主がそこに住まわれるという幕屋の建設が始まりました。前回は、聖所、至聖所からなる建物を作ったところでした。家ができてから、家具を運び入れるように、37章はその建物に入れる備品の製作の記録となります。
至聖所に置く箱、その手前の聖所に置く供えのパンの机、燭台、そして香を焚く壇です。
これらも、以前、詳しく学んだので、今日は構造など詳しくは触れずに、私たちの信仰生活―主が私たちとともに住まれる生活、また主との交わりの中に生きる生活―について、教えられたいと思います。
最初に箱を作ります。「あかしの箱」「契約の箱」「主の箱」「神の箱」などとも言われます。これは、入り口から入って、奥にある、最も神聖な場所、至聖所に置かれます。
その箱の上、「宥めの蓋」の上で主がお会い下さり、そこから主が語られます(25:22)。蓋の両側に作られたケルビムの像は、そこに主が現れて下さることの象徴です。
なぜ、この「宥めの蓋」の上で主がお会い下さるのか。宥めの蓋が純金製で、高価でピカピカだからではありません。神は成金趣味ではありません。
この蓋の上で、民の罪の宥めのために、傷のないいけにえの血がふりかけられるからです(レビ記16:15-16、旧約p.206)。聖なる神が、罪びとである人間と会うための唯一の道は、人の罪のための宥めがなされること。そのために傷のないいけにえの血が流されることでした。
いけにえの血による罪の赦しにおいてのみ、神は人と会うことができるという、人間にとって最も大切な原理がここに教えられます。
箱の中には十戒が刻まれた石の板が納められていました。これは神の義の基準を表わします。神は義なる方ですから、不義なる者とともにいることはできません。
私たちは不義なる者です。だれも十戒を完全に守れる人はいません。そのままでは、神の義の基準によってさばかれ、滅ぶしかありません。
しかし、その義の要求するさばきを、私たちの身代わりのいけにえが受けて、血を流すことによって、義の要求が満たされる。そこで、神は現れてくださるのです。義なる神が、罪びとである私たちと交わりをもつことができるのです。
この原理は、キリストが完全に成就してくださいました。御子キリストは、私たちの罪の宥めのために、十字架で血潮を流されました。
神が宥めのささげ物として大切な御子を遣わされたのは、私たちと交わりを回復するためです。神がこれほどの犠牲を払っても、私たちとの交わりを回復しようとされたのは、神がそれほど私たちを愛しておられるからです。
神にとって、エデンの回復―人との交わりの回復―は悲願と言っても過言ではないと思います。
それほどまでして、回復して頂いた神との交わりです。私たちの方でも、神を慕い求めて、神との交わりを大切にしたいと思わされるのではないでしょうか。
神との交わりは、神のみことばに聞くことから始まります。この際、ウェストミンスター大教理問答156、157から、みことばに聞くことについて、かいつまんで見ておきましょう。
1. (牧師だけでなく)みなが、自分ひとりで、また家族と共に、みことばを読むべきこと。
2. 聖書が誤りなき神のみことばであるとの確信に立つこと。これは大前提です。
3. 神のみが、私たちに聖書を理解させることができるとの確信をもって読むこと。「主よ。私にあなたのみこころを教えてください。」と祈って読み始めると良いでしょう。
4. 聖書に啓示された神のみこころを知り、信じ、服従したいという願いをもって読むこと。もちろん、励ましや慰めを受けたいと願って聖書を読むのもいいですが、基本的な姿勢は、みこころを行うために読むというわけです。動機が自己中心でなく、神中心です。これは盲点かもしれません。
5. それゆえ、瞑想と適用と自己否定と祈りをもって読む、と続きます。読んだみことばの個所から教えられたことを瞑想する。思い巡らす。それを自分に適用する。あてはめる。そしてみことばに従うときに、従いたくないと抵抗する古い自我が残っているので、それを十字架につける。切り捨てる。これが自己否定。そして主に助けを祈り求める。
以上、厳しく感じるかもしれませんが、これが平安の道なのだと思います。
「主に聞く信仰生活」とは、みことばに聞く信仰生活です。キリストを信じて、罪の赦しを頂いている私たちは、このように聖書を読むことによって、主との生きた交わりが、さらに豊かなものとされるのでしょう。
至聖所の手前、垂れ幕で仕切られた聖所は、祭司が主に仕える場所、主を礼拝する場所です。その聖所に入って右側にある机は、安息日ごとにパンを供えるところです。
パンのささげものは、人の手のわざを神にささげることを表すと考えられます。種をまき、世話をし、収穫して、さらに製粉され、こねられ、調理され、手間暇かけて作ったパンをささげる。人の手のわざを神にささげるのです。
神は人々の良いわざを喜ばれるということです。でも、自分には何もできない、と思う方もいるかもしれません。しかし、特別なことでなくていいのです。
神に一番喜ばれるささげ物は、主のみことばに聞き従うことです。従順にまさるささげ物はありません。
また、私たちがなすことは欠けがあったり、不十分だったり、最善最高の出来栄えのものでも、聖なる神の御前には汚れたものでしかありません。それにもかかわらず、私たち自身がキリストにあって、神に受け入れられているので、私たちのなすわざも受け入れられます。
ウェストミンスター信仰告白第16章4節には、「神がそれ(私たちがささげる不完全なわざ)を御子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされる…」とあります。
こんなたとえがありました。幼い子が、洗濯物を干しているお母さんのお手伝いをしようと、洗濯したばかりのきれいなシャツを干そうとしました。その心は良かったのですが、問題はその幼子の手が泥んこだらけだったことです。
お母さんが忙しくて心に余裕がなかったら、こっぴどく怒られるところかもしれません。私たちが、愛する主のために、とささげる最善のわざも、神の前には泥んこの付いたシャツのようなものかもしれません。
神はどうされるでしょうか。それを受け取り、洗い直して(きよめて)、私たちのそのささげようとした心を良しとしてくださるのではないでしょうか。そして必要に応じて、どうしたらいいか、直すべきことを教えてくださる。神は私たちに対して、ずっとそのようにして下さっているのではないでしょうか。
聖所に入って左側には燭台です。ともしびが聖所の中を照らしています。光は聖書でもいろいろな象徴に用いられますが、今日はキリストにある希望のことと取りたいと思います。
この燭台はアーモンドの木をイメージしていました(19-20節)。春に先駆けて咲くところから、アーモンドは復活の希望を連想させるものです。
教会は、万物が新しくされる新しい季節、まことのいのちの咲き誇る神の国が、もうすぐ来ることを告げる霊的なアーモンドの木のような使命があります。
永遠の御国の望みを指さし、その望みを抱いて喜びの花を、まだ来ていないうちから先駆けて咲かせ、永遠の御国がもうすぐそこまで来ていること、近いことを証しする喜ばしい役割です。
また、23節には備品が挙げられています。芯切りばさみは、芯の先が焦げて燃え具合が悪くなったときに、先の方を切るためのもの、芯取り皿は、その切り取った芯を置くための皿です。
昔、祭司は聖所で夜通し、このともしびを絶やさないように、7つの皿の燃え具合に気を配りながら、油を注ぎ足したり、焦げた芯の先っぽを切ったりとお世話をしました(24:3、旧約p.222)。
同様に、天におられる大祭司キリストは、教会に聖霊を注ぎ足し、ときにはみことばという純金のハサミをもって、火が燃えるのを妨げている所を切り取って、燃え具合を整えます。
その時は、痛みが伴うかもしれませんが、しかしそれによってよりいっそう、赤々と火をともすことができるようになり、やがて感謝に至るのでしょう。
イエス様は、私たちがもっと実を結ぶために、刈り込みをなさるとも言われました(ヨハネ15:2)。黙示録では、7つの燭台が表わす7つの教会に、時には励まし、時には慰めるとともに、時にはしかり、時には懲らしめ、そして悔い改めを迫りました。
実に7つの教会のうち5つの教会に「悔い改め」を迫っています。私たちが油を満たされ、その油を赤々と燃えさせるために、本当に必要なのは、励ましや慰めよりも、もしかしたら悔い改めだったということが、案外、多いのかもしれません。
この香の壇は、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕の手前に置きます。幕の向こう側には、神の臨在をあらわす契約の箱があります。机や燭台は左右後方に控えて、中央の、至聖所に一番近いところに香の壇があります。
聖所にあるものは、みな尊いですが、主が一番近くに置いておきたいものなのです。ここでささげられる香は、祈りを表します。
宗教改革者のカルヴァンは、「神を呼び求めること(=祈ること)こそ、神礼拝における最高の要点である」と言っています。
何の道具もいらない、最も単純な行為でありながら、多くの人々から遠ざけられていること。しかし、神が最も望んでおられること。祈り。
主は何よりも、私たちの心を、祈りのささげ物を、求めておられるのでしょう。ろくに会話もしない、よそよそしい関係ではなく、常に祈り心をもって、主に心を向ける、そういう親しい関係が望まれています。
キリストを信じて、罪赦され、神の子とされたという関係に入れて頂いた私たちは、どう神とともに生活するか。どう神との交わりに生きるか。
それは、第一に、みことばに聞くことから始まります。それに対する応答として、従順のわざをささげる。聖霊の油を注がれて、また天の大祭司キリストに手を入れて頂いて、キリストにある希望のともしびをともし続ける。そして神が一番に喜ばれる、心からの祈りを御前にささげる。
感謝、賛美、悔い改め、とりなし、天の父にささげる祈りには、事欠きません。このような交わりのうちに、生きておられる主をますます親しく知り、信仰生活がさらに豊かなものとなりますように。