新しい年を始めるにあたって、その最初の日、天地を造られた神に礼拝をおささげして、始めることができますお恵みを感謝いたします。
また、その天地を造られた神を、天におられる私たちの父とお呼びして、そのお方のご愛顧、私たちに対して恵み深くあられることを改めて確信して、そのご加護、祝福を願うことができる幸いを、心から感謝いたします。
ただいま、読みました詩篇は、喜び、感謝、賛美があふれています。
1-2節「喜び、喜び、喜び」喜びの三連発。3節を飛ばして、4節は「感謝、賛美、感謝、賛美(御名をほめたたえるというのは、賛美のことですから)」の四連発です。
何がそんなにうれしいのでしょう。何か良いことがあったのでしょうか。
直接的には、この詩篇の背景として、この詩篇は、一度は廃墟になっていた神殿を、神の恵みにより、奇跡的に再建して、神に奉献するときの歌と言われます。
バビロン捕囚というのを、聞いたことがあるでしょうか。
昔、紀元前6世紀、当時のユダ王国が、もうずっと神に背き続けて、反逆し続けて、せっかく神が預言者を送って悔い改めを迫っても、悔い改めを拒みに拒み続けて、ついに国を滅ぼされ、遠くバビロンに捕え移された。強制移住させられたという。
その際に、それまであった神殿も破壊されて、廃墟となっていました。
しかし、神は再び、彼らを顧みて下さって、エルサレムに神殿を再建させてくださった。
神殿と言うのは、神を礼拝する場所です。彼らにとって、神を礼拝することは、民族としてのアイデンティティを取り戻すようなものです。
それがかなったのです。それでこの喜び、感謝、賛美の爆発なのです。
聖書の中心的なテーマのひとつは、失われたものの回復です。聖書全体が、失われた人間を、神が御子キリストによって回復するストーリーです。
イエス様は、失われた人を捜して、救うために世に来られた、と仰っています。
自分が、どこから来て、どこへ行くのか。自分の人生が何の土台の上に据えられているのか。わからなくなっているなら、その人も、失われた人です。
イエス様が、その人を創造主のもとに連れ戻して下さいます。
また、昨年は、何人かの方を天に送りました。
その方々自身は、失われたのではなく、ちゃんと造り主なる神のもとに戻って、そこで安息を得ておられるのですが、地上に残された私たちからすると、その方々との交わりを失ったかたちになります。
でも、失ったものを回復させて下さるのが、神のみこころ、ご計画です。またその方々との交わりを回復して、喜びに喜ぶときが用意されています。
一度、失ったものを、取り戻すと、喜びが一層大きくなります。
ほかにも、何か、失ったと感じているものが、仮にあったら、失ったものの回復が、聖書の主題であることを、忘れないようにしたいものです。
それを可能にして下さるのは、天地を造られた神です。
本文に入ります。
もう一度、1-2節を読みます。
ここを見ると、この詩篇の作者は、ただ単に神殿再建したことを喜んでいるというよりは、そうしてくださった主を、喜んでいるのがわかります。
自分たちに良くして下さった主を喜んでいます。
そのことは次の3節でも明らかになります。ここでは誇らしげに、たたみかけるように、自分たちが主のものであることを歌っています。
主が私たちを造られた。
人間が作った神ではなく、人間を造った神。この差は計り知れなく大きいです。
人間が作った神など、たいしたことない。しかし人間を造った神となると、それは神の計り知れない知恵と全能の御力と、そして人に対する慈しみを示しています。
私たちは偶然の産物ではない。根なし草ではない。神が目的をもって、また丹精込めて、お造りになった神の作品なのです。
自分という存在の基礎があると言いますか。そしてこの神は、全世界、全宇宙を造られた方です。何億光年も先の巨大な星雲をもお造りになって、今も御心のままに動かし、治めておられるお方です。
私たちは、そのお方が造られたもの、私たちはその方のもの、その牧場の羊と、たたみかけるように歌い上げます。
羊は、当時、最も愛された家畜でした。家族同様に大切にされていました。ですから、私たちは、主に愛されている民だと、喜ばしく、誇らしげに語っているのです。
これは、私たちにも当てはまります。神と私たちとは、キリストにあって、そういう関係です。
キリストを信じる私たちも、そういう関係に入れられている。キリストが、その関係を保証しておられる。だから安心。
感謝、賛美、感謝、賛美。感謝と賛美があふれています。
主の門とは、神殿の門のこと、大庭とは、神殿の中にある礼拝する場所です。感謝と賛美の心をもって、神を礼拝せよ、と呼び掛けています。
それはなぜかというと、主が慈しみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るから。
ここの「慈しみ深く」と訳された元のヘブル語は、トーブと言って、元は「良い」「good」という意味です。
神は良い方。God is good. そしてその恵みはとこしえまで。いつまでも絶えることがない。いつか消えていくようなものではない。変わることもない。どこまでも私たちに対して、恵み深くあられる。
その真実も代々に至るとは、いつの時代にも変わることがないということでしょうか。時代は変わり、世は変わっても、神の真実は変わることがない。だから、いつの時代にも、変わることのない、拠り所であられるのです。
新しい年を始めるにあたって、私たちは、神の祝福、ご加護を祈るわけですが、それもそれでよいのですが、本当は私たちは、すでにキリストにあって、祝福されているんですね。
天地を造られた神との、永遠に変わることのない恵みの関係に入れられているということは、そういうことです。ほかのあらゆる良きものを恵まれる土台を与えられているということです。そのことを確信して、求めることができるということです。
たとえば、先ほども祈りました主の祈りの中に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい。」とありました。
食べるものを下さいというときに、あかの他人に、ご飯を恵んでください、というのと、親に、お腹すいた、ご飯ちょうだい、というのと、全然違いますね。
キリストを信じる者は、神の民、また神の子どもとされています。
昨日の礼拝でも言いましたが、私たちが神を信じると言うときに、神がどういうお方か、また、神と自分との関係性がどういうものか、ということを知ることが、大切です。
で、私たちは、すでに神の子とされているという関係性の中で、必要を与えてくださいと祈る。
子は普通は、親が食事をくれることを疑わない。くれるか、くれないか、不安ということはない。
神の子どもとされて、神の恵みの中にすっぽりと入れて頂いている私たちは、そういう恵みの関係に入れて頂いているという土台に立って、神に祝福を祈り求めることができるわけです。
与えられるか、与えられないか、どうなるか、わからないという不安の中で祝福を求めるのでなくて、愛されている確信に立って、良いものを拒まれない天の父に、祝福を祈ることができる。そういう関係に入れて頂いている。
このこと自体が、すでに大きな、何にも変えられない祝福です。ですから、すでに与えられている祝福に立って、祝福を祈ると言いますか。
そしてもう一つ、先ほど触れました、この詩篇の背景を踏まえると、いっそうこの5節の意義が深いものとなります。
国は滅び、神殿も、エルサレムも廃墟となっていた。70年の間も。
私たちの人生にも、そういう時期が、もしかしたら、あるかもしれません。
しかしそういうときにこそ、このことを覚える必要がある。
主は慈しみ深く、その恵みはとこしえまで変わることがない。その真実は、代々に至る、と告白して、この主を拠り所として、また支えとして、回復のときを待つのです。
私たちが、主の民であるという祝福に勝る祝福はない。それは永遠の祝福です。
主のものということは、永遠のいのちにあずかっているということでもあります。これにまさる祝福があるでしょうか。
今の、しばらくの地上でのときは、永遠と比べれば一瞬。
永遠に祝福された、あらゆる良きもので満ちた御国で、死なないいのちをもって、永遠に主と兄弟姉妹たちと、きよめられた状態で、永遠に生きる。死なないいのちを生きる。
そのときは、きっと私たちも喜び、喜び、喜び、感謝、賛美、感謝、賛美が心の底からあふれて、尽きることがないでしょう。
この新しい年、先のことは、私たちには知る由もありません。
しかし、私たちはすでに神の子どもとされている、神に愛され、恵みの関係に入れて頂いているということは、確かです。
その神の恵みはとこしえに、その真実は代々に至る。
このみことばを心に納めて、新しい年へと歩み出させて頂きたいと思います。