簡単に今日の場面を説明すると、ピリピという所(現在のギリシャ領)での出来事です。そこでパウロたちが、若い女奴隷から、よくあたる占いの霊を追い出しました。すると、もうけることができなくなった彼女の主人たちは怒って、パウロたちを捕らえ、訴えました。悪霊につかれている人を解放してあげたのは、本当は喜ばしいことなのに。彼らは、人を人と思ってない、金ヅルとしか思っていない金の亡者です。そしてその主人とつるんでいたのでしょうか、その地の長官は、パウロたちを調べもせずに、何度もむち打ち、牢獄に放り込んだのでした。聖霊に導かれて来た地ですが、パウロたちには不条理な苦しみが待っていたのでした。
ところが、です。むち打たれた背中がズキズキ、ヒリヒリと痛む中、彼らの口から出てきたのは、愚痴や嘆きでなく、祈りと賛美でした。
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。…」(25節)静まりかえった真夜中の獄舎に響き渡る賛美の声。うるせえ、と苦情が来るかと思いきや、他の囚人たちも聞き入っていたと言います。どんな賛美だったのでしょう。どんな時にも神の愛とあわれみをほめたたえる歌でしょうか。キリストがくださった罪の赦しと永遠のいのちを感謝する賛美でしょうか。獄中ですから、囚人たち、それこそ罪びとたちが入れられていた所ですから、福音をあかしするにはよい機会です。良心の呵責に苦しむ者、後悔の念にさいなまれる者、いたでしょうか。あるいはまた、すさんだ心に染み入るような、聖霊の臨在豊かな賛美だったでしょうか。
そのように賛美することによって、パウロたち自身も励まされ、力を与えられたでしょう。「祈りつつ、神を賛美していた」とあります。パウロたち自身も、祈る必要を覚えていたのだと思います。祈りと賛美は、私たちに力を与えてくれます。最初は、落ち込んでいたり、神への信頼も怪しかったりする状態でも、祈っているうちに、また賛美しているうちに、信仰が強められ、平安が与えられることがあります。パウロとて生身の人間。最初からチリほども恐れなく、微動だにしない木石ではなく、仲間であるシラスといっしょに祈り、賛美していくうちに、神がともにおられる確信を強められたのでしょう。祈りと賛美には、人を力づける効果があります。ゴスペル、黒人霊歌と言われる賛美は、奴隷として過酷な状態にあった人たちがささげた賛美と言います。彼らは賛美をすることで、その苛酷な状況に耐え、乗り越えたのでしょうか。
パウロとシラスは神を賛美しました。神をほめたたえたのです。むち打たれて、傷が痛み、鎖でつながれてろくに眠れもしない、この状況で、神をほめたたえている…。どうしてこの状況で、そんなふうにしていられるのか?周りの囚人も不思議に思ったでしょう。逆境の中の賛美というのは、クリスチャンの一つの特徴のようです。普通なら、愚痴や恨みつらみが口から出るところ。クリスチャンは、そんな状況でも、神に信頼して、神に望みを置いて、神に祈り、賛美さえささげる。「そんな状況なのに、どうしてそんなふうにしていられるの?」と不思議がられるような何かを、クリスチャンはもつことができるはずです。この、普通とはひと味違うところが、大切なのではないでしょうか。
もちろん、愚痴や怒りや、あるいは不安や恐れが出て来るのが人間です。それはクリスチャンも同じ。最初はそう。でもいつまでもそうではない。私たちには、みことばと祈りという、神の助けを得るための、恵みの手段が与えられています(賛美も祈りの一形態)。主の助けを求めて、むさぼるようにみことばを読み、祈りと賛美をたっぷりと時間を取ってささげることができたら、状況が変わらなくても、まず自分自身が恵みに満たされ、変わるのではないでしょうか。自分が変わって、状況も変わっていくという、問題が解決するという順序もあるようです。
ここの「真夜中」は、時間のことだけでなく、状況も真っ暗だったことを暗示しているようです。その中で、恵みとあわれみに富み給う神を賛美する。すべてをご存じで、すべてをご支配なさっている神をほめたたえる。試練となる現実に圧倒されても、なお、そこから、ささげられる賛美は、神の御前に格別尊いささげ物ではないでしょうか。また、そのような、一味違う姿が、証となるのではないでしょうか。第一ペテロ3:15、新約p. 469
神に、キリストに望みを置いて生きるということを、身に着けたいものです。
パウロたちが祈りと賛美をささげていると、驚くべきことが起こりました。彼らも予想していなかったと思います。突然、その場所が激しく揺れ、牢獄の扉が全部、開いたのです。そして、すべての囚人の鎖まで外れてしまいました。祈りに応えて、主が彼らを解放して下さったのでしょうか。いや、主のみこころはそうではなく、別のところにありました。牢の看守です。彼は目を覚ますと、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちがみな、逃げたと思い込み、剣を抜いて自害しようとしたと言います。当時、どんな理由であれ、囚人に逃げられたら、その囚人が受けるべき刑罰を看守が受けることになっていました。囚人の中に死刑囚もいたのでしょうか。それを見たパウロは、すかさず「自害してはいけない。私たちはみな、ここにいる。」と叫びました。不思議なことに、他の囚人たちも逃げなかったのです。なぜだか、わかりません。不思議なことが起こっています。そして看守はパウロとシラスのところに来て、震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出してから「先生方(原語は「主」)、救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言いました。
ここで「救われるためには、何をしなければなりませんか」という言葉が出て来たのは、何か唐突な感じがします。どうして彼がこう言ったのか。パウロたちに何か神聖なものを感じて、震えながらひれ伏したまでは理解できるとしても、それだけでは「どうしたら救われるか」という言葉は出てこないだろうと思われます。こういう言葉は、このことが起こる前から、もともと魂の救いを求める気持ちがないと、出てこないと思われます。彼はこのことが起こる前から、魂の飢え渇きがあった。救いを求めていたから、一連の出来事を通して、パウロたちをあたかも神の使いのように感じて、「救われるためには、どうしたらいいか」という言葉が出て来たのではないでしょうか。
パウロたちは、ここでこんな展開になるとは、思ってもいなかったでしょう。しかし神は、救いを求めていたこの看守を心に留められて、パウロたちを通して彼を救いにあずからせたかったのです。そのために牢獄に入れられたのかもしれません。神は、思ってもいない展開を用意されることがあるようです。また、看守は務めとは言え、パウロたちを鎖でつなぎ、牢に放り込んだ相手です。パウロたちから見たら、敵側とも思われる相手です。その相手の口から、救いを求めることばが出てきました。まさか、この人が、という人をも、主は救いに導かれます。救霊は神のみわざです。
なので、看守はこう言われて、自分だけでなく、家族にもイエス様のことを聞かせようと思いました。32節を見ると、パウロたちは、看守とその家の者全員に主のことばを語ったとあります。そして、幸い、彼とその家の者全部がイエス様を信じて、バプテスマを受けました。そうして、家族そろって神を信じたことを心から喜んだのでした。
ひとりが信じたら、自動的に家族全員が救われるわけではないとはいえ、ひとりがキリストを信じて救われたら、その家族は福音に触れる機会が多くなるということは事実です。祈られるということも、大きな力です。家族に限らず、ある関係において、あるいはある集団において、そこにクリスチャンがいるという事実は、大きいのです。そこに主が備えたもう魂がいるなら、必ず主が導かれます。
主は、私たちが福音を隠しておくことを望んでおられません。むしろ、光を輝かせることを望んでおられます。そして福音は、広がる性質を持っています。閉じ込めておくことはできません。イエス様は、パン種のたとえ、からし種のたとえで、神の国が広がっていくものであることを教えられました。救いが広がっていくことが、主のみこころということです。
主は、私たちの身近な人たちの中からも、主イエスを信じて、救われる魂を起こすことを願っていると思います。その主のみこころをわが心として、主の救霊のみわざにお仕えしていきましょう。今年度、この主題聖句を掲げて、以下のことを行いたいと考えます。
救霊はまったく主のみわざです。ゆえに何よりも第一に、救霊のために祈りを厚くします。希望者には、祈ってほしい人の名前、関係などを書いてもらい、それを集めて祈りのリストを作ります。それを伝道委員会、祈祷会、その他自発的に救霊のための祈りの重荷を負ってくださる方で共有し、祈り合います。めいめいでも祈りますし、その方々で集まって、近況報告をしながらともに祈る時も持ちたいとも思います。
通常の礼拝は、未信者の方の参加も大歓迎ですが、基本的にはすでに信じた人たちが神を礼拝することが中心なので、初めての方等にはなじみにくい面があると思います。それで、第五主日は祈りに覚えている方を礼拝に誘いやすいような内容にしたいと思います。
主が、私たちの身近な、大切な方々を救いへと導き入れて下さいますように!