礼拝説教要旨 2024年4月14日

天の御国に入る幸いな人

マタイ 22:1~14

二か月に一度、十字架に向かって歩まれた主イエスが、人々に語られた教えに耳を傾けてきた。先月末には、教会の暦で十字架の死と死からのよみがえりを覚える主の日を過ぎ、今月はいろいろな意味で思いを新たにする新年度を迎えている。

それはそれとして、今朝も、主イエスが人々に、何としてもご自分が世に来た目的を悟るように願っておられた教えに、引き続き耳を傾けたい。十字架での身代わりの死を心から信じる人々が起こされるよう、主イエスは切々と、また時には厳しい言葉もって語っておられた。

前回は、エルサレムで受難週の月曜日と思われる日に、イエスの言動をたしなめようと難問をもって迫ったユダヤ人の指導者たちに向かって、たとえをもって切り返された教えから学んだ。神の前に、罪を悔いて、生き方を改めることを先延ばししない生き方をするのか、「あなたはどう生きのですか?」と、私たちも問われていることを覚えた。

今朝の聖書個所は、その続きである。

1、

主イエスに難癖をつけ、何とか亡き者にしようとしたユダヤ人の指導者たち(祭司長や民の長老たち)は、一つ目のたとえ、そして二つ目のたとえを聞いて、イエスがこれらのたとえを、自分たちに向けて話しておられると気づいた。

彼らはイエスを受け入れることはできず、かえってイエスを捕えようとしたが、とても行動には出られなかった。群衆はイエスを預言者と認めていたので、彼らを敵にすることはできなかった。

その状況の中で、イエスは三つ目のたとえを語られた。「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。」と。(2節以下)御国の幸いは、王子の結婚披露宴の席に着く人々の幸いのようと言われた。

披露宴への招待は、当時の習慣では、予め王からしかるべき客に届けられていた。やがて用意が整い、招待した客を呼ぶためにしもべたちが遣わされたのである。ところが、彼らは「来ようとしなかった。」(3節)

それでも王は、再び別のしもべたちを遣わし、「どうぞ披露宴においでください」と招いたのであった。(4節)王の忍耐と寛容さが溢れた招待の様子が見て取れる。

ところが客たちは、気にもかけず、「ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。」(5~6節)

王の怒りは、当然のように人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。当然と言えば当然の報いを受けたことになる。(7節)この譬えの意味は、ユダヤ人たちが頑なにメシヤを拒む姿についてである。そして、やがてメシヤであるイエスを十字架につけて殺すことも暗示されている。

2、

その後、王はどうするかが8節以下となる。披露宴の幸いな場に、誰を迎えることになるのか。「大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。」(9節)

その指示に従って、「しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。」王の願いは、誰でもみな呼び集めることにあった。

ユダヤ人も異邦人も、また、この世での良し悪しに左右されずに、披露宴の幸いに人々は招かれるのである。主イエスの十字架の死と、死からのよみがえり以降、福音の招き、罪の赦しの恵みは、いよいよ明確に全世界へと広がることが、このたとえによって告げられている。(10節)

この譬えのクライマックスが語られるのが11節以下となる。宴席にいた客を見ようと王が来て、礼服を着ていない客が一人いるのを見つけ、王がその人を見咎めた。「『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』」

彼は答えることができず、黙っていた。(12節)この状況を、私たちは事情が呑み込めず、やや戸惑ってしまう。通りで出会って宴席に集うのに、果たして、どのように礼服の用意をどうするのか・・・である。

他のみなは礼服を着ていて、着ていないのは一人だけ、それは一体どういうことなのか。この場面、当時の習わしは、礼服は王から客に支給されるものであったと言う。その礼服を着ていないのは、王の好意を無視したこと、王を侮辱することになった。それほどに大きな背きとなる。従って、王の怒りを買い、外の闇に放り出され、歯ぎしりするしかないことになる。(13節)

3、

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(14節)この譬え全体の結論となる言葉である。

主イエスは譬えによって、旧約時代からのユダヤ人の頑なさを指摘し、彼らがメシヤであるイエスご自身を拒むことになると告げ、神が備えられた天の御国の祝福は、十字架の死とよみがえりの出来事の後、異邦人にも遍く宣べ伝えられることになると、福音の広がりを暗示されたのである。

その時、いつの時代であっても、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです」という、やや残念な事実がある。「招かれる人は多い」というのは、天の御国の祝福に招かれる人は、実は多いこと、神の恵みは多くの人に豊かに注がれていること、誰をも分け隔てずに、神は人々を救いに招いておられるということである。

その招きに応えることなく、通り過ぎる人が多い事実を、「選ばれる人は少ない」と言われた。神が人を選ばれるのか、と反論が予想されるが、このたとえでは、招きに応えて、支給される礼服を着る人を「選ばれる人」と言われている。

招かれても応じずに無視し、侮り、反逆までする人のことを「選ばれる人は少ない」、いや、そのような人々が如何に多いか・・・と、主イエスは嘆いておられたことになる。それほどに主イエスは、神の招きに応える人々が起こされることを願っておられるのである。

<結び> 王が支給する「礼服」は、イザヤ書で「救いの衣」、「正義の衣」と言われているものに通じる。(イザヤ61:10)それは、主が私たちに着せて下さる衣である。

パウロは、はっきりと「キリストを着なさい」(ローマ13:14)、また「キリストを着た」(ガラテヤ3:27)と言う。「新しい人を着る」とも。(エペソ4:24)

私たちが理解すべきことは、ユダヤ人の指導者たちと同じように、心を頑なにすることなく、柔らかい心をもって、天の御国の幸いへの招きを受け入れることである。

十字架で死なれた主イエスは、私たちの罪の身代わりとなられた救い主である。そのイエスは死からよみがえって、私たちに復活のいのちに生きる望みを与えて下さっている。罪からの救いへの招きは、分け隔てなく私たちに届けられている。

神ご自身が備え、支給して下さる礼服は、イエス・キリストを信じて義とされることに他ならない。今朝ここにいる一人一人、キリストを信じ、義の衣をまとって、必ず、天の御国に入る幸いに与らせていただきたい!