ご一緒に読み進めてきました出エジプト記もいよいよ最終章、最終回となりました。2021年8月15日から読み始めましたから、およそ2年7か月かけて全40章を読み通したことになります。途中、幕屋のところ、延々と何が何キュビトと記されている所は、よっぽど飛ばそうかと思いましたが、みなさんもよく耐えて?ついてきてくださいました。みなさんが聖書通読をしていて、出エジプト記でわからないところが出て来た折には、この説教のプリントを参考にして頂けたら、とも思います。
前回、幕屋とその備品をモーセが一つ一つ点検して、すべて主が命じられたとおりに作られたことを確かめました。あとはこれを組み立て、備品を定められた位置に設置する段になります。主がそこに住まわれるという幕屋がついに完成します。
ここは3つに分けることができます。1-15節は主がモーセに告げたこと。16-33節は、その主のことばを受けてモーセが行ったこと。そして34-38節がその結果です。
用意ができたので、あとはそのまま組み立て始めても良さそうなものですが、ここでもモーセは勝手に始めたのでなく、最初に主の方から、いつ、どの順番で、幕屋を設営するべきか、告げられました。記念すべき最初の幕屋設営は、第一の月の一日。イスラエルの暦の元日です。新しい年の最初の日に、主が彼らの中に住まわれる幕屋を設営し、主と民が新しい歴史をスタートさせます。イスラエルがエジプトを出たのが第一の月の14日、過越の祭りの時なので、ほぼ1年が経過していました。この間、紆余曲折があり、途中、あわや、、、ということもありました。それだけにモーセも感慨深いものがあったでしょう。
そして幕屋を設営する手順。まず聖所となる建物そのものを設営する。そしてその中に、まっさきに置くのがあかしの箱。そこで主が会い、そこから主が語られるという、最も重要かつ神聖なものです。置いたらすぐに、人の目に触れないように、垂れ幕で箱の前をさえぎります。この垂れ幕で仕切られた至聖所は年に一度、大祭司だけが入るよう定められていました。そして以下、聖所の備えのパンを載せる机、純金の燭台、香を焚く金の祭壇。これら聖所の用具を置いたら、これも外から見えないように入口に垂れ幕を掛ける。こちらの聖所は祭司だけが、毎日そこで奉仕するよう定められていました。これで聖所は出来上がり。ついで外庭の中心となる、各種いけにえをささげる祭壇を据え、祭司が身を清める洗盤を据えて水を入れます。最後に周囲をグルリと囲う掛け幕を立てて、最後の最後に入口・門に垂れ幕を掛ける。これで幕屋の設置は完成です。
しかしこれで終わりではありません。これを世俗から区別して、主のご用のために聖別しなければいけません。幕屋の用具も、それに大祭司、祭司たちにも油注ぎをして聖別します。世にあるものは、聖別されて、主のものとなります。注ぎの油は聖霊を表します。先週も引用した個所ですが。第一ペテロ1:2、新約p. 465
私たちは、キリストに従うように、またキリストの血の注ぎかけを受けるようにと、御霊によって聖別されています。聖霊によってそのように聖別されているとは、考えてみたら、大きな励ましです。自分の決心とか自分の思いとか、自分から出ていることに過ぎないのではなく、神の御霊によって、そのように導かれているというのですから。それは神から出ていることであり、神の力によって、そのように導かれているということです。もちろん、それは、私たちが完璧にキリストに従う歩みができるということではなく、失敗し、間違うことが多々あっても、キリストの血による、まったき赦しを信じて、そこから離れない。その尽きない赦しの中に留まって、神の愛、神の真実を信じ、それらに励まされながら、キリストに従う歩みを続けていくということです。そのような信仰、思いは、御霊から来ているのです。なんと感謝な、また心強いことでしょうか。御霊による聖別を受けている者として、神に愛され、神のものとされている確信に立って、キリストに従う歩みを続けましょう。
17節を見ると、モーセは一日で設営を完了したようです。確かに組み立て自体はそれほど時間がかからないでしょう。ここで強調されていることは、モーセがすべて主が命じられたとおりに行ったということです。前回までのところは、民がすべて主が命じられたとおりに行いましたが、ここでは、モーセ自身が主から命じられたとおりに行い、その仕事を終えました。前回と同様、16節に「モーセは、すべて主が命じられたとおりに行い、そのようにした」と総括され、主が言われた通り、第二年の第一の月の一日に幕屋を設営したこと、以下、主が指示された順番通りに、幕屋を造り、あかしの箱を置き…と行なったことが記されています。そして一つ一つ、出来上がるたびに、あたかも合格の検印を押すかのように、「主がモーセに命じられたとおりである。」と記されます(19,21,23,25,27,29,32節)。そして最後33節で「こうしてモーセはその仕事を終えた。」と記されます。
前回、民の従順が教えられたとすれば、ここではモーセがキリストを表すと見立てることができるでしょうか。モーセが神の語られたとおりにすべて行なって、その仕事を終えたように、キリストは地上で完全に御父のみこころに従われて、最後は十字架上で、私たちの罪のために、苦しみを少しも残さず飲み干されたのちに「完了した」と言われました(ヨハネ19:30、新約p. 226)。私たちを贖うために、なすべきことをすべて完了したと。そしてその結果は…。
モーセがすべての仕事を神が語られたとおりに終えると、神の臨在を表す雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちました。それはモーセですら、その中に入ることができないほどでした。モーセの働きではなく、モーセの従順を通して神の栄光が現れました。これは、主が確かにここに来られて、これからここに住まわれるということを、人々の目の前でハッキリとわかるように示されたのでしょう。この現象は、この時限りだったと思われますが、以後、主はこの会見の天幕に住まれ、荒野にあってイスラエルの民を導かれました。彼らは、主の臨在を表す雲が幕屋から上ったときに出発し、雲が上らないと、上るまでとどまりました。進め、止まれは、主の導かれるままに。また、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は人々に見えるように、雲の中に火がありました。
新約の時代に適用すると、キリストが御父から命じられたすべてのことを完了したあと、ペンテコステの日に、天から聖霊が激しく降り、初代教会を満たしました。以後、主は常に教会に住まわれ、教会はキリストの満ち満ちたところとなりました。エペソ1:23、新約p. 385
教会が、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところと言っても、現実の教会の姿が、なんだかそうは見えない…と思うでしょうか。それはもしかしたら、私たちの側に原因があるのかもしれません。前回、水道管のたとえを話しました。神は祝福を、恵みを注ごうとしておられるのに、私たちの側の不従順という詰まりによって、それが流れて来るのを妨げていると。だから不従順という詰まりを取り除いて、主のみことばに従順になったときに、主が最初から与えようとしておられた祝福、恵みが流れて来る。すべてのものを満たす方が、満たすことがおできになる、ということがあるのかもしれません。
キリストがすべて必要なことを、御父のみこころのとおりに行い、完了してくださったので、神は信じる者のところに来られ、彼らとともに住まれ、導いてくださっているという霊的な現実は、すでにあります。ですが、せっかく主がともにおられ、導いてくださっているのに、従わなかったら意味がありません。主は行けと仰っているのに、いやだ、オレはテコでもここを動かないとか、主はここにとどまれと仰っているのに、あっちの方が楽しそうだ、と腰が浮きだすとか…。こんにちでは、目に見える雲の柱はありませんが、御霊とともに聖書のみことばが与えられています。主は、みことばによって、私たちが広大な人生という荒野をどう歩むべきか、指針を与えておられます。詩篇 119:105、旧約p. 1065
私たちが、みことばに従って歩むということを積み重ねていくときに、後からその人生を振り返って、あたかも雲の柱が民を導いていたように、主が私たちの人生を導いていたことが見て取れるのかもしれません。そうでありたいと願わされます。
以上で出エジプト記を読み終えるわけですが、振り返ると、印象的な個所がいくつかありましたが、個人的に一番印象に残っているのは、金の子牛事件のあと、モーセの必死のとりなしにより、主が、民の赦すべからざる罪を赦し、受け入れてくださったときに、主が語られたみことばです。34:6-7
主がこのようなお方だからこそ、主は罪びとである私たちの間に住んで下さる。大切な御子キリストを神と人との仲保者として世に遣わし、十字架に渡してまでして。そこがあっての、インマヌエル(「主は私たちとともにおられる」の意)であることを忘れてはいけないと思わされます。
その上で、イエス様は十字架にかかれて復活後、弟子たちに言われました。マタイ28:20。
「いつも」とイエス様は言われました。今日も、今も、主は私たちとともにおられます。どこにもイエス様のお姿が見えないように思えるときでも、イエス様はともにおられます。何と幸いなことでしょうか。私たちは、主がいつもともにおられると信じて、この主を見上げて、主の導きに従って、信仰の旅を歩んでいきましょう。最後に、主に導かれる幸いを歌った詩篇23篇を読みましょう。