礼拝説教要旨 2024年3月31日

復活の希望

ヨハネの福音書20:1-18

<はじめに>

約二千年もの長きにわたって、キリスト教会に連綿と受け継がれてきた中心的なメッセージ。それは「人となられた、生ける神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった。そして三日目に復活された。」という事実です。これは人が考え出した神話や思想の類いではなく、歴史的な出来事、事実として伝えています。それは、ハイテク全盛の21世紀の現代でも、変わる事がありません。イエス・キリストの十字架の死と復活は、聖書のもっとも大切な、また中心的なメッセージとして宣べ伝えられています。科学技術が昔からは想像できないほど進んだからと言って、すべての人の命には限りがあるという事実は変わりません。この事実に解決・救いをもたらすのは、いつの時代でも、イエス・キリストの十字架と復活の事実だけです。キリストは、実際に復活された。そのキリストを信じる者も、同じように復活する。永遠の御国に生きるにふさわしい栄光のからだをもって復活する。その復活の希望を掲げて、21世紀の今も世界中の教会で、イースター(復活祭)の礼拝をささげています。

そういうわけで、今日は、私たちは、キリストが十字架にかけられ、墓に葬られて、三日目の朝に起こった出来事について、ヨハネの福音書の記録から学びたいと思います。

<① マグダラのマリア:主を愛してはいたが、みことばを信じていなかった>

「週の初めの日」こんにちの日曜日。ほかの福音書によると何人かの女性たちが、当時の習慣に従って、イエス様の亡骸に没薬などの香料を混ぜた香油を塗ろうとして、まだ暗いうちに家を出たようです。ヨハネはその中のマグダラのマリアという人に焦点を合わせます。「マグダラ」は、ガリラヤ湖の西にあった比較的大きな町の地名。そこのマリアという人。彼女は、かつて七つの霊にとりつかれていたのを、イエス様に癒された人です(ルカ8:2)。

向こうのお墓は、洞窟のように岩に横穴をくりぬいて作ったもので、入り口は獣などが遺体を荒らさないように、大きな石でふさいでいました。ところが、彼女たちが来てみると、その石が動かされていました。ほかの福音書によると、ほかの女性たちは、そのまま、墓の中に入っていき、そこで御使いに会ったようですが、マリアは墓に入らずに、クルリと向きを変えるや、走って、ペテロとヨハネのところに行ったようです(2節の「イエスが愛された弟子」は、この福音書を書いたヨハネ自身のこと)。そして彼女は彼らに言いました。「誰かが墓から主を取っていきました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」(3節)。墓の石がどかされているのを見て、イエス様がよみがえったとは1ミリも考えなかったようです。イエス様はあらかじめ、ご自分が十字架にかかられてから三日目によみがえると、仰っていたのですが、まるで何も聞いていないかのように、何の疑いもなく「誰かが墓から主を取っていった」と思ったのでした。彼女はイエス様を愛し、お慕いしていたことは確かですが、おことばを信じてはいませんでした。たいして気にも留めずに、右から左に聞き流していたのでしょうか。イエス様が十字架にかかるなんて縁起でもない、と。

このあとペテロとヨハネは墓に行きますが、そこを飛ばして11節以下。おそらくペテロたちが墓を去ったあとのこと。マリアは墓の外でたたずんで泣いていました。かわいそうに、イエス様が死んだままだと思って、ひたすら泣いていたのです。ひとしきり泣いて、ふと、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞきこむと、白い衣を着た二人の御使いが見えました。二人の御使いは「女の方。なぜ泣いているのですか。」と声をかけました。マリアは、彼らが御使いだとは知らずに、普通の人に言うように答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私にはわかりません。」さっきペテロたちに行ったのとほぼ同じ言葉です(2節)。マリアはまだ、誰かが取って行ったと思い込んで、イエス様のおからだを取り戻したい思いでいっぱいです。するとそのとき、後ろに人の気配がしたのか、振り向くと、そこにはなんとイエス様が立っていました。イエス様本人が立っていたのですが、彼女はそれがイエス様だとはわからなかったといいます。まだ薄暗かったのでしょうか。この時もまだ泣いていたので、まともに顔を見なかったのでしょうか。それ以上に、思い込みのせいだったでしょうか。思い込みとは恐ろしいものです。

そんな彼女に、イエス様は言いました。「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。」先に、御使いも「なぜ泣いているのですか。」と言い、ここでイエス様も「なぜ泣いているのですか。」と言いました。なぜ泣いているのですか。わたしはこうして生きているのに。誰を捜しているのですか。わたしはあなたの目の前にいるのに、と問うているようです。なぜ、彼女はイエス様が目の前にいるのに、泣いていたのか。捜していたのか。それは、彼女がイエス様のみことばを信じていなかったから。愛してはいたけれども、涙を絶やさないほどお慕いしてはいたけれども、イエス様のおことばを聞き流していた。しっかり受け止め、信じていなかったからでした。不信仰は、人を不必要な悲しみの中に閉じ込めることがあるのかもしれません。もし彼女が信じていたら、彼女は生きているイエス様を捜していたでしょう。しかし、そのことには思いもよらずに悲しみに沈みこんでいた彼女に、イエス様は「マリア」と呼びかけました。自分の名を呼ぶ、その懐かしい声を聞いたときに、はじめてマリアはハッと気づいて「ラボニ」(「先生」)と返事をしたのでした。

ここからわかることは、マリアは信仰深くてイエス様の復活を信じたわけでは全くなかったということ。もしかしたら…、とも思わなかった。復活して生きているなんて、頭をよぎりもしなかった。ただ直接、復活したイエス様が彼女の目の前に現れて下さって、彼女の名前を呼んで下さって、はじめてイエス様がよみがえって生きておられるという事実を知った。彼女は信じたのでなく、実際に会ったので、復活のイエス様の証人となったのです。

<② ペテロとヨハネ:キリストの復活の目撃者、証人>

3節に戻ります。マリアから、誰かが主のからだを取って行ったと聞いた二人は、走って墓に向かいました。ヨハネの方が先に着きましたが、中には入らず身をかがめて中をのぞいたようです。すると入り口のあたりに、イエス様の身体を巻いていた亜麻布が置いてありました。続いてペテロが到着して墓に入ったら、頭を包んでいた布が、さっきの亜麻布といっしょにはなく、離れたところに丸めてありました(7節)。どういうことか。もし、誰かがイエス様のからだを盗んでどこかへ持って行ったのだとしたら、亜麻布にまいたまま、頭の布もかぶせたまま、持っていくでしょう。しかも、頭を包んでいた布から離れたところにからだを巻いていた亜麻布があったということは、イエス様が復活されて、まず、目隠しされたままだといけませんから、頭をまいていた布をその場で、上半身起き上がった状態ででしょうか、取って、その場に置いた。それから入口の方に向って歩いて行って、お墓を出る前にからだを巻いていた亜麻布を脱ぎ捨てて、御使いが用意していたのでしょうか、代わりの服に着替えたのでしょう。実際に見ると、手に取るようにわかるのだと思います。

それでヨハネは、この状況を見て、信じたと言います。8節「見て、信じた。」と。9節には、彼らはこの時まで、イエス様が復活しなければならないという聖書を、理解していなかったとあります。つまり、使徒たちも、特別に信仰深かったからイエス様の復活を信じたわけでは、まったくなかったということです。最初は信じていなかった。ただ空の墓と離れて置かれていた亜麻布と頭をまく布とを見て、イエス様は復活されたと信じたのです。

ルカの福音書には、この日の夕方、よみがえられたイエス様を目の前にしても、信じられなかった弟子たちに、イエス様が釘の跡の付いた手足を見せたり、幽霊だと思った弟子たちに、わたしに触ってみなさい、ちゃんとからだがあるでしょう、と言ったり、しまいには彼らが用意した魚を彼らの目の前で食べて見せたりして、ようやく彼らも、イエス様が本当に復活したという現実を飲み込めたという様子が記されています(ルカ24:36-43)。

このことは、イエス様の復活の事実性をかえって雄弁に物語っているのではないでしょうか。彼ら自身が最初は信じられなかったけれども、どう見ても、どう考えても実際にイエス様が目の前でからだをもって生きている。その事実を彼らは宣べ伝えたのです。彼らにとってキリストの復活を宣べ伝えることは、信じていることを宣べ伝えるのでなく、目撃者として、見たことを証言していたのです。

神は、まったくの無から全世界、全宇宙を造られたのですから、死者の中からよみがえらせることは、神にとっては何でもないこと。聖書によると、死は罪の結果ですから、罪の問題さえ、解決すれば、神の無限の力にとっては何でもないことです。神の全能の御力を額面通り信じるなら、何の不思議もありません。聖書にある「証言」を信じるか、それとも、限られた自分の知識、経験だけで、そんなことはありえない、と聖書の「証言」に目を閉ざすか。聖書は事実を目撃した人、体験した人の証言集でもあります。

<③ 復活したキリストは天におられる:召された兄姉たちは天で生きている>

マリアは、生きておられるイエス様を目の前にして、思わず、すがりつきました(17節)。しかしイエス様は、やがて天に昇らなければならないから、すがりついていてはいけないと言われました。マリアはどう思ったでしょう。イエス様は生きているとはいえ、天と地と離れ離れになって、今までみたいに顔を合わせて話すことができない。一緒にいることができない。それはやはり寂しく感じただろうと思います。けれども、今は生きておられるということがハッキリわかりました。それは、イエス様がよみがえられたと知らずに、ただひたすら悲しみに沈んでいたのとは、やはり違ったと思います。

たとえば、ある人がどこか外国に行くとします。マレーシアならマレーシア。空港で搭乗手続きを終えて、見送りに来てくれた家族とさよならをして、出国手続きのところにいきます。そこから先は、家族は入れません。残された家族は、その人の姿が向こう側に去って消えていくのを見送ることになります。日本にいる家族の前からは、その人はいなくなる。もしかしたら、家庭の中にポカンと大きな穴が開いたように、さびしく思うかもしれません。けれども、それでその人の存在が消滅したわけではなくて、場所を日本からマレーシアに移して、向こうで元気にしているわけです。日本にいる家族からは、その人の姿は見えないけれども、遠く離れてはいるけれども、南国のお日様をサンサンと浴びて、海辺で「あー、神様、このすばらしい自然をありがとうございます。」なんて言っているかもしれない。

それと同じように、キリストを信じる私たちも、やがて地上を去って、地上に残された人たちからは姿は見えなくなります。が、場所を天に移して生きている。周りからは、死んだと思われるけれども、実は本人は、地上から天に移されて、向こうで、元気にやっている。地上にいた時よりもはるかに、恵みに満たされて、いのちに満ち溢れて生きているわけです。そしてやがて、再会するわけです。

「 イエス君今日ぞ よみがえれる ああ限りなき 栄えの日よ 」新聖歌126番

私たちにとって、復活の希望は、あったらいいな、とか、こうなったらいいな、という「希望」ではなくて、確実に将来、得られることがわかっている「希望」です。将来のことであって、まだ実現していない、望んでいることだから、「希望」と呼びますが、そうなるか、ならないか、わからないけど私の望みはこれです、というあやふやなものではない。栄光のからだに復活して、兄弟姉妹方とともに、永遠の御国を受け継ぐという、この確実に成就する確かな希望を、明瞭に、明確に認識する必要があると思います。私たちはマリアや弟子たちのように、直接、イエス様にお会いしていませんが、イエス様は言われました。「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)私たちも、その幸いな人でありましょう。