シナイ山で主から契約のことば、十戒を授与され下山したモーセの顔は、主の栄光を表わす輝きを放っていました。その主のことばを民に語るときは、顔が主の栄光で輝いたまま語り、そして語り終えると、その輝きが消えていくので、それを見せないために顔に覆いを掛けた。そんなところを前回見ました。
今日の35章はそれを受けていますから、モーセの顔は輝きを放ちながら、これらのことばを語っていたことになります。
全体の構成は、1-3節が安息日の戒め、4-9節が主がそこに住まわれるという幕屋を作るための材料の奉納物について、10-19節が幕屋に必要なものの製作について、20-29節は、そのモーセの指示を受けての民の応答です。
すったもんだとありましたが、いよいよ主の御住まいとなる幕屋作りが始まります。イスラエルにいのちを吹き込む幕屋ができて、主とともなる歩みが正式に始まる。そう思うと、モーセの心は弾んだでしょう。
すぐにでも取り掛かりたいところですが、急がば回れ。最初に安息日を守るよう、厳命されます。この日には、幕屋作りの仕事であっても、手をとめて休め、と。
そして安息日は、主を礼拝するために定められたものです。主に礼拝をささげること。これこそ、何よりも第一に大切なことと教えられるのです。
あらゆる教会活動も、主を礼拝するという、いわばいのちの部分がおろそかになっては本末転倒です。
また、安息日のもう一つの意義は、人や家畜を休ませることです。たとえ、幕屋作りであっても、働き過ぎないように休めと命令する主のお心遣いでもあります。ブラックな労働環境を、主は望んでおられません。教会も忙しすぎるのは、考えものです。
霊的にも、肉体的にも、安息日(こんにちでは日曜日)にいのちを回復して、新しい週に歩み出すというサイクルは、私たちの益とするために定められた神の知恵です。
幕屋を作るため、また大祭司、祭司の衣裳を作るための材料は、「進んで献げる心のある人」に持って来させなさいと命じられます。
徴収するのではない。一律に、強制的に拠出させるのではないのです。教会の献金も自由献金です。会費や分担金ではありません。神への感謝と献身の思いをもって、進んで献げる心をもって献げるときに、主は喜んでお受けくださいます。
主は心をご覧になる方だからです。私たちが、献げ物をもって主をお喜ばせすることができるとは、なんという恵み、幸い、また特権でしょう。
ここにあげられているものは、以前、見たものですが、金、銀、青銅や、油、香りの高い香、宝石などの高価なものもあれば、庶民も持ち合わせている亜麻布、やぎの毛、雄羊の皮、それにシナイの荒野のどこにでもあるアカシヤの木などもあります。
主のために何かをお献げしたいけれども、高価なものは手が出ないという人も、これならお献げできるものがあるでしょう。主の幕屋の材料は、一部の裕福な人だけの献げ物によってではなく、みんなが主のためにとの思いをもって、献げることができる。
これもうれしいこと、主の配慮です。主の教会も、みんなができる範囲で献げて建て上げるものです。その思いの一致もまた、天からご覧になって、御父が喜ばれる霊の献げ物なのでしょう。
材料の次は、何を作るかの製作の指示です。私たちは以前に読みましたが、民たちは初めて聞きます。
最初に、これは「心に知恵のある者」がみな来て、主が命じられた通りに造るよう、命じられます。ここの「知恵」とは、製作に必要な、職人のような知恵のことでしょう。
布の裁縫、羊やじゅごんの皮を縫い合わせること、それに刺繍ですが、柄が示されたわけではないので、どういうデザインにするかも任されますから、センスが問われます。それに金属加工、木材加工、それに香や香油の調合などなど。聞いていて、腕に覚えのある人は、これなら私にできる、と腕まくりしたでしょう。
主から与えられている賜物を、主の教会建設のために用いることは喜ばしいことです。教会建設と言っても、建物の会堂のことではなく、キリストを信じる人たちの集まりのことで、互いに仕えあうことによって建て上げられます。
何か好きなこと、得意なこと、あるいは、やるのにあまり苦にならないことがあるでしょうか。もしあったら、それは神からお預かりしている賜物かもしれません。それは恵みです。
私たちはその恵みの賜物の「管理者」とここで言われています。恥ずかしがったり、失敗を恐れたりして、せっかくの賜物を眠らせてはいけません。
奥ゆかしいのかもしれませんが、神は失敗してもいいから、リスクを取って、活用することを望んでおられます。自分のためというより、互いに仕えあうため、他の人の益となるために。
以上のことばをモーセから聞いて、民はどう応答したか、記されているのが20-29節です。モーセの顔も輝きを放っていたでしょうが、この場面、民の行動も輝きを放って、まぶしく感じます。
「心を動かされた者」「霊に促しを受けた者」(21節)、「進んで献げる心のある者」(22節)、「心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たち」(26節)、「心から進んで献げた」「進んで献げるものとして主に持ってきた」(29節)このとき、聖霊が民の間に働いていたのでしょう。
みな、生き生きと、喜んで、自発的に行っていました。
23節「じゅごんの皮」なんて、持っている人がいたのか?という気もします。それも幕屋全体を覆うのですから、そこそこ大量に必要でしょう。じゅごんは紅海にも生息してはいるようですが、希少な品だったと思われます。
しかし、神のなさることにぬかりはなく、すべて備えられていたのでしょう。神がみこころを行おうとされるとき、すべての必要は備えられます。
25、26節には撚り糸、やぎの毛を紡いだ女性たちの奉仕が記されています。これらは幕屋や大祭司の衣裳にふんだんに使われましたから、大量に必要だったでしょう。彼女たちは喜んで、セッセと糸を紡ぎました。
27、28節のしまめのう、宝石、油、香りの高い香など高価なものは、族長たちが献げたようです。みなが、それぞれに力に応じて、主のために献げました。それこそ、全員野球です。
考えてみれば、あの、文句ばかり言っていたイスラエルの民が、えらい変わりようです。この心境の変化はどこから来たのでしょうか。
聖霊が働かれたと言ってしまえばそれまでですが、もう少し具体的に考えてみると、それはやはり、赦すべからざる彼らの罪が、赦されたこと、そして一度は激しい怒りを買い、いわば縁を切られ、荒野に放り出されそうなところを、赦され、神が再び、彼らの間に住んでくださるという、そのことのゆえだったと思われます。
赦された喜び、終わったと思われた関係を回復して下さったことの感謝。一度、失って、はじめてわかるありがたさというものがあります。だからこそ、それを回復したときの喜びは大きい。
失われたものの回復とその喜びは、聖書全体を貫く主題です。
元はと言えば、イスラエルの民が、金の子牛の像を拝み、乱痴気騒ぎをしたという、偶像崇拝の罪を犯したことです。それは確かに、悪いこと、嘆かわしいことでした。
しかし神は、そのような人の悪をも、善と変えることがおできになる。その赦すべからざる罪を赦された感激、感動のゆえに、このように心から進んで主に献げ、仕える心に変えられていたのでしょう。
天の偉大な陶器師の手の中にあって、彼らは造り変えられたのです。後悔しても後悔しきれないこと、仮にあったとしても、神はそれをも私たちの魂のための益とすることがおできになります。
主を愛する者のためには、神はすべてのことを働かせて、益として下さると、みことばにある通りです。
ここに描かれているのは、福音によって生かされ、主に仕える者となった私たちの本来の姿に通じるものでもあるのだと思います。
私たちが、主に仕え、教会に仕え、兄弟姉妹方に仕える原動力は、福音から湧き出るのが理想です。
そうするべきだと思って、一大決心して、自分から進んで主に献げ、主に仕えよう、と決めて行うのもよいことです。それを否定するのではありません。
しかし本当の自発性とは、決心して意志の力で何かをするというよりも、自然とそういう気持ちが内側から湧いてくることです。そしてそれは、福音から湧き出るものです。
教会に来ると、罪、罪と言われる…と嫌がられるかもしれませんが、私たちの信仰生活の、本当の意味での祝福―霊的祝福―のポイントになるのは、罪の自覚だと思います。
それは私たちをへりくだらせます。自分でへりくだろうと思っても、なかなかできないものですが、自分が罪びとだとわかると、へりくだらされるのです。
また、個人的なことで人をさばくことがためらわれるようになります。自分も罪びとですから。むしろ、赦すほうに向かいます。
また、受けている良いものすべてが、恵みと思えるようになります。だから感謝をもたらします。喜びをもたらします。そして主への愛を生まれさせます。イエス様も、多く赦された者は多く愛します、と言われました。
もちろん、悪くないのに、悪いと無理やり思う必要はありませんし、それはできないことです。ただ、主が示してくださったときには、それを素直に受け入れ、認める心が大切です。
それは本当の祝福された歩みの入り口、スタート地点です。主の恵みと真実を、自分のこととして体験するチャンスです。神の無条件の愛というものを、体験し、知るチャンスです。
だから、自分を正当化することをやめましょう。そして、そんな私のために、キリストが、私を愛して、自ら進んで身代わりとなって十字架にかかり、苦しみを受けてくださったことを信じることです。
誰よりも福音宣教に用いられた使徒パウロは、かつて迫害の大将だった自分を「罪びとのかしら」と呼んでいました。
そう言って、自分の胸を打ちたたくとともに、そんな自分にさえ注がれている主の恵みは、ますます満ちあふれていると、晩年になっても感激しているのです(第一テモテ1:14-15、新約p.418)。
私たちアダムの子孫は、神との交わりを失い、滅びる運命だったのが、キリストの十字架のゆえに、罪赦されて、神との交わりを回復し、永遠のいのちにあずかりました。
一度、人類が失った死なないいのちを、キリストが私たちのために取り戻してくださり、信じる者は再び、その死なないいのちに生きる者となりました。
この世で尽きると思っていたのが、この世の次にもっとよい故郷で、永遠に神とともに生きる御国を受け継ぐ者とされているのです。
失っていたエデンの園にまさる神の国、神の都、天のエルサレムに入れて頂けるのです。目もくらむような栄光にあずかるものとされたのです。
アダムにおいて、その祝福のすべてを失っていた私たち人間が、ただキリストによって、そのすべての祝福にあずかることができるようにされました。この時のイスラエルどころではない祝福の回復です。