礼拝説教要旨 2023年12月31日
主と話したために
(出エジプト記 34:29~35)
はじめに

順番に見てきました出エジプト記も、前回、主なる神がイスラエルの民と二度目の契約を結んだことで、後半のクライマックスを越えた感があります。最初のとき、民は主の仰せになることは、みな従います、と言って契約を結びましたが、わずか四十日四十夜(24:18)で主を裏切り、背信の罪を犯しました。赦すべからざる大罪でした。そのまま、見捨てられて、御怒りを注がれても、当然でした。しかしモーセの捨て身のとりなしによって、赦しを得、一度は無効になった契約をもう一度、結び直してくださるという、ありえない赦し、ありえないあわれみを受けました。そしてもう一度、モーセはシナイ山頂で四十日四十夜、主からみことばー十戒とその他の律法と思われますーを頂き、それを石の板に刻んだのでした。いわば契約書です。飲まず食わずの作業でしたが、それは、モーセにとって、赦された喜びに満ちたものだったでしょう。見方によっては、実は出エジプト記の本当の中心は、ここにあったのかな、という気もします。赦すべからざる大罪を犯した民が、ただただ100%赦しによって、それも主に愛された一人のとりなし手によって赦されて、もう一度、主のものとされたという。

ここにはキリストによる救い―福音―が、よく表れているようです。今日は、モーセが四十日四十夜、主とともに山頂で過ごして山を下りてきたところです。

あらすじ

モーセが山を下りてくると、モーセ自身は知らなかったのですが、なんと彼の顔の肌が輝きを放っていたといいます。テカテカと脂ぎってとか、湯上りのように色つやがイイといったものではなく、ほかの人たちがモーセに近付くのを恐れるほどの輝き方です。後光がさすというのとも違うような気がしますが、見る方からすると、それに近いかもしれません。それでモーセの方から、彼らを呼び寄せますが、最初は兄アロンと会衆の上に立つ族長たちだけが来て、モーセと何やら話しました。「モーセさん、あなたのお顔が、何やら神々しく光を放っていて、ちょっとこわいのですが。」「何?そうか、知らなかった。だとしたら、それはきっと、ずっと主と話していたからだろう。大丈夫だから、みんな、近寄ってくれ。」その様子を見て、大丈夫そうだと見たか、残りの民も恐る恐る近寄ってきました。余談ですが、「輝きを放った」の原語「カーラン」は、「角(つの)」に由来する語で、ギリシャ語訳、ラテン語訳の聖書ではここを「角を出す」と訳したそうです。その影響で、有名なミケランジェロのモーセ像の頭には二つの角がつけられているとのこと。

さて、モーセは民に、主から語られた十戒と律法を教え、それを守るように彼らに命じました。私たちがこれまで長々と読んできた幕屋や祭司に関することなど、アロンとイスラエル人はこの時、初めて聞きました。語っている間、モーセの顔は輝きを放ち続けていました。それはモーセが語る主の戒めが神聖であることを表すものでもあったでしょう。十戒をはじめとする律法は、人間が作ったものではなく、天地を造られた神から与えられたもの。人間起源ではなく、神起源のもの。ゆえに神聖不可侵で、これを人間の都合で勝手に変えてはならないのです。人間は万物の尺度などと言っていると、世は混乱し、堕落して、手が付けられない状態になってしまいます。神のことばに対する畏れを保つことは、混乱が増大しているこんにち、特に大切なことです。モーセは主がお命じになったことを語り終えると、顔に覆いをかけました。そして以後、このパターンを常としました。民が宿営しているところから少し離れた「会見の天幕」(主とお会いする場所)に入って、主とお会いしている間はずっと顔の覆いをはずしていて、その後、天幕から出て主のことばを民に語り終えるまで、顔を出したまま。

そして語り終えてから、また顔に覆いをかける。ちょっと不思議な習慣です。どうしてモーセは、顔に覆いを掛けたのでしょう。これについて、パウロの霊感された解釈に聞いてみましょう。彼によると、モーセが主のことばを語っている間は、顔が輝いていたけれども、語り終えると顔の光が消えていったとします。それでモーセは、それを見せないために、覆いをかぶったというのです(第二コリント3:13、新約p. 358)。モーセは、せっかく主のみことばを、神の栄光をあらわす光とともに、神々しく民に語ったのに、それが消えていくのを民が見たら、主に対する恐れ、主の戒めに対する恐れも、弱まりかねないという配慮でしょうか。モーセは、今度こそ、主の戒めを守ってほしかったので、民が主への恐れを持っていてくれるようにと考えたのかもしれません。以上があらすじですが、ここから三つのポイントを汲み取りたいと思います。

適用① 主と一対一で交わる祈りの時を持つ

モーセがシナイ山頂で主と話すときを過ごしたように、私たちも主と一対一で過ごすときを持つようにしましょう。その際に、私たちは主から計り知れない恵みの中に入れて頂いていること、限りないあわれみを頂いていること、私たちが考えも及ばないほどに愛されていること、それも聖い愛で愛されていることをベースとして、主の御前に出ることです。福音をベースとして、主との交わりのとき、祈りのときを持つということです。モーセの顔がこの時、光を放っていたのは、主の赦しを体験していたこともあったのかもしれません。主と向き合うにしても、どういう関係性の中で向き合うのかは、とても大切なことです。私たちは、御子キリストのゆえに、―ただ御子キリストのゆえにー神に愛されている子という関係の中にあるのです。神の愛を確信して祈りのときを持ちたいものです。「デイリーブレッド」という、聖書のみことばとショートメッセージの配信に、次の話がありました。黒人の公民権運動の指導者だったキング牧師の自宅は、1957年1月、爆破されました。その3日前、彼の一生を変える出来事が起こったと言います。彼は脅迫電話を受け、公民権運動からの撤退を思い巡らしていました。

その時、彼は心の底から祈りました。「私は正しいと信じることのために立ち上がりました。しかし今は怖いです。私の中には何も力が残っていません。もう独りでは立ち向かえません。」そう祈った直後、彼の心のうちに静かな確信が生まれました。キング牧師は述べています。「ほぼ即座に恐怖が消えていきました。疑念も消え、どんなことにでも立ち向かう準備ができました。」私もこういうことは、しばしば経験しています。私は弱い人間ですから。弱さや恐れを覚えるときは、誰にでもあるのではないでしょうか。それは普通です。大切なのは、その時にどうするかです。私たちを愛してやまない天の父に祈ること。弱さをそのまま、申し上げること。これが、恐れを覚えたときの最善の対処法です。一回でダメでも、二回、三回と祈りを重ねるのです。イエス様も、ゲッセマネで三回、祈られました。父のみこころがなるようにと。キング牧師の場合も、神のみこころにかなったことを行うための勇気でした。そのような正しいこと、神の国に仕えるためのこと、イエス様に従う上でのことの場合、よりこのような神からの助けが与えられるということは、あると思います。

しかしまた、個人的な窮状、困難の中からあわれみを求める声にも、天の父は耳を傾けてくださり、みこころにかなって、こたえてくださいます。ただし、主にまったく従う気がなく、むしろ背いていながら虫のいい祈りには…どうなのでしょうか。勘違いするといけないので、却くだされるかもしれません。まあ、みこころにかなって、こたえられるのでしょう。悔い改めて祈るなら、それが一番、望ましいことです。

適用② 主からみことばをいただく

主と、祈りの中でともに過ごすだけでも、すばらしいことですが、モーセは、シナイ山頂でみことばを頂きました。6—27節にシナイ山頂で交わされた、主との会話が記されていますが、これがすべてではなくて、ほかにも多くのことが語られたのでしょう。私たちも、聖書を開いて、主からみことばを頂きましょう。主の日の礼拝だけでなく、ほかの日にも個人的に聖書を読んで、思い巡らすときをもつことをお勧めします。体力的、気力的、時間的にそれがむずかしい場合は、毎朝配信している「今日のみことば」や、その他の同じようなものを利用してもいいでしょう。できる方は、一度は聖書通読をされることをお勧めしますし、できる方は二回目、三回目とトライされることもお勧めします。日々のデボーションをしていると、たまに、その日にピッタリのみことばが与えられることがあります。そういうときに与えられたみことばを支えとして、その日を乗り切ったことが、何度かあります。しかしながら、いつもではありませんし、あまりそういうことを期待し過ぎるのもよくありません。

むしろ、日々のみことばの効果、効力は、漢方のように、いつの間にか、気付かないうちに、私たちの霊的体質を改善していることのように思います。あるいは日々、食べている食事によって、いつのまにか、身体が作られているように、聖書のみことばは霊の糧として、いつのまにか、私たちの霊を形作っている。そういうことの方が本来の意義なのかなと思います。ちなみに、ウェストミンスター小教理問答3には、聖書がおもに何を教えているか、について、⑴人が神について信じなければならないことと、⑵神が人に対して求めている義務について、と教えています。神がどういうお方か、どういうことをなさったか、など神ご自身についてと、神が私たちに求めておられる義務、神と人とを愛しなさい、赦しなさい、きよい生活をしなさい等々。私たちは、自分の造り主に対して義務を負っているんですね。聖書を読むと言っても、漠然として何をどう読んだらいいか、わかりませんので、これらの2つの視点で読むとよいと思います。

適用③ 聖霊が与えられていることを確信して

何度か言っていますが、みことばと礼典(洗礼式と聖餐式)と祈りは、神が私たちに恵みを注がれるための恵みの手段です。これを正しく用いるところに、恵みは注がれ、聖霊が働かれて、みわざをなさると信じます。モーセの時代と現代の大きな違いのひとつは、モーセの時代には、民に聖霊が与えられていなかったけれども、現代はキリストを信じる者には聖霊が与えらるということです。これは、死んだ状態と生きている状態くらい、決定的に違うことです。私たちは、(キリストを信じているなら)自分にも確かに聖霊が与えられていることを確信しましょう。私たちの内には、聖霊が住んでおられるのです。そして聖霊の働きを妨げる思い、罪の性質を十字架につけて、聖霊に働いて頂きましょう。デボーションを、まるで修行のように一生懸命励んでも、聖霊に働いて頂かなければ意味がありません。主に信頼して、聖霊が働いてくださることを期待して、祈りとみことばを読むこととを続けるときに、聖霊が私たちをイエス様の似姿へと造り変えていってくださるのでしょう。第二コリント3:18、新約p. 359。私たちはみな、…鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。モーセの栄光は消え去っていくものでしたが、今の時代は「栄光から栄光へと」増し加わっていく栄光です。それも「主と同じかたちに姿を変えられて」いく栄光です。これは御霊なる主が、恵みの手段を通して、私たちの内になしてくださることなのです。「 心に御姿 映して生きる 」新聖歌 352 番明日から始まる新しい年の抱負に、できる範囲で、断続的にでもいいから、デボーションを一年間、やり通すということを掲げては、いかがでしょうか。きっとその信仰の決断を、主は喜んでくださり、励ましてくださって、豊かな霊の実を結ばせ、私たちの内に御子の光を輝かせてくださると期待します。