礼拝説教要旨 2024年1月21日

青銅の留め金

出エジプト記36:8-38

はじめに

主がそこに住まわれるという幕屋の建設が、いよいよ始まります。と言っても、実際に幕屋を設営するのは最後の40章ですから、ここから39章まではそのパーツや備品などの製作になります。

必要な資材を民が心から進んで献げ、そして総監督ベツァルエル、副監督オホリアブのもと、神から知恵を与えられた職人たち、奉仕者たちが起こされて、和気あいあいと、なのか、それとも神聖な神の御住まい、幕屋造りですから、みな自分の仕事に真剣に打ち込んで、静寂の中、作業の音だけが響いていたのか。

まずは幕屋本体、建物から。板を立てて並べて壁を造り、その上から4種類の幕を重ねてすっぽりと覆う形になります。

間取りは入り口から入って、手前が聖所(幅約4m、奥行き約9m、約22畳)、その奥に幕で仕切られた部屋があって、そこが至聖所、最も聖なる所です(幅、奥行きとも約4m、約10畳)。風呂・キッチン・トイレなしの2部屋のみ。

聖所と至聖所、両方合わせて単に聖所と言ったりもします。今日の個所は、この幕屋を構成する4枚の幕、壁となる板、それに仕切りの幕の三つについて記されています。それぞれの象徴的な意味は、以前、詳しく学んだのでざっと見ていきます。

① 聖所を覆う四枚の幕:8-19節

今日の個所では一番内側の幕を「幕屋」と呼んでいます。聖所の中に入って上を見上げると見える、この幕屋はカラフルな模様の美しい幕です。

青、紫、緋色の撚り糸を使って、凝ったデザインのケルビム(神の近くで仕える御使い)の模様が織り出されます。これを作った人たちは、ケルビムなる御使いを見たことがないでしょうが、彼らにはインスピレーションが与えられたのでしょう。

これは全部で10枚のとても細長い布をつなぎ合わせて作ります(幅2m弱、長さ12m強)。まず5枚ずつ、つなぎあわせた幕を2つ作り、その2つの幕にはそれぞれ片側に青いひもの輪50個をつけます。最後にその2つの幕を、ひもの輪がついた側を互いに向き合わせて、金の留め金50個でつなぎ合わせる。こうして大きな一枚の幕にしました。

ケルビムが描かれたこの幕は神の臨在を表わします。聖所で仕える祭司たちが、神の御前にいることを覚えるようにという意味があったでしょうか。

その上にかぶせる2枚目の幕(ここでは天幕と言われている)は、やぎの毛で作りました。このやぎの毛は女性たちが紡いだものです(35:26)。向こうのやぎは黒い毛です。

これもとても細長い形状のもの(幅2m弱、長さ13m強)11枚を、5枚と6枚につなぎ合わせてから、留め金でつなぎあわせて作ります。ただしこちらは、何の変哲もないただの輪と青銅の留め金です。

この天幕は罪を象徴しています。幕屋の入り口には、この黒いやぎの毛が見えるようにされていたと言います。神の臨在される幕屋に入る者は、己の罪をわきまえるように。そして、ただいけにえの血による赦しのゆえにのみ、そこに入ることが許されると、覚えるためでしょうか。

その上、3枚目は赤くなめした雄羊の皮。そしてさらにその上、一番外側はじゅごんの皮です。大きさや模様などの記述がありません。この二つは雨風や灼熱の太陽の日差しなどから保護するためのものでしょう。

一番外側にあるじゅごんの皮は、時間が経つとボロボロになったでしょうか。破れれば、そこから赤い色が見えます。下は赤くなめした雄羊の皮ですから。それはあたかも、人の肉体が傷を受けて、皮が裂けて、血が出たように見えたでしょう。痛々しい感じがするのではないでしょうか。

これは、私たちの罪のために、むち打たれ、肉が裂けて、血を流されたイエス様を表します。

第一ペテロ2:24、新約p.468

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

キリストは自分から進んで、このことを引き受けてくださいました。私たちをそれほどに愛しておられるからです。私たちのために大切なひとり子をこのように与えて下さった天の父のみこころを思い、礼拝しましょう。

② 聖所を構成する板:20-34節

シナイの荒野では珍しくないアカシヤの木を製材して、幅66cm、長さ4.4mのけっこう大きな板を48枚。しかも足は二つに分かれて、銀の台座の2つの穴にきちっとはめ込むように作ります。

寸法があわなかったらグラグラして、ヘタをしたら倒れてしまいます。電動のこぎりのない時代、ミリ単位までキッチリと寸法通り、48枚もの板を製材するのは至難の業だったのではないでしょうか。

さらにこの板に金をかぶせます。なので、聖所に入ると一面、金の壁です。これは神の臨在を表します。また一枚の板につき、銀の台座2個、計96個を作ります。高熱で溶かした銀を型に流し込んで作ったのでしょうか。

銀は贖いを表します。ですから、この聖所を囲む板はキリストによって贖われた人たちを表わすと取ることができます。

エペソ 1:7、新約p.384

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

そして、キリストによって、私たちが贖われたのは、ただ私たちが永遠のいのちをもらうためだけではなく、私たちが神の御住まいとなるためです。

エペソ 2:22、新約p.386

あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

そういうわけで、キリストを信じた者はみな、神がそこに住まわれる神の宮(教会)を構成する一部となりました。教会はただの人の集まりではなかったのです。

つい、そのことを忘れてしまいがちですが、大切な教会の本質の一つですから、心に深く覚えたいものです。自分たちが神の御住まいを構成する一部だと知ると、自分も神のみこころを行うこと、神に仕えることを意識するのではないでしょうか。

聖さを意識し、みことばを意識するでしょう。さらに聖霊のご臨在を慕うようになります。それで神のみこころが行われ、神のみわざが行われ、神の栄光が現されるのでしょう。

神抜きの人間だけの集まりと、神がそこにおられる集まりの違いは何でしょう。神がそこにおられる集まりでは、神のみわざが行われます。

私たちは、神にみわざを行って頂きたいと願うでしょうか。私たち自身や、私たちのまわりに、神の救いのみわざを必要としている人はいないでしょうか。

せっかく神が私たちを、御子の血潮によって、私たちを贖い、ご自身の御住まいとして下さったのですから、神に対する素直な心をもって、神に居心地の良い住まいとなりたいものです。

③ 仕切りの幕:36-38節

幕屋には二つの幕がありました。外から聖所に入る入口の幕と、さらに聖所と至聖所を仕切る幕です。

至聖所には、大祭司が年に一度、血を携えて入ることを許されただけでした。聖なる聖なる神の臨在の場だからです。定められた時、定められた方法以外で至聖所に入ろうとするなら、打たれて、死ななければなりませんでした。

たった一枚の幕ですが、至聖所と聖所を仕切る幕には、重大な意義があったのです。26:33には「その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる」とありました。この垂れ幕は、人々が死なないように、人々を守るためのものでした。

闇と光がぶつかると、その瞬間に闇が消えるように、聖なる神と罪びとが接触すると、罪びとはその瞬間に滅んでしまいます。聖なる神が、罪びとの間に住むには、このような仕切りの幕が必要だったのです。

しかしキリストが十字架の上で死なれたとき、この、聖なる神と罪びととの間を仕切る垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27:50-51、新約p.62)。キリストが、信じる者の罪に対する刑罰を身代わりに受けて下さったので、信じる者は罪が赦されたからです。罪が消えたのです。その結果、キリストを信じる者は誰でも、聖なる神に近付くことができるようになったのです。

キリストが十字架で死なれたときに、至聖所と聖所を仕切る幕は、神ご自身によって上から下まで引き裂かれました。1時間後や翌日でなく、御子が死なれたその瞬間に、です。

もうこんな幕は不要だ!と言わんばかりに、神ご自身がその幕を引き裂かれたのです。神は、どれほどこの瞬間を待ち望んでおられたことか。そこに神のお心が偲ばれるのです。

「きよきところを 造れよと」新聖歌 498番

最後に、ここを読んで改めて気づかされたこと。

一方では、幕屋には華やかなケルビムを織り出す人がいます。それはいかにも美しく、人目を惹くでしょう。他方、内側から2枚目のやぎの毛で織った天幕のために、何の変哲もないただのひもの輪と、青銅の金具を作る人もいました。

これらは聖所の内側からも外側からも見えないところにある小さな部品です。地味です。しかし、それも神から命じられた、欠かすことのできないものです。これがなければ、幕屋は完成しないのです。

人からの賞賛とは無縁かもしれません。しかしそういうところだからこそ、神を恐れて忠実であることが必要です。またへりくだりも必要でしょうか。それとも主への愛でしょうか。人目につかない、地味な作業でも、愛する主の御用だから、喜んで行うという。そのようにして造られた幕屋に、主が住まわれるのです。

現代の神の御住まいである教会も、さまざまな奉仕によって維持されています。礼拝のために司会、奏楽、受付、要約筆記、毎週、HPからその日の礼拝をライブで見れるようにすること、配信のセッティング、マイク準備、配信、聖餐式の準備、また兄弟姉妹方の送迎、週報などの印刷・折り、また掃除、お花、看板を書き、掲示すること。

週報発送、また週報を家まで届ける方もいます。平日も毎朝、会堂の前を掃除する方、外の花壇のお花、駐車場の雑草抜き、加湿器の手入れ、イスの座布団の手入れ、教育館の片づけ、また教育館の窓のレースのカーテンを作った方もいます。

季節の変わり目のエアコンの手入れ、ルンバの手入れ、消耗品の補充、コーヒーの準備、当番表作成、今日のみことばの編集。そして毎週の会計事務…。

またいわゆる教会の奉仕でなく、兄弟姉妹を必要に応じて助ける、相談に乗る、祈る。また一声かける、手紙を書く。ともに心を痛める、恵みを分かち合う。また賛美する、感謝をささげる、福音を分かち合う、未信者にでなく兄弟姉妹同士で。これも有益。

ほかにもあるでしょうが、こういったことを通して、神が住んでおられる神の家が建てられています。それらの奉仕は神の家の働きであり、その奉仕のうちに御霊が働いておられ、またそれらの奉仕を通して、御霊が働かれるのでしょう。

そして最後に、ここの青銅の留め金は、縁の下の力持ちのようでもあります。2枚の大きな幕をつなぎとめるのですから、反対側に引っ張る力がそれなりにかかるでしょう。その負荷に耐えてつなぎとめるわけです。二つの幕を一つに保つために。

神の御住まいである教会の兄弟姉妹方も、一致を保つために、人知れず耐えること、あるかもしれません。その忍耐は、主がご覧になっておられます。

しかしまた、青銅の留め金が一個でなく、50個全部でその負荷を分け合っていたように、重荷を分け合うことができれば、その負荷も軽くなります。この青銅の留め金のような兄弟姉妹の存在は教会に必要であり、多いほどいい。

ある教会では、兄弟姉妹の間で、何か口論のようなことがあったときに、成熟している方が譲るという暗黙の了解があるそうです。もちろん公的な、また譲るべきでないことは別として、個人的なこと、ささいなことなのでしょうけれども、肉的な人ほどそこで絶対に引かない。押し通す。

それは信仰者としては幼いということ。未熟ということ。霊的に成熟した人の方が身を引く。それは青銅の留め金のような働きです。それはイエス様の似姿に変えられていくことであり、神の御住まいを建て上げることでもあります。