主がご自身の民とともに住まわれるための幕屋の建設。前回までで、聖所、至聖所からなる建物と、その中に置く備品作りを見ました。
その備品の中で、最も神聖なのは至聖所の箱。神がそこで会い、そこから語られるという、神の臨在をあらわす箱です。
神の臨在がなければ、どれほど立派な大聖堂も意味がありません。こんにちの教会も、主ご自身に私たちの間に住んで頂いていないと、そこは神の宮ではありません。
生ける神を拒まないように、生ける神が語っておられるみことばを拒まないように。神を神として心からあがめ、私たちの間に住んで下さることを願い、また主が語られるみことばに聞き従う心を、私たち一人びとりが持つことが肝要です。
それから、至聖所の手前、聖所に置くのは供えのパンの机、燭台、そして香を焚く祭壇の三点セット。これは、神が語られるみことばへの応答として、日々の生活の中でよいわざを行うこと、信仰の光をともすこと、そして祈りをささげることによって、神を礼拝することを表していました。
それが私たちの信仰生活―主が私たちとともに住まれる生活、また主との交わりの中に生きる生活―ということでした。
今日のところは幕屋の外に出て、庭にある備品2点と、掛け幕で仕切られた幕屋の庭についてです。今日は福音との関係で、掘り下げてみたいと思います。
礼拝者が入口の幕をくぐって庭に入ったときに、目の前にドーンとあるのが、この祭壇です。縦横約2.2m、高さ約1.3m。幕屋にある備品の中で最大です。
礼拝者が庭に入ると、絶えずいけにえの動物を燃やして、モクモクと煙を立ち昇らせている祭壇が目に飛び込んで来ます。
祭司が毎日、捧げているのが全焼のいけにえ。それに人々が罪を犯したときにささげるのが罪のためのいけにえ。ほかにもありますが、牛だの羊だのといったいけにえがほふられ、切り分けられ、焼いて煙にしたり、あるいは血を祭壇の角に塗ったり、祭壇の土台にドボドボと注いだりということがなされます。
こういう光景を見て、人々はどんなことを思ったでしょう。神様って、残酷だなあ、と思った人もいたでしょうか。普通の感覚なら、見ていて気持ちのいいものではありません。
当時のイスラエルの子どもたちが、羊がほふられて、ドクドクと血を流し、けいれんしながら倒れる、その恐ろしいさまを見て、親に「どうしてこういうことをするの?」と聞いたら、親は「私たちには罪というものがある。その罪のゆえに、本当は自分たちがああいうふうに死ぬはずだったのだ。その死をもたらす罪という悪いものを、羊に負ってもらったおかげで、羊が死に、自分は生きることができるのだ。神様は私たちを愛して、罪から救うために、このような定めを定めて下さったのだよ」と実物教育で教えたでしょうか。
罪というのは、死をもたらすものです。死の毒です。神は残酷なのではなくて、そのように恐ろしい結果をもたらす罪というものを、私たちから取り除いて、救うために、そのような救済策を定めて下さったのです。
このいけにえの身代わりの死は、イエス・キリストの十字架の死を表わしています。神はご自身の大切なひとり子を、私たちの罪を背負って、身代わりに罰を受ける方として世に遣わし、十字架に渡された。
御子も、私たちを愛して、私たちのために自ら進んで、その役目を引き受けられた。それによって、私たちは罪赦されて、神に受け入れられました。神との関係が回復しました。
私たちは、クリスチャンになるときだけ、そのことを信じる必要があるのでなく、クリスチャンになってからも、常にその信仰に立って歩みます。
福音とは、キリストが私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって死なれたこと、そして三日目に復活されたことです。このことを信じる者は誰でも、罪赦され、義と認められます。
別な言い方をすると、福音に啓示されている「神の義」とは、私たちを義とするために、私たちに与えられる義です。私たちはただ、信仰の手を伸ばして、その「神の義」を受け取るだけです。受け取れば、その神の完全な義は、私たちのものになるのです。
そして以後、私たちはその「神の義」を頂いた者として、その信仰に立って、クリスチャン生活を送るのです。それが「義人は信仰によって生きる」ということです。
クリスチャン生活何十年経っても、たくさん経験を積み、たくさん奉仕し、人助けもして、たくさん献金をしたとしても、私たちが神の子として、神の民として、神に受け入れられているのは、1ミリもそれらの功績によるのではなく、神がキリストにおいて成し遂げて下さった「神の義」にのみ、よるのです。
自分がそれなりのことをしてきたという自負があると、気が付かないうちにでも、それらの行いにより頼んでいることがあります。その兆候は、感謝がなく、できない人をさばく傾向があることです。そういう気配が出てきたら、自分が福音に立っているか、顧みた方がいいでしょう。
また逆に、大きな失敗をして落ち込んだとき、私はただ神の義を頂いて、それによって神に受け入れられている。それは私の行いによって、失敗によって、罪深さによって、1ミリも崩れることはない。キリストが成し遂げて下さった神の完全な義を、私はただ信じて、ただで受け取って、自分のものとさせて頂いているのだから、と支えられ、神への感謝が増し加わるのです。
「義人は信仰によって生きる」と言っても、なにか無茶なことを「信仰によって」行うことではなくて、福音のうちに啓示されている神の義を、「信仰によって」自分のためのものと信じ、受け取り、その神からタダで頂いた神の義を拠り所として、その土台に立って生涯、神との恵みの関係の中を生きていくことなのだと思います。
お次は洗盤です。祭司たちが奉仕に着く前に、身体を洗うための水をためておく、大きなたらいのようなものです。祭司は、聖所に入る前にも、また祭壇で全焼のいけにえをささげる前にも、この洗盤で身をきよめてから務めにつきました。
もちろん、水でバシャバシャ洗ったくらいで、私たちの魂はきよまりませんが、神が聖なる方だということをわきまえさせるためだったのでしょう。
こんにちのクリスチャンは、神のことばと御霊によって、魂と生活を洗いきよめるようにと、召されています。
ご自分の民をきよめるのは、キリストご自身です。キリストご自身が、私たちを洗って、きよめて下さるのです。こんなありがたいことはありません。喜んで、キリストに身をお任せしましょう。
ただし、主はみことばを用いて私たちを洗いきよめます。ですから、お風呂嫌いの子供やネコのように、みことばを拒むことは、キリストから洗ってもらうことを拒むことです。洗ってもらわないと、悪臭を放つようになるかもしれません。
キリストがせっかく、みことばによって私たちの魂を洗い、きよめて下さるのですから、素直に従うのが一番です。みことばが与える励まし、導き、そして悔い改め。これらを、身を低くして、受け取り、信頼して従う。
その積み重ね、繰り返しで、私たちの魂が少しずつきよめられ、神のかたち、イエス様の似姿に変えられていくのでしょう。そしてキリストの香りを放たせて頂けたら、こんなにうれしいことはありません。
教会はキリストのからだです。教会には、キリストの御霊が働いておられます。兄弟姉妹を通して、互いに益を受け合うことができるということです。
ですから、キリストが私たちをみことばによって洗いきよめてくださるというときに、各自がデボーションで主から取り扱って頂いたことを、互いに分かち合うということができれば、それはとても有益です。御霊が働かれる機会となるでしょう。パウロも勧めています。
最後に庭です。広さは、東西に約44m、南北は約22mの長方形。ここは亜麻布の掛け幕で囲まれていました。聖なる神が地上に住んで下さる場所として、世から区別されました。
ここは、世にありながら、世のものではない。神に属するもの、神の家、神の庭です。たった一枚の亜麻布で仕切られただけですが、その外と内では、まったく違う世界なのです。
こんにちのクリスチャンは、福音によって世から贖い出されて、神のものとされました。
もちろん、世から贖い出されたと言っても、修道院のように世から隠遁してどこかにこもるということではありません。
ここに「先祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」とあるように、生き方がこの世の価値観や世界観、人生観と違うものによって生きているということです。みことばという掛け幕によって、世から区別されていると言えるでしょうか。
この仕切りを取り払ってしまって、あるいは穴があいてしまって、世の価値観、風潮、ライフスタイルが神の家に流れ込んでくることのないようにしなければいけません。
十戒にあらわされた神のみこころ、福音にあらわされた尊い神のみこころ、計り知れない神のご愛、永遠のいのちの希望、世の終りの裁きがあるということ、等々、世から自分を区別する境界線をしっかりと持っていたいものです。
モーセの時代の礼拝者は、幕屋に行くたびに、毎回、大きな祭壇にいけにえがささげられているのを見ました。私たちが神を礼拝するのも、常にキリストの十字架の贖いのみわざがあってのことであることを、何度でも、いや日々、覚えましょう。
私たちはすぐに、そこから離れてしまう傾向があります。そして実は、このキリストの十字架は、救いの土台であると同時にゴールでもあります。
イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったと信じたことが、信仰のスタートです。そして、そのお姿は、私たちが目指すべきゴールでもあります。それがここの信仰の完成ということでしょう。
神の御心のため、または誰かのため、身を低くして仕えることや自己否定することは、十字架を担うことであり、イエス様についていくことです。イエス様から目を離さないでいなさいと勧められて、イエス様に従う道を歩ませて頂けますように。