出エジプト記も、残すところあと来週の一回のみとなりました。ゴールも目の前です。この出エジプト記のゴールは、主がイスラエルの民の中に住まわれるということ。そのために必要不可欠な幕屋礼拝のための用具も、前回までですべて作り終えました。ベツァルエル、オホリアブ、その他「心に知恵のある者」たちが、作り上げたものをすべて、モーセのもとに持ってきます。それはただの飾り物ではない。聖なるお方、主がそこに住まれる場所です。モーセはそれらをちゃんと主がお命じになった通りに作られているか、抜けはないか、それこそひも一本に至るまで(40節)チェックします。それは、ただ単に出来栄えがいいかどうか、ということではなくて、主がモーセにお命じになった通りに作られている、ということが大切な点でした。
前回、39章の前半には、「主がモーセに命じられたとおりに」ということばが、判で押したように繰り返されていました。1節はこれから語る大祭司の装束について、主がモーセに命じられたとおりに作ったと全体を総括しています。そして以後、エポデや肩当てや胸当てなどなど、ひとつひとつ出来上がるたびに「主がモーセに命じられたとおりである。」とまるで検印を押すかのように記します。2節からエポデを作って、仕上がると5節「主がモーセに命じられたとおりである。」、6節から肩当てを作って、仕上がると7節「主がモーセに命じられたとおりである。」、8節から胸当てを作って、仕上がると21節「主がモーセに命じられたとおりである。」、22節から青服を作って、仕上がると26節「主がモーセに命じられたとおりである。」、27節から亜麻布の長服を作って、仕上がると29節「主がモーセに命じられたとおりである。」、そして30節から聖別の記章の札を作って、仕上がると31節「主がモーセに命じられたとおりである。」とありました。そして今日の個所は会見の幕屋(聖所)についても、大祭司の衣裳についても、すべて総括して32節「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。」と総括され、さらに最後の42、43節でも「イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。」と三度も「とおりに」と繰り返して、そのことを強調しているのがわかります。彼らは自分たちで考え、自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。
ある人は、出エジプト記はある意味、この「主が命じられたとおりに」ということによって、主のわざが進んで来たと指摘しています。最初、主からこの務めに召されたモーセは、いや、自分は口が重いだの、ほかの人にやらせて下さいだのと、しり込みして主の召しに従いませんでしたが、主の忍耐深いお導きによってついに召しに従って、出エジプトは始まりました。以後、エジプト王パロのもとに行くようになってからは、かくかくしかじか、モーセとアロンが、主が命じたとおりに従ったことによって、エジプトに数々の奇跡が起こり、頑迷この上ないエジプト王パロも降参して、イスラエルの民を解放したのでした。主の命令へのモーセたちの従順によって、主のみわざは行われました。
こんにちの私たちのクリスチャンライフにも、同じ原則があてはまります。私が何をした、どれだけ頑張ったか、ではなく、主がこう言われたということが中心になるべきです。その主のみことばに従うことで、その人の生活に主が働かれるのでしょう。私たちは、実際に神のみことばに従うことによって、神の世界に生きることができます。ある人は、すべての問題の解決の鍵は、主が命じられたとおりに行うことだと言います。主が何と語っておられるのかを正しく受け止め、その通りに行うこと、と。そして結果は主に信頼して、お委ねする。箴言3:5-7、旧約p. 1095
旧約聖書中、随一の知恵者と言われるソロモンの言葉でした。
新約では円熟した老使徒ペテロの言葉も見ておきましょう。第一ペテロ1:2、新約p. 465
私たちは、イエス様を信じるように召されただけでなく、お従いするようにも召されている。イエス様のみことば、御教えに従うというのが、クリスチャンの立ち位置です。ここを常に確認して、何度でも立ち返らないといけないと思います。
しかしながら、主に従いたい意思はあるけれども、それができない私たちの弱さ、罪の根深い性質をよく知っている老ペテロは、続けてすぐに「その血の注ぎかけを受けるように」とも続けます。キリストの血潮のゆえに、私たちは完全な赦しの中にあることを忘れないようにと。だから、どれだけ失敗しても、七度を七十倍同じ失敗を繰り返したとしても、キリストの十字架のゆえに、神との恵みの関係に入れられていることを確信していい。そこから離れてはいけない。そこに留まる。そして聖霊の助けを仰いで、最終的にはすべてを成し遂げて下さる神のご真実により頼んで、神に委ねて、また主に従う歩みを続けるのです。
33-41節には、すべてそろった幕屋礼拝のための品々がリストアップされています。これまで何度も見て来ましたが、どれか印象に残っているものはあるでしょうか。それにしても、ずいぶんと多種多様の品々が作られました。金、銀の貴金属も大量に使われました。青銅、木材、布、糸、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮なんていうのもありました。ともしびの油、香油、香りの高い香、それに大祭司の衣裳には12種類の宝石も使われました。エジプトで奴隷だった彼らのために、主がこれらすべての必要を備えて下さいました。モノだけではありません。これを加工する技術、知識、デザイン、中には加工に高度な技術を要するものもありました。それらを行うための賜物も主が与えて下さいました。
主が何かをお命じになるときは、そのために必要なものをすべて備えて下さいます。いわば、お膳立てして下さった上で、あとは私たちが主の仰せの通りに従うようにというのでしょう。エペソ 2:10(新約p. 386)のパウロの言葉が浮かびます。
神が私たちに行なうようにと備えておられることは、何でしょうか。それぞれが置かれている状況で、主が何を求めておられるか、考え、祈り求めてみましょう。
こうして彼らは、神の十分な備えの中で、主が命じた通りにすべてのことを成し遂げました。それを見てモーセは、彼らを祝福しました(43節)。ここから、主のみことば通りに従うことによってあずかる祝福がある、ということを教えられます。これは善行を積んで報いを与えられるというのとは、ちょっと違うように思います。善であれ、悪であれ、それに報いるというのは、神様の正しいご性質ですから、そういうこともある、聖書はそう教えていますけれども、でもそれだけに偏ってしまうと弊害も出て来る。で、従うことによって祝福されるという場合に、別な面があると思います。たとえば、詰まった水道管があったとして、その詰まりを取り除いたら、水が通って、蛇口をひねるとその恩恵にあずかることができます。主のことばへの不従順は、いわば、この水道管をふさぐ詰まりのようなもので、本来、神が注ごうとしておられる祝福を妨げているもの。だから、その不従順を取り除いて主のみことばに従うときに、本来、神が注ごうとしておられた祝福が、私たちに、その状況に、生活に流れてくる。まわりをも潤す。そういうことでしょう。神のみこころは祝福です。
「救いは行いによらない」ということと、「みことばを行うことによって祝福される」ということが、ごっちゃになって誤解されがちですが、みことばに従うことはよいことであり、祝福されることなのです。そこに救いがかかっているのでは、決してありませんが、もともと人間は神に似せて、神のかたちに造られたものなので、神のみことばに従うことが、本来の私たちの魂にフィットするのです。ヤコブ書1:22
「自由をもたらす完全な律法」とは、文字に縛られるような、みことばの守り方ではなく、キリストを一心に見つめて、自由な心でキリストに従うことでしょうか。ちなみに、その祝福とは、多くの場合、霊的祝福だと思います。良心の平和とか、身近な人たちとの間で良い関係になったとか、喜びや平安が満たされたとか、主をより親しく知るようになったとか(ヨハネ14:21,23)。いわゆる御利益と言うことではないでしょう。
最後に一つ、おさえておきたいことがあります。もし仮に、この出来上がったものを見せて、これと同じものを作ってくれ、と日本の会社が注文を受けたら、まったく同じものを作ることができるでしょう。しかし、出来上がりが同じでも、それは主が良しとされないでしょう。主は以前、これらの幕屋礼拝の品々を作るための材料について、「進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」と命じておられました(25:2)。私たちが主に献げ物をするとき、主は心をご覧になるように、幕屋を作るときの奉仕についても、主は心をご覧になるのではないでしょうか。そういう意味では、ここに、イスラエルの子らが、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った、とあるのは、そのような内面も含めてのことだったと思います。あの、金の子牛事件の後、民は滅ぼされて当然のところ、荒野に放り出されて当然のところ、モーセの命がけのとりなしによって赦された。そして神が彼らの間に住んで下さり、荒野にあっても彼らとともにいて下さる、となったときに、彼らは感謝の思いであふれました。そして幕屋のための奉納物を来る日も来る日も人々が持って来て、ついには「もう持って来てはいけない」と禁じなければならないほどでした。モーセは、それを見ていたので、民が心から喜んで、感謝の思いをもって、献げ、奉仕をしていたのを知っていたのでしょう。いやいやながらでなく、惜しむ気持ちでなく。それも含めてモーセは彼らの奉仕を良しとみて、彼らを祝福したのでしょう。
そう考えると、転機はあの金の子牛事件だったのだと思われます。あのこと自体は、民が自分の欲を偶像にして、礼拝したという、忌むべきもの、大きな罪でしたが、神はそれをも益と変えられるということでしょう。過去の罪、失敗をも、益と変えられる主です。この時も、金の子牛事件を経て、民の自発的な、積極的な従順が引き出された。いやいやながらの服従ではなく。それは赦された感謝から、一度失って、もうダメかもしれないとあきらめかけていた関係を回復してもらった喜びから出ていました。
こんにちで言えば、福音から、主に従う動機を汲み取るということになるでしょうか。もしキリストの十字架による贖いがなかったら、私たちは神との恵みの関係に入ることはできませんでした。仲保者、大祭司の役割を、自ら進んで引き受けて下さって、―それが何をしなければならないかを知った上で、引き受けて下さってー十字架にかかり、私たちを永遠に続く恵みの関係、神の子とされる関係に救い入れて下さった御子イエス様に、心からの感謝の心とともに、従順のわざをお献げする幸いにあずからせて頂きたいと思います。