、さあ、もうすぐ主が来られるから、生活の備えをしなさい、悔い改めなさいと神は備えをさせてくださる。

そして彼は「父の心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ」ると言います。実は、ここの元になったマラキ書では、「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」となっています(旧約p. 1635)。父親がちゃんと子供に向き合って、父親としての責任を果たすということと、子どもが素直に神に従うということには、何か関係があるのでしょうか。心理学的には、深い関係があるようですが。長くなるので触れませんが、そのような神のみこころにかなった秩序の回復をもたらすということでしょう。

さて、御使いのお告げを聞いたザカリヤは、どうしたか。敬虔な祭司ザカリヤでしたが、残念ながら、「はい、ありがとうございます。」と信じて受け取ることができず、「どうしてそんなことがありましょう。私も妻も年寄りなのに。」と思わず不信仰な言葉が口から出てしまいました。言葉というのは、誰の言葉かによって、信頼度が違います。これが、その辺のタダの人が言ったことなら、信じなくていいですが、神の使いが告げたとなると、信じて受け取るべきでした。彼は罰として、ヨハネが生まれるまでの数か月間、口がきけなくなります。厳しいようですが、これはザカリヤ自身が長年願い、祈っていたことでしたし、何よりザカリヤは、長年祭司として主に仕えてきたベテランだったということがあったでしょう。自分は年寄りで、妻ももう年を取っているというが、あなたはアブラハムとサラのことを読んだことがないのか?聖書には、アブラハム100歳、サラ90歳の時に、約束の子イサクが与えられたと書いてあるではないか、と。その後、子供が生まれるまでの少なくとも9ヶ月間、ザカリヤは神のことばを信じなかった不信仰を悔い改めさせられたことでしょう。そしてそのことが、後にヨハネを育てる際、彼を主に捧げられたものとして教育し、訓練していく時に、役に立ったでしょう。神のきよさ、ただしさ、ご真実、何よりも神のことばの確かさ。そういったものを実感をもって教えられたのではないでしょうか。

こうしてザカリヤは、しばらくの間、不自由をすることにはなりましたが、幸い、御使いを通して語られた主のことばは、実現しました。

<主に立ち返ることの幸い>

今日の中心は16節、ヨハネの使命が語られているところです。「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。」考えてみれば、当時の人たちも神を信じていました。立派な神殿があって、祭司が二万人もいて、毎日、礼拝をささげていました。各地にはシナゴーグと呼ばれる会堂があって、そこで安息日ごとに律法が読まれ、祈りがささげられていました。ちょうどこんにちの教会のように。この時よりずっと昔は、イスラエルの民は偶像を拝んでいましたが、この時代には、偶像礼拝は一掃されて、主なる神だけを礼拝していました。それを「彼らの神である主に立ち返らせる」とは、どういうことでしょう。

17節はマラキ書の引用と言いましたが、そこには当時の人々の様子が記されています。神を礼拝するとは、口先ばかり。その心には神を敬い、尊ぶ心がありませんでした。祭司たちは、神へのいけにえとして、傷のあるものや病気のものをささげていたと言います。以前学んだように、神にささげるものは、完全なもの、きよいものでなければいけませんでしたが、彼らはそれを惜しんで、市場価値のないものをささげていた、いや、ささげたのでなく、それで済ませていたというべきか。どうせ焼いて、煙にしてしまうんだからと。こんにちでは動物をささげませんが、みなさんも当時の人々になったつもりで考えてみてください。高く売れる、立派な牛や羊を惜しんで、どうせ焼いて煙にするだけだから、傷物でいいや、とやってしまわないでしょうか。それは生きておられる神に対する恐れがないということです。神を軽んじ、侮っているということです。主は当時の祭司たちに言われました「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。」そして問い詰めます。「さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。」さらにたたみかけます。「さあ、今度は、神に嘆願したらどうか。『われわれをあわれんでください』と。…神があなたがたのうち、誰かを受け入れるだろうか。」(マラキ書1:6-9、旧約pp. 1629-1630)。総督にさえ、差し出せないような代物、もし差し出したとしても、それで総督が彼らを受け入れたり、彼らに好意を示すことなどありえない代物を、神にささげておいて、神に嘆願し、「私たちをあわれんで下さい」と言っている。神がそれであなた方を受け入れるだろうか、と。

言うまでもなく、神はささげ物が欲しいわけではありません。全地は神のものですから。ただ、そこに込められている私たちの心―神を神として敬う心、尊ぶ心、恐れる心、愛する心―を神は喜んで下さるのでしょう。それこそが、真のささげものでしょう。

マラキの時代も、ヨハネの時代も、人々は、形式的には神を礼拝していたけれども、本当に生きておられる神を敬っているのか。尊んでいるのか。宗教ごっこしているだけではないのか。イエス様も、預言者イザヤの言葉を引用して言われました。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(マルコ7:6-7、新約p. 79)。

ですから、神に立ち返ることとして、今日心に留めたいことは、神を敬いましょう、尊びましょう、尊敬する心を神に向かって表わしましょうということです。そして神を敬う、尊ぶとは、具体的には神のみことばに聞き従うことです。神を尊ぶなら、神の語られたことばをも尊ぶのは、当たり前のこと。昔、「もし、わたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。」と嘆かれた天の父に、今、私たちは、父のみことばを尊んで、喜んで行うことによって、父への尊敬を表わしましょう。中には、自分には何もできないという方もいるかもしれません。できることは、すればいいし、できないことは、できないでいい。私たちはキリストによる完全な赦しに立っているのですから。キリストの十字架によるまったき赦しを受けて、神のもとに帰ったからこそ、一つでも二つでも、少しずつでいい。できるだけ神のことばを尊び、従おうとする。できる、できないよりも、天の父を敬い、そのことばを尊んでいることが、喜ばれるのだと思います。第一ペテロ2:24-25、新約p. 468。

2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

私たちには魂の牧者、監督者がおられます。なんと心強いことでしょうか。天の御国まで守り、導いてくださる魂の牧者、監督者であるイエス様のもとにいます。イエス様のもとで、神を尊び、神のみことばに従う、幸いな、まことのいのちの道を歩ませて頂きましょう。