今日から、神がルカという人を用いて書かれたルカの福音書をご一緒に読んでまいります。ルカという、ちょっとかわいらしい響きの名前ですが、男性です。また、彼はペテロやヨハネやパウロのようなイスラエル人ではなくて、私たちと同じ異邦人で、この福音書はルカが異邦人に向けて書いたとも言われます。また、当時のお医者さんでした。またこの福音書に使われているギリシャ語の文体からして、教養人だったとも言われます。また彼は、パウロの第二次伝道旅行の途中からパウロと行動を共にするようになり、その誠実な人柄の故でしょうか、パウロから「愛する医者ルカ」と呼ばれています(コロサイ4:14、新約p. 407)。パウロの晩年、獄中にあるパウロとともにいたのは、ルカだけでした(第二テモテ4:11、新約p. 429)。お医者さんとして老パウロの健康もケアしたのでしょうか。
そんなルカという人が書いた福音書の、今日は序文を学びます。たかが序文と侮るなかれ。調べてみたら、ここにも大切な、福音の本質のひとつが浮かび上がってきました。
1-4節は本福音書全体の序文です。テオフィロという人への献呈の辞となっています(3節)。本を書く時に、よく最初に誰それに献呈する、捧げるという「献呈の辞」なるものを入れるようですが、ここでは「尊敬するテオフィロ様」という人に宛てられています。テオフィロなる人物についてはよくわかりませんが、「尊敬する~様」と訳された語は、高い地位にある人に対する尊称です(口語訳では「閣下」、英訳もYour Excellncy, most excellentで、これは大使などに対して使われる尊称)。それで一説には、テオフィロはルカがかつて医者として仕えたローマの高官ではないか、などと推察されます。他方で、テオフィロは「神の友」、あるいは「神に愛されている者」の意味であることから、特定の個人ではなく、クリスチャン一般の象徴とする向きもあります。そうすると、most excellentのような尊称も、当時、奴隷や社会的に弱い立場の人が多かったクリスチャンたちに、彼らがみな、神の子ども、全宇宙の王である方の王族の一員であることを思い起こさせるものでもあったでしょうか。出エジプト記で学んだ、クリスチャンはみな大祭司の胸当てにある宝石のように、神の目に尊い存在であることも思い合わされます。貧しくても、社会では高い地位になくても、イエス様もそうだったのですから、いつも神に愛されている神の子どもとして、健全なセルフイメージを保てたら幸いです。むしろ、逆境にあってこそ、そういう自己認識が支えとなるでしょう。こんにちでは、ここのテオフィロは、実際の個人名とする向きが多いようですが、いづれにしても、私たちもみな一人ひとり、「神の友」「神に愛されている者」としてテオフィロです。そのことは確信していいこと、むしろ、確信するべきことです。主もそうすることを喜ばれると思います。
ルカは、「私たちの間で成し遂げられた事柄について」書きました。何のことかというと、神が私たちの救いのために、イエス・キリストによって、成し遂げて下さった事柄のことです。キリストは人としてお生まれになり、公に現れてからは、民衆を教え、奇跡を行い、癒しのわざをし、そして最後は私たちの罪のために身代わりに十字架にかかり、葬られた。そして後に続く私たちの初穂として三日目に復活された。そして40日もの間、復活したお姿で人々の前に現れ、そして弟子たちの見ている前で天に上げられた。それら神がイエス・キリストによって、私たちの救いのために、成し遂げられたことです(もしかしたら使徒の働きも含まれるかもしれませんが、今日はそれには触れません)。
それは、アダムの堕落直後から、旧約聖書の時代を通してずーっと預言され、待ち望まれた、私たち人類に対する神の救いの約束の成就でした。いのちの源である神から離れて、滅びるしかなかった人類のために、神との交わりを回復し、永遠のいのちを回復してくださるという救いの約束が、ついに成就した。すべての人を有無を言わせず支配していた死という敵を滅ぼし、死の恐怖につながれていた人類の運命をまったく変える神の救いという超自然の出来事。それが「私たちの間で」成し遂げられたというのが、意義深い。これは、多くの証人がいる中で、間違いなくこの歴史の中で行われたということです。どこかの山奥で誰も見ていないところで、誰かが、神が私に現れてお告げを受けた、などと怪しげなものではない。起源のわからない言い伝えや神話の類いでない。多くの証人がいる「私たちの間で成し遂げられた事柄」この時、イエス様が天に召されて30年前後と思われますが、第一世代の証人がまだ生存している中で聞き取りをし、あるいは、ある程度の複数の証言や、出所の確かな記録など、ほかの方法でウラを取って確証を得たものを編集したのでしょう。
ルカが書いたのは、誰かの思想や哲学でなく、証人が大勢いて、その真実性が確証された歴史的な事実。それをこれから書いていきます。福音書は思想の書である以上に歴史書であることを心に刻みましょう。百の理屈や御託より、事実一発の重みです。
その成就した出来事についての「初めからの目撃者でみことばに仕える者となった人たち」とは、使徒たちのことでしょう。彼らは直接、イエス様といっしょに過ごし、言葉を交わし、直接、教えを受け、イエス様にお仕えしました。すべてのことを目撃しました。使徒たちはそれを人々に語り伝えていたのでしょう。ただ、おそらくそれは、まだまとまった一冊の書にはなっておらず、断片的な伝承として広まっていたのでしょう。それで、それを「多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みて」いたのでしょう。ちょっとしたブームになっていたのでしょうか。しかしブームというのは、一方では喜ばしいことかもしれませんが、他方、伝言ゲームのように、最初の内容と違ったものも出て来ることは容易に予想できます。善意からかもしれないけれども、より劇的にしようと話を盛ったり、あることないこと捏造したりと、余計なことをしてしまう者もいたかもしれません。真実にこそ、力があるのに。実際、聖書の正典に入らなかった外典とか偽典とか呼ばれるものもあります。トマスの福音書とかペテロの福音書とか、それらしい名前を付けて、だけども明らかに偽物とわかるものがあります。たとえば、幼いころのイエス様が泥遊びをして鳩をつくり、それに息を吹きかけたら、本物の鳩になって飛んで行ったとか(これは偽物の作り話ですから、信じないでください)。それらは「福音書」と称していても、本当の福音書ではなく、聖書の中には入りません。またパウロの書簡にも、当時「果てしない作り話」「俗悪で愚にもつかない作り話」があったことがうかがわれます(第一テモテ1:4、4:7、新約p. 418、421)。事程左様に、当時、玉石混淆というか、粗製濫造というか、いろいろ出てきていた中で、良心的なルカは、話を盛ったり変えたりしないで、できるだけ「事実」を最初から綿密に調べて、順序を立ててまとめ、正確な事実を伝えようと、この書を書いたというわけです。色々な海賊版みたいなのが出て来て、どれがほんとかわからなくなったり、変な文書を読んでつまずいたりしないように。テオフィロが、すでに教えを受けた事柄が正確な事実であることを確信してくれるように。そんな執筆事情、執筆目的でした。
従って、編集方針はできるだけすべてのことを網羅的に(「すべてのことを初めから」)、正確に(「綿密に調べて」)、順序立てて書くこと。5節以下にあるバプテスマのヨハネの誕生から書いているのは、ルカだけ。イエス様が12歳頃のエピソードを載せているのもルカだけです。すべてを網羅して書こうとしています。また「順序立てて」は必ずしも時間順というのでなく、事柄の意味ごとにまとめるということのようです。たとえば、いくつかの機会にイエス様が語られたことを一か所にまとめたり。そうすることによって一つのテーマについて、イエス様がどう語られたか、より理解しやすくなるわけです。
歴史を調べるときに、一次資料(直接そのことを見聞きした人の証言)が最も価値が高いとされます。又聞きは劣るとされます。又聞きの又聞きはさらに劣るとされます。元から遠くなればなるほど、一般に信ぴょう性は低くなります。その点、マタイの福音書、マルコの福音書(ペテロの口述筆記と言われる)、ヨハネの福音書は、直接、イエス様といっしょにいた弟子たちの証言ですから文句なし、超一級の資料です。こんなにすぐれた歴史資料が、三つも現代まで残っていること自体、奇跡です。ルカは直接の証人ではないので、歴史の資料としては二次資料、三次資料になるかもしれません。が、こうして新約聖書の正典に入っており、神のことばとして、代々のキリスト教会は受け入れてきました。私たちは、その資料収集にも神が働かれて、あらゆる間違いから守られているとの信仰に立っています。
ちなみに、ルカがそうしたように、私たちも聖書を調べるときにその時代の歴史文書・資料を参考にしますが、ただ注意しなくてはいけないのは、あくまでもルカがこの福音書を書いたときには、聖霊によってあらゆる間違いから守られたのであって、私たちが目にする一般の資料は、間違いから守られているとは限らないということ。なので、それを過信してはいけないということです。一昨年の大会会議で、長老教会がNTライトという神学者に対して評価を下したことの一つは、彼が、当時の一般の文書・資料に、聖書本文と同等か、あるいはそれ以上に、重きを置いているということだったと思います。それはある意味では、ルカがこの福音書を書いた意図の逆をやっていることになります。せっかく良心的なルカが、まだ生き証人がたくさんいた時代に、網羅的に、綿密に調べて事実を正確に書いてくれたのに、わざわざそれ以外の、間違いが混じっている聖書外の資料に手を伸ばして、そっちに軸足を置いてしまって、聖書に新しい光を当てたとか、新しい福音を発見したと言っているような。聖書外資料は参考にはしますが、あまりそっちに引っ張られると、救いの真理から迷い出ることになりかねません。注意が必要です。
聖書とそれ以外の当時の書物とは、厳然たる区別があるというのが、私たちの立場です。聖書は聖霊によって聖別された、特別な書物です。神の摂理によってあらゆる間違いから守られていると私たちは信じています。あくまでも、旧約39巻、新約27巻からなる計66巻の聖書だけが、誤りなき神の御言葉であるとの信仰告白は、私たちの信仰と生活の根幹をなすものです。日本長老教会はこの聖書信仰に立脚して設立され、これまで歩み、これからも歩んでいくことを、30周年記念宣言でも表明しています。
最後にもう一度覚えたいのは、神がキリストによって成就して下さったことは、「私たちの間で成し遂げられた事柄」だということ。私たちが生きているこの時間と空間の中で、この歴史の中で、このことが実際に起こった。成し遂げられた。だから証人もいて、確かめることもできた。それはとりもなおさず、私たちの罪の赦しがこの歴史の中で、現実に成し遂げられたということ、それゆえ、生ける神と私たちとの交わりが現実に回復したこと、その結果、現実に実際に、私たちは永遠のいのちに生きる者とされたということです。これらすべてが、誰かの空想や幻想や哲学・思想でなく、「私たちの間で成し遂げられた事柄」ということの意義を、よく思い巡らしてください。ここに福音の大切な本質のひとつがあります。福音の歴史性、事実性ということです。
イエス・キリストの救いのみわざは、実際に、現実に、この歴史の中で、神が成し遂げて下さった出来事です。ハレルヤ!