二か月に一度の説教奉仕の機会に、十字架に向かって歩まれた主イエスが、人々に語られた教えに耳を傾け続けた。主イエスは、その公けの生涯の中ほどから、ご自分が世に来た目的が十字架の死にあることを明言し始め、それにどのような意味があるのかをはっきり語り始められた。
肝心なのは「恵みによる救い」のこと、身代わりの死を遂げることと。人々が思い違いをしていることには警告を発しておられた。前回は、弟子たちに向かって、主イエスご自身と同じように、仕える者となるよう切々と教えておられたことに目を留めた。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:28)
今日は2月11日である。この日がどのような日であるかを忘れずに、御言葉に耳を傾けたい。「信教の自由を守る日」として覚え、国も教会も、再び道を誤ることのないよう祈り続けながら・・・。
主イエスと弟子たちの一行は、エリコの街を過ぎ、エルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そこから、いよいよろばの子に乗ってエルサレムに入ることになった。(21:1以下)
今回のエルサレム行きには大きな心配が付きまとっていたものの、主イエスの入城は都中の大騒ぎになった。群衆は、「ろばの子に乗る王」、メシヤの登場を歓迎したかのように、「ホサナ、ダビデの子に。・・・」との叫び声を挙げた。
主イエスの生涯の最後の一週間、いわゆる「受難週」の始まりである。時間的には、日曜から火曜までの前半と、木曜から土曜までの後半があり、間の水曜は一日休まれたように、それぞれの福音書から理解できる。
今朝の聖書個所は、受難週の二日目、月曜のこと、宮で人々に教えておられると、それを快く思わない祭司長や民の長老たちがやって来て、文句を言って止めさせようとした出来事の続きである。
初日の群衆の熱烈な歓迎ぶりを、苦々しく見ているしかなかった民の指導者たちは、その翌日の宮きよめの主イエスの振舞いを容認できないでいた。「いったい何の権威によるのか・・・」と。
その問い詰めに対して、主は、彼らに問い返すことによって応じて後、「ところで、あなたがたはどう思いますか」と話されたのである。この問いかけは、そこにいた民の指導者だけでなく、民衆にも、そして、聖書を読む全ての読者にも問いかけられている。私たちも問いかけられているのである。
主イエスの思いは、天におられる父なる神ご自身の思いでもある。人をお造りになった神は、神に背いて、神から離れてしまった人が、いつの日か、必ず神の前に立ち返ること待っておられる。悔い改めて神の元に立ち返ることである。
その確かな道を開くために、御子を遣わし、十字架で身代わりの死を遂げさせようとされ、その御子イエスが、今、十字架への道を歩んでおられた。主イエスが語られたたとえは、神が待っておられる悔い改めのことである。
ある人に二人の息子がいて、先ず兄に「子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ」と言い、兄は、「行きたくありません」と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。弟も同じように言われ、「行きます、お父さん」と答えたのに、結局は行かなかった。
主イエスは、「二人のうちどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか」と問われた。さすがの民の指導者たちでも、答えは明らかであった。すかさずに「兄です」と答えている。
イエスは続けて、「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした」と。
ずばり、思い直して、父の願い通りにするかしないか、父なる神が願っておられることに立ち返ること、悔い改めの実を結ぶことこそ、神は待っておられると言われたのである。
父の願いに対して、「行きたくありません」との兄の答えも、「行きます、お父さん」との弟の答えも、父には織り込み済みだったと思われる。息子たちが何と答えようと、最後にどうするかが肝心であった。
やや極論かもしれないが、神に対する人間の背きの罪は、余程のことでも気づけないものである。自分の生き方に、何か思い直すべきところがあるかないかなど、露も思い至らない人が大多数である。
まして他の人と比べて、自分は律法に親しみ、信仰深く歩んでいると自負する人々、当時の民の指導者たちは、神の前に悔い改めることなど、全く思い及ばなかった。けれども、その頃、取税人たちや遊女たちは、日頃の生き方の中で、バプテスマのヨハネの教えに触れた時、このままではいけない、今こそ悔い改めようと、心が動いたのであった。
父の願い通りにしたのは兄であると、民の指導者たちは答えることはできた。けれども、自分が父なる神の願い通りにするかどうか、その答は棚上げしていた。
主イエスに、あなたがたは、取税人たちや遊女たちの悔い改めの事実を見ていても、自分のことは通り過ごして、「後で思い直して信じることをしませんでした」と言われている。
この話を聴いていた人々も、聖書を読む私たちも、「あなたはどう答えますか」、あるいは「あなたはどう生きるのですか」、それとも「どう生きるつもりなのですか」と、問われていることになる。大事なのは、後になっても、思い直すかどうか、思い直して神に立ち返ることである。
<結び> 十字架で死なれたのが受難週の金曜日とすると、今朝の聖書個所は、その4日前のことである。罪を贖うための身代わりの死を前に、主イエスは心を込めて、罪を認めて神に立ち返ることを、人々に語っておられた。
マタイの福音書に記されている主イエスの教えは、ほとんどみな、その思いが込められている。それを読む私たちは、いつも主イエスの思い、あるいは父なる神ご自身の御思いを思い返し、自分は今どのように生きているのか、生きようとしているのか、心することが大事である。
説教題を「あなたはどう生きるのですか」としたが、主イエスから問われたなら、私たちは皆、「あなたを救い主と信じます。そして、父なる神を信じ、神と共に歩みたいです」と答えることができるよう祈りたい。
聖霊に導かれて、そのような確かな信仰がいよいよ増し加えられることを願いたい。