37章、38章と主がそこに住まれる幕屋とその備品の製作がひとつひとつ、記されてきました。以前、主から語られた幕屋の青写真が、目の前に実際に形となってできあがっていく様子を見るのは、モーセにとって感慨深かったでしょう。
単に、純金の備品の豪華絢爛さとか、彩り豊かな刺繍の入った幕の美しさとかでなく、こうして造り上げた幕屋に主が住まわれ、彼らが主を礼拝し、こうして主と民がともに歩むときが、もう間近に迫っていることの感動だったでしょう。
そう思うと、現代の教会も、金や銀はなくても、キリストを信じる信仰によって、私たちの間に御霊なる主が住んで下さっていることは、実はいくら感動してもしたりない、計り知れない尊い恵みだったと思わされます。
今日の個所は、会見の天幕造りに関して監督の名前と、民が献げた金、銀、青銅の記録です(21節)。
総監督はユダ部族のフルの子ウリの子ベツァルエル。彼の片腕となったのはダン部族のアヒサマクの子オホリアブと、個人名のみならず、氏族、親、祖父の名前まで記され、栄誉を称えられます。本人はもちろん、彼らを愛し、彼らのために祈り、労し、育んできた親、祖父母にも、光を当てているのでしょうか。
24節以下、幕屋のために献げられた金、銀、青銅について記されます。今日はここからキリスト者の世界観、人生観というと大げさですが、その一端を汲み取って、信仰者としての姿勢を整えられ、励まされたいと思います。
最初は金。「聖所のシェケル」(24節)は1シェケル11.4g、また1タラント=3000シェケル。これで計算すると、ここの「29タラント730シェケル」は約1トンになります。ちなみに、当時はわかりませんが、今の金相場では約100億円です。
金は聖所(至聖所を含む)にのみ、使われました。これまで見てきたように、聖所の周囲をグルリと囲む板はすべて金で覆われ、中に置かれる契約の箱、香の祭壇、備えのパンを置く机も、木で作った上に金をかぶせました。燭台は中身もすべて純金です。
これにはどんな意味があるのでしょうか。腐食することのない金は、きよさと永遠性を表わすと思います。ですから聖所は、完全にきよく、永遠に続く天を表わしているのでしょう(参照 ヘブル書8:5、新約p.446)。
黙示録には、神の都の大通りは純金で、透明なガラスのようであったとあります(21:21、新約p.517)。そのようなイメージで表されるところなのでしょう。
そして私たち、神の民の国籍は、その天にあります。
地上でどのような歩みであれ、キリストを信じ、従う者は、終着点は天の御国と決まっています。
そこではすべての傷が癒され、悲しむ者は慰められます。失ったものは何倍にもなって報われます。またすべての汚れ、欠けが消えて、完全な者とされます。
私たちが神の愛を十分に知るので、喜びも平安もまったきものとなり、みながキリストの似姿とされます。死が永遠になくなり、死の恐れが全く存在しない世界に生きます。悪はチリほども存在せず、神の正義がくまなく支配するので、それによってもまったき喜びに満たされます。
私たちはこのゴールに向かって歩む者です。そこが私たちにとっての約束の地。それまでは出エジプトして荒野を旅する者です。
神は私たちのために、最高の都を用意しておられます。
世の中には、不条理がたくさんあるのではないでしょうか。それを、目に見える地上だけがすべてという世界観で、無理やりつじつま合わせをしようとせず、今は目に見えない天という世界の存在を認めることで、今の地上での歩みにも希望が与えられ、力が与えられ、安定が与えられ、豊かにされるのだと思います。
次は銀。100タラント1775シェケルは、約3440キロ=3.44トン。とても大量の銀が献げられましたが、これは「登録された会衆による銀」(25節)であり、「二十歳以上で登録された者」60万3550人が、一人1ペカ=半シェケル=5.7gずつ献げたものでした(26節)。
大きさで言うと1辺1cmのサイコロを半分に割ったくらい。今の相場で700円ほどです。ひとりひとりが献げたものは、サイコロの半分ほどでも、集まると大きなものになります。
私たちの献金も同じ。多くの宣教団体は、ほとんどが定期的な小額の献金によって賄われていると言います。だから、これっぽっちなら献げても何にもならない、と思う必要はありません。主は、一部の金持ちに多額の献金をさせることで必要を満たすのでなく、多くの、普通の人によって、主のわざを行われるのを喜ばれるのです。
以前見たように、銀は贖いの代価を表わします。神の民として登録するために、例外なく銀を納めるように定められたのは、すべての人が例外なく贖いが必要であることを表します。
もちろん、これっぽっちの銀に人を贖う力はありません。本当に自分の魂を贖うためには、どれほど高価なものをささげても足りません。
地上のすべての金銀財宝をかき集めても、自分の魂を滅びから、地獄から贖い出すことはできません。その代価となりうるのは、全宇宙のすべてを集めたよりもはるかに尊くきよい御子キリストのいのちだけです。
神は、御子キリストのいのちという尊い代価を払って、私たちを罪と永遠の滅びから贖い出し、永遠にご自身のものとして下さいました。
このキリストの代価を象徴する銀は、幕屋の中にも外の庭にも使われました。幕屋の中が天を表わすとすれば、外の庭は地上を表わします。なので、地上でも天でも、キリストが私たちの贖いの代価であり続けるということです。
私たちは、地上にいる間だけ、キリストの血による贖いが必要なのではありません。天に行っても、永遠にキリストによって、その血によって贖われた者として、その神の救いを、愛を、正義を、真実をほめたたえるのです。
また、地上では、神の救いの全貌のほんの一部分しか、知りえていないとはいえ、今、私たちはすでにキリストによる贖いにあずかっています。すでに神の民、神の子の身分を与えられています。
私たちはすでに魂の救いを得ており、やがては身体も贖われて栄光の復活の身体を与えられます。すべては私たちの贖いの代価となって下さったキリストのおかげです。大切な御子を私たちに与えて下さった父なる神の計り知れないご愛のゆえです。
最後に青銅です。70タラント2400シェケル=約2400キロ=約2.4トン。金、銀のような貴金属と違い、青銅は日用品にも使われていました。農具、つぼ、鉢、皿等々。
ちなみに、青銅にはいくつか種類があるようですが、今の相場ではキロ当たり約1300~1800円。当時も、金や銀より価値の劣るものだったでしょう。
しかしながら、そこには、会見の天幕の入口で務めをしている女たちが鏡として使っていた青銅を献げたものが含まれていました(38:8)。大切な鏡を献げたというところに、主は目を留められたに違いありません。
主は心をご覧になる方。自発的に献げる犠牲は、主の目に尊いと思います。痛くもかゆくもない人の献げる100万円より、痛みを伴いながらも主のためにと献げる500円の方が、主の御目に価値があります。
献げる側にとっても、犠牲をともなう献げものをするときに、一段と主との関係が深まると言います。献げ物に限らず、犠牲を伴う従順―十字架を負って主に従うこと―は、深い、成熟した主との関係へと導かれるという面はあるでしょう。
先に触れましたが、幕屋の中が天なら、外の庭は地上を表します。青銅は、その庭でだけ、使われました。ここでは青銅は地上性を表わすのでしょう。青銅が金や銀より価値が低く、日用品に使われていたことも、それに符号するでしょうか。
そして庭には青銅の祭壇がありました。全焼のいけにえ、罪のためのいけにえなどがささげられる場所です。その意味は、キリストは地上で、私たちのための全焼のいけにえ、また罪のためのいけにえとして、十字架にかかられたということです。
御子キリストは、人となって地上に来られ、地上で十字架にかかって、私たちの贖いを成し遂げて、そして三日目に復活して、天に帰られました。
そして主は、その祭壇で民に現れ、語られると言われました(29:42-43)。「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。…」と。その場所で、その場所で、その場所で、と強調されています。ただただキリストにあって、主は私たちにお会い下さり、語って下さるということです。
会うと言っても、顔と顔とを合わせて会うわけではありませんし、語ると言っても、耳で聞こえるように語られるわけではありません。実際には、キリストを信じて従う者に、主が何らかの形でご自身を現して下さるということでしょう。
主が本当におられること、信頼すべきお方であること、常に私たちのことを心にかけておられること、恵み深く、あわれみ深い方であること、真実であること、そして私たちを無条件の愛をもって愛しておられること、などなど。そのような方としてご自身を現して下さるということ。
また私たちの歩むべき道を教えて下さるということでもあります。罪から離れ、悪や汚れから遠ざかり善に親しみ、へりくだって隣人に、兄弟姉妹に、家族に仕え、また赦しに富む者であるように、などなど。聖書のみことばによって、私たちに信仰者として歩むべき道を教えて下さいます。
地上にいる私たちは、まだ天にたどり着いていないからと言って、主から離れているわけでは決してありません。キリストにあって私たちは神を知り、神と交わりをもつことができる。主は私たちの間に住まれ、私たちに語り、ともに旅路を歩んで下さるのです。
以上、天の希望と、天と地を貫くキリストの贖いと、地上での主とともなる歩みについて見ました。
私たちは神の尊い永遠のご愛を受けている幸いな者です。私たちの地上の歩みが、主の愛をますます深く知り、また主を少しでも愛する歩みとされて、天の御国で主とお会いする日を待ち望むことができたら、と願います。