礼拝説教要旨 2024年2月25日

仲保者に 満ちあふれたる 神の愛

出エジプト記39:1-31

<はじめに>

順番に見て来た出エジプト記も、残すところ2章となりました。出エジプト記の全体の流れは、主がご自身の民をエジプトの奴隷状態から救い出し、そして主が彼らの間に、彼らとともに住むようになる、そういうハッピーエンドです。

主の方がどれほど、そのときを待ち焦がれていたかしれません。それは今も、同じです。

天地を造られ、人間を造られた神は、神に背いて罪ある者となってしまった私たち人間であっても、なお、私たちのところに来て、ともに住むことを願っています。私たちが、自分の造り主であり、いのちの源である神とともに生きる、永遠のいのちを生きるようにと願って、いろんな人を通していろんなことを通して、ご自分のところに来るようにと招いています。

神が人のところに来て、いっしょに住むと言っても、ただ来ることはできません。そのために、決定的に重要なのが、大祭司という役割でした。

以前、触れましたが、大祭司とは、神と人との間に立つ仲保者・仲介者の役割の人です。いくら強調し過ぎてもし過ぎることがない、とても大切な役割です。

キリスト教の中心は、ある意味、この仲保者にあるとも言えます。人が神に背き、罪ある者となってからは、神と人とは、仲保者なしに直接いっしょにいることはできない状態になってしまった。

光と闇が触れると、その瞬間に闇が消えるように、聖なる神と罪ある人間が直接触れると、その瞬間に人間は滅びてしまいます。そうならないために、神と人とがともに住むためには、仲保者が必要なのです。

そしてキリストは事実、今から約二千年前に、真の大祭司、仲保者として世に来ました。私たちの救い、永遠のいのちは、この仲保者キリストに全部かかっていました。

そしてキリストは、仲保者としての務めを完全に、少しの欠けもなく、全うされて、天に帰られました。だから、キリストを信じた者は、神との関係において、心から安心することができます。

今日の個所は、大祭司が身に着ける衣裳を、かつて主がモーセに命じたとおりに作ったという記録です。この大祭司の衣裳についても以前、詳しく学んだので、今日は復習にもなりますが、いくつかポイントをピックアップして、改めて大祭司キリストを頂いていることの計り知れない恵みを思い、感謝を新たにしたいと思います。

<① 縞めのうに刻まれた十二人の名(6-7節)>

今日の個所に何度か出て来るエポデとは、エプロンのようなものです。このエポデには肩あてと胸当てが取り付けられました。

肩当ては、両肩に一つずつ、金細工の枠にはめられた縞めのうの石が付けられ、その石にイスラエル十二部族の名が刻まれました。

めのうは、硬度が高く、ナイフでひっかいても傷がつかない。ナイフの方がいたむそうです。それだけ硬いものに名前を彫るというのは、相当高度な技術が必要だったと思いますが、しかしあえて、その硬い、硬い縞めのうにイスラエルの十二部族の名前を彫ったのです。

ナイフでひっかいても傷がつかないくらい硬いということは、そこに彫られたイスラエルの子らの名は、傷がつかない、摩耗して消えてしまうこともない、いつまでもそのまま残るということでしょう。これは、永遠性を表すのでしょう。

キリストは、キリストを信じる私たち一人びとりの名を携えて、天で神の御前におられます。その私たちの名は、永遠に変わることも、消えることもありません。キリストにあって、常に、またとこしえに、神の御前に覚えられています。

これは救いの確かさを表します。聖書によると、神は天地をお造りになる前から、私たち一人びとりをキリストにあって選んで、救いに定めておられました。

たとえ、私たちの方が神を見失っても、迷い出ても、神の御前に刻まれた私たちの名は消えることがない。神は私たちを忘れることなく、常に覚えておられる。

しかも、こんなに大切にされたイスラエルの子らですが、以前、創世記で見たように、彼らも、彼らの父ヤコブも、彼らには申し訳ありませんが、決して聖人君子ではありませんでした。失敗もあり、罪深くもありました。

それでも、彼らの名は尊く硬いしまめのうに刻まれて、大祭司によって至聖所に携え入れられ、神の御目に覚えられていました。神に忘れられることは決してありませんでした。

私たちも信仰者として歩む中で、神に忘れられたかのように、感じるときがあるかもしれません。特に何か失敗をしてしまったときには、そうかもしれません。

しかしそれでも、決してそんなことはないのです。神が遠く離れているように感じることがあっても、忘れられていることは決してありません。神の御前に、キリストにあって、私たちは一人一人名前で、常に覚えられているのです。

<② 胸当ての十二の宝石(8-21節)>

もう一つ、大祭司の衣裳で、パッと見て一番目を引くのが胸当てです。長方形の布を二つに折って、一辺1ゼレト=約22.2cmの正方形にします。

それに、そこにあるような12種類の宝石が横並びに3個ずつ、4列に並んでいます。赤いのもあれば、青いのもあり、緑色のもあり。透き通ったのもあれば、濁ったのもあり、一色のもあれば縞模様になっているのもあり……。

この個性豊かな十二個の宝石に、イスラエル十二部族の名前を彫ります。一つの宝石に一つの名前を彫ります。そして大切に金細工のわくにはめ込まれ、またずり落ちないように純金の鎖で大祭司の胸に固定されました。

先の縞めのうに刻まれた名が、救いの確かさ、永遠性を表わすとすれば、こちらの十二種類の宝石に刻まれた名は、私たちが主の目に尊いものであることを表します。

私たちはひとりひとり、あたかもその名を、美しく尊い宝石に刻まれ、金のわくにはめられているかのように、天の至聖所で父なる神の御前に、大切に、愛でられているのです。

自分が、天地の造り主なる神にとって、これほど高価で尊い存在だったとは、夢にも思いませんでした。それも、私たちが何をしたから、かにをしたからではない。存在そのものが神の御目に尊いのです。

先ほども言いましたが、ヤコブとその息子たち十二人は、二回も言って彼らには申し訳ありませんが、決して聖人君子ではありませんでした。ひどい失敗をし、罪深くもありました。

もちろん、罪は罪として裁かなければなりません。事実、主は彼らを懲らしめ、痛い思いをさせることもありました。しかし、彼らの存在自体は、いつだって神にとって高価で尊いものだったのです。

純金の鎖につながれ、金のわくにはめ込まれた12個の様々な輝きを放つ宝石。一番目立つところにある豪華絢爛な胸当ては、大祭司自身を飾りたてるためではなく、愛する民を表すためのものでした。成金趣味ではないのです。

あたかも、神が愛する我が子たちの名を刻むのに、高価な宝石に刻み、金のわく、純金の鎖をつけて、「あなたはわたしにとって、このように尊い存在なのだよ」と、彼らにわかりやすいように視覚教材として下さったかのようです。

イザヤ書43:4、旧約pp.1239-1240

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…

胸当ては胸にあります。それは、心にあることを表します。私たちひとりひとりの名が、キリストの心の中にあるということ。頭でなく、ハートにあるということは、ただ記憶しているという以上の、愛情、慈しみを感じさせます。

それも、高価で尊い宝石のような存在としてあるのです。それもそのはず、聖書によると、元々人は、神に似せて、神のかたちに造られたのですから。

それが罪によって歪められ、罪で覆われて見えなくなってしまっているのですが、キリストはその罪を洗い流して、元々造られた神のかたちを回復してくださる方でもあります。

それも画一的に、金太郎あめのようにおんなじ顔をした信仰者を大量生産するのでなく、それぞれの個性を失わずに、罪をきよめて、かえってその人が本来持っていたよきものを輝かせてくださるのでしょう。

<③ 主の聖なるもの(30-31節)>

エポデの下に着る青服、その下に着る亜麻布の服については飛ばして、大祭司の額のあたりにつける純金製の札の記章です。そこには「主の聖なるもの」と刻まれました。前の新改訳第三版では「主への聖なるもの」と訳されていました。

要は、大祭司は主に献げられるべく、聖別されたものということです。

実は、神と人との仲保者が間に立つと言っても、ただ右から左へと言葉を取り次ぎ、「どうか一つ、俺の顔に免じて、頼む」と頭を下げて済むものではありません。

聖書によると、罪の支払う報酬は死です。仲保者として、神と人との間を回復するには、その死をもたらす罪を何とかしないといけません。方法は一つしかありませんでした。

罪なき神の御子キリストが、人となって、私たち人間の一員、また代表として、信じるすべての人の罪を背負って身代わりに刑罰を受けて下さること。罪がもたらす刑罰としての死を、身代わりに引き受けて下さることです。

それが、キリストが十字架にかかった意味です。これによって、キリストを信じる者の罪は、すべて赦されました。取り除かれました。闇でなく光になったので、神とともにいることができるようになりました。

この仲保者を通してのみ、神と人との関係は回復します。本来の祝福の関係が回復します。

「主への聖なるもの」という純金の札は、やがてくる真の大祭司は、ご自分の民の罪を負って、自分自身を「主への聖なるもの」として献げることを示すものでした。

「わが君イエスよと 喜び歌う 尊き御名こそ 比いもなけれ」新聖歌142番

最後に一つ、覚えておきたいことは、この仲保者がいてくれることは、決して当たり前のことではないということです。

神の御子キリストは、義理も義務もないのに、自ら進んで、仲保者の役を買って出て下さいました。その仲保者が、どんなものか、どんなことをしなければならないのか、わかった上で、です。

また父なる神も、大切な、最愛の御子を仲保者として、送って下さいました。断腸の思いで、だったのではないでしょうか。

そのことを思うと、私たちの名を永遠に消えないように刻んでおられたのは、軽いことではなかったのだと、改めてわかります。神と御子の側に、このような犠牲を払ってでも、自ら犠牲となってでも、あなたの名を消すことは決してないという、永遠の神の決意の表れでもあったのです。

あの大祭司の胸当てにあった宝石も、それほどに、神と御子にとって私たちが尊いものだということを表すものだったのでしょう。

仲保者がいなければ、永遠の苦しみ、地獄。仲保者を神が備えて下さったので、また御子キリストが仲保者としての務めを完全に果たして下さったので、信じるならだれでも天国。永遠のいのち。

それだけでなく、今の地上の歩みにおいても、仲保者のゆえに、神がともにおられる。信じる者のところに、神の御霊が来て下さって、ともに住んで下さる。

神の御霊は、みことばと祈りを用いて、私たちにみこころを教え、歩むべき道を示し、従う者に必要な助けを与えてくださる。

そんな神との関係が、仲保者にかかっているということの安心。完全な仲保者がいてくれることの安心。その中で、私たちは失敗もしながらも、転んだり、迷ったりしながらも、主とともに歩ませて頂き、主に従う歩みをさせて頂きます。

いくら失敗しても、神との関係はビクともしません。仲保者キリストがいて下さるから。

神が私たちに仲保者を与えて下さった、また、御子は仲保者となって下さったという事実に、神のあふれるばかりのご愛が表れています。

ヨハネの福音書1:14、新約p.175

ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。