今週は受難週ということで、イエス様が私たちの救いのために御苦しみを受けて下さったことを思い巡らす、キリスト教会で古くからの習わしとなっている週です。基本的には、週の初めの日(日曜日)は、キリストが復活された日であり、キリストの復活を覚え、私たち自身の復活の希望を新たにする日です。しかしまた新約聖書には、それとともに、キリストの受難に心を寄せるようにとの勧めも多くあります。私たちに今、与えられている神との祝福された関係―決して揺るがされることのない、永遠の祝福された関係―と、その結果である永遠のいのちの望み、そして喜び。それは、何の犠牲もなく、痛みもなく、苦しみもなく、お手軽に与えられたものではない。生ける神の御子の受難があってのことだった。このことを覚えることは、私たちの魂を耕し、深いところで癒しとなるものと思われます。
そういうわけで、今日は、ヨハネの福音書から、イエス様の十字架のご受難について、ご一緒に学んでみたいと思います。
当時、自称キリスト・救い主を名乗る者たちがいました。それが本当に神から遣わされた本物のキリストかどうかは、その人が旧約聖書に預言されていた通りになっているかどうかによって、見分けることができました。それでこの箇所には「聖書が成就するため」という言葉が2回記されています。28節「それからイエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために『わたしは渇く』と言われた。」イエス様がこう言うと、兵士たちが酸いぶどう酒を含んだ海綿をイエス様の口に当てました。これは旧約聖書の詩篇69:21「彼らは…私が渇いたときには酢を飲ませました。」の成就ということのようです。酸いぶどう酒は今でいうワイン・ビネガーのようなもの。ビネガーそのものが語源的には、酸っぱいワインという意味だそうですが、こんにちでは単に酢を表わすようです。ここでも、ぶどう酒というよりぶどう酒からできた酢でしょう。のどがカラカラに渇いているときに、酢を飲ませるというのは、さらに渇きをひどくするものでしょうか。あるいはもしかしたら、疲れたときに薄めて飲むものでしたから、できるだけもたせるために(=長く苦しませるために)、また気付け薬のように意識を失わせないために、飲ませたのかもしれません。いづれにせよ、これは苦しみを増すためのものだったと思われます。
ちなみに、イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘に来た時には、没薬を混ぜたぶどう酒を差し出されましたが、それは飲みませんでした。伝承によると、没薬を混ぜたぶどう酒は、エルサレムの婦人たちが、十字架刑にかかる人をあわれに思い、少しでも痛みを和らげるようにとボランティアで用意していたそうです。いわば一種の麻酔薬です。それはイエス様は飲まれませんでした。酸いぶどう酒だけ受けました。苦しみをごまかさずに、受けるべきものを受けきるというイエス様のお心の表われでしょうか。
36-37節にも聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで~と言われているからであるとあります。十字架にかけられた人は、通常、すぐには死なず、完全に息絶えるまでには何時間もかかったそうです。ところがこの日は聖なる安息日の前日でした。ユダヤでは夕方から一日が始まりますから、もうすぐ日が落ちると、安息日が始まってしまいます。ユダヤ人たちは普通の日でも死体を十字架の上にかかったままにしてはいけないという律法がありました(申命記21:22‐23、旧約p. 353)が、聖なる安息日、それもこのときは過越の祭りの始まりともなる特別な安息日でしたから、なおさら急がないといけません。それで、総督ピラトにかけあって、十字架にかけられている人たちの足を折って、早く事を済ませようとしたので、兵士はイエス様の両隣に十字架にかけられていた人たちの足を折りました。ところがイエス様のところに来ると、すでに死んでいたのが明らかだったので、足を折らなかったのです。イエス様の足だけ、折られなかったのです。これが聖書の成就だと言います。詩篇 34:20 「主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。」紀元前1000年頃、ダビデによる詩です。1000年後のゴルゴタでの出来事を描写していました。また先日まで学んでいた出エジプト記の過越の祭りのところでも触れました。過越の祭りでほふられる羊は、骨を折ってはならないという不思議な命令が与えられていました(出エジプト記12:46)。イエス様が十字架にかけられる千数百年前のことです。その過越の祭りでほふられる羊は、キリストを表していました。
そしてもう一つ、兵士が槍でイエス様を突き刺したことについては、ゼカリヤ書12:10(旧約p. 1626)「…彼ら(イスラエル人)は、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、…」これはイエス様の再臨のときの預言と言われますが、ここにイスラエル人が「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て」とあります。イエス様が再び、世に来られる時、彼らは自分たちが突き刺した方、キリストを仰ぎ見ることになります。この預言書は紀元前5世紀前半、イエス様が十字架にかかられる約5百年前に記されました。
これらの個所以外にも、イエス・キリストの十字架について預言しているところが多くあります。その一つ一つは小さなことかもしれませんが、それらが集まって一人の方を指しているなら、確実性が高まります。旧約聖書で、神が遣わされるメシアはこういう方だ、人々からこういうふうに扱われる、と書いてある通りに、人々がイエス様に対してしたということは、これは単なる自称メシアではできないこと。ある人は、旧約聖書があるから、自分はイエス・キリストを信じたと言いました。
旧約聖書にはキリストに関する預言が数多くありますが、そこに込められているメッセージは、神はキリストによって、私たちを罪と滅びから贖い、永遠に神のものとしてくださるということです。今日の交読文で読んだイザヤ書53章に次のみことばがありました。
神は、どうやって私たちを罪と滅びから贖い出されるのか。それは、罪なき神の御子キリストに、私たちの罪を負わせ、キリストにおいて私たちの罪に対する正義のさばきを行うことによって、でした。
贖うという語は、基本的には代価を払って買うという意味あいです。誰かに売られて奴隷となっていた人を、別の人が代価を払って買い取るときに使われます。聖書では、罪と死に支配され、苦しめられていた奴隷だった人間を、神が代価を払ってそこから買い取り、ご自分のものとされたことを表します。使徒の働きにはこんなみことばもあります。パウロがエペソの教会の長老たちに向けて語ったことばです。使徒20:28
キリストは、三位一体の第二位格、御子なる神ですから、キリストが流された血は、神のご自分の血と言われています。神が自らの血をもって買い取ってくださったのが、私たち、教会だというのです。どれほど神の目に尊いものなのでしょう。私たちは。私たちは神に買い取られて、すでに神のものです。だから「神の教会」と言われています。これからがんばって、功績を積んだら神のものになる、というのではない。これからがんばって、まったく罪を犯さなかったら神のものになる、というのでもない。私たちが神のものとなるために必要な代価は、すでに払われました。もう何も付け足す必要はありません。
ここの「完了した」という語は「テテレスタイ」というギリシャ語です。昔、何かの支払いが行われたときに、領収書にこの「テテレスタイ」と書かれたそうです。支払い済み、もう済んだということです。また、このテテレスタイは完了形と言って、すでに完了した、完了した状態がずっと続いている、というニュアンスです。つまり、贖いのわざは完了してしまって、もう二度とその働きは不要であることを意味しています。それがイエス様が言われた「テテレスタイ」の意味です。私たちの罪の負債は、もう残っていない。済んだ。イエス様が完済してくださった。一滴残らず、苦しみを嘗め尽くして。
イエス様は言われました。マルコ 10:45、新約p. 89
イエス様は、この、ご自分が世に来られた目的を完了されました。
1-3節には十字架にかけられる前にイエス様が受けられた苦しみ、恥が記されています。
このむちは、金属やガラスがつけてあって、肉を裂き、引きちぎるものです。いばらで編んだ冠は、とげが頭に刺さり、血が流れたでしょう。ローマ兵たちにからかれて、顔を平手でたたかれたのは、著しい侮辱です。イエス様はそれらもすべて受けきって下さいました。そして、手首のところと足の甲の根元の方でしょうか、体重を支えるだけの太い釘で、ローマ兵によって容赦なく、ガンガンガン!と十字架の木に打ち付けられました。その十字架の木を立てると、体重がかかるので、肉が裂けます。想像を絶する激痛です。その痛み、苦しみのすべては、私たちが受けるべきものを、イエス様が身代わりに受けて下さっているのです。そして受けきって、私たちの贖いが完了したのです。もう私たちが受けなければならない刑罰は、何も残っていないのです。「わたしは、あなたが受けるべき刑罰を、その苦しみを、あなたの代わりに、すべて受けきった。だから、あなたは安心して神のもとに帰って来なさい。これからは神の愛を、真実を疑わずに、神の愛と真実を確信して歩みなさい。」と招いておられるかのようです。
先週、言いましたが、人の言っていることとか、頭で思い描いている姿と、実際の行動とが違った場合、実際の行動の方が、本当のその人だと言います。ペテロは、最後の晩餐で、自分は、死んでもイエス様を知らないとは言わない、と言いました。その時は、ペテロ自身もそう思っていたのだと思います。頭の中で思い描いていた自分は、そういう勇敢な信仰者だった。しかしいざ、その時が来たら、急に怖くなって、あんな人知らない、と言ってしまいました。それが本当のペテロだったということです。では、イエス様はどうだったか。実際に十字架にかかられました。それが本当のイエス様だったということです。私たちを愛して、私たちの贖いとなり、私たちを罪と滅びから救い出すために、苦しみを受け、ご自身のいのちを与えると言われていた、そこからイエス様は逃げずに成し遂げ、完了しました。イエス様のことばに、露ほどもうそ偽りはありませんでした。
十字架のご受難にこそ、本当のキリストを見ます。キリストがどういうお方か、神がどういうお方かということを。それゆえ、ただこの方こそ、わが主、わが贖い主と礼拝します。