礼拝説教要旨 2023年12月17日
契約を結ばれる主
(出エジプト記 34:10~28)
はじめに

モーセの執念のとりなしが功を奏して、主はもう一度、彼らと契約を結んでくださると仰いました。前回見たように、主は、母親が悲惨な状態にある我が子を見ていたたまれなくなるように、彼らをあわれまずにはいられない。彼らが罪を犯したなら、悔い改めるのを待って、怒るのに遅く、彼らを赦しに赦して、その恵みは千代にも及ぶ。ただし、どこまでも悔い改めようとせず、神に反抗し、悪を行う者は、必ず罰する…。そう語られました(6,7節)。それを聞いたモーセ、神のあわれみ、恵みをありがたく思いつつも、民のかたくなさをよく知る彼は、不安を覚えずにはいられなかったのでしょうか。「確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」と乞い願わずにはいられなかったのでした(9節)。私たちもそういうときがないでしょうか。不安になり、神様、私をお見捨てにならないでください、と祈らされるときが。詩篇にもそういうのが多くあります。不信仰なのかもしれませんが、それが現実の姿なのですから、仕方ありません。

そういうときは、その不安にふたをしてやせ我慢するより、率直に、主よ、あわれんでください、お見捨てにならないでください、と祈った方がいいのでしょう。ここでも、そんなモーセに、主が「心配するな、モーセ。今ここで、わたしは確かに契約を結ぼう」と再度、契約の板—いわば契約書―を渡されるのが、今日のところです。「主がともにおられる」と「主の命令を守る」はセット (10-11節)>10節で、主は契約を結ぼうと言われました。天地を造られた神が、彼らの主となり、彼らはその民となるという契約。それは、いつも主なる神が彼らとともにいてくださるという契約。神が、彼らと一心同体となる契約と言えるでしょうか。神の契約は、かりそめではないのです。お遊びではないのです。神は真剣なのです。一度、彼らの神となると宣言された以上、―彼らの方でその契約を投げ捨てるのでない限りー神はどんなことがあっても、彼らとともにおられ、彼らに約束されたことを成し遂げる。

かつて、強大なエジプトの支配から、大いなる御力をもって、数々の奇跡を行って、彼らをそこから解放し、連れ出された主なる神は、これからも全能の御力をもって、どこに行っても、どの国に行っても、神は彼らとともにいて、あらゆる困難から、強い敵からも、必ず救い出す、との確約です。もちろん、それは、主がともにいるから、バックに神がついているから、何をしてもいい、好き勝手なことをしていい、ということではありません。11節「わたしが今日あなたに命じることを守れ」とあります。「神がともにおられる」という約束は、「神の命令を守る」こととセットです。神が命じることと言っても、何か特別なことではありません。滝に打たれて修行せよとか、月に一度は断食せよとか、そんなことではありません。ただ、神を愛することと、隣人を愛すること。つきつめると、この二つです。これをもう少し具体的に十の戒めにしたものが、十戒です。父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽ってはならない、むさぼってはならない…。以前、これらの戒めについて詳しく学びましたが、みんながこれを守れたら、世はどれほど住みやすく、幸せになるでしょう。

神は、地上でこの神のみこころが行われて、人々が平和で、幸せな生活を営むことを願っています。そのために、イスラエルを選んで彼らに戒めを与え、約束の地に導こうとしているのです。11節の後半に出て来るのは、約束の地カナンに当時住んでいた民族。主は彼らを追い払うと言われました(これは今日のパレスチナ問題とは別のこと、切り離して考えるべき)。当時、カナンの住民は倫理的に非常に堕落しており、暴力、暴虐、不品行がはなはだしく、子どもを文字通り、全焼のいけにえとして偶像にささげることさえ、していました。それだけ多くの犠牲者、叫び、涙があり、大量の血が、その地に流されていたということです。そこにイスラエルは、神の教えを守り行う国を建てて、光を輝かせよ、というのです。真の戦いは、武力の戦いではなく、倫理的な戦い、霊的な戦い、信仰の戦いでした。ところで、「主が彼らとともにおられる」と「主の教えを守りなさい」というこの二つのセットは、有名な、いわゆる「大宣教命令」の一部と重なります。マタイ28:20、新約.64わたし(キリスト)があなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」私たちは、イエス様を信じて救われた、永遠のいのちだ、とそれだけで終わるのでなく、イエス様が命じられたことを、守るべき者です。世にあって、主が命じられたことを守るのは、ときに勇気のいることです。軋轢を生むこともあるかもしれません。仏式のお葬式に参列して、なぜ焼香しない!などと言われたらどうしよう、と心配になるかもしれません。また、度を越した宴会騒ぎを断ると、付き合いが悪い!と不利益を被るかもしれません。しかし、あらゆる権威を与えられているイエス様が、いつも、私たちとともにいてくださるとお約束くださいました。従った者のみが体験できるインマヌエルの主の恵みもあるのでしょう。釣り合わないくびきを負わない (12-17節)>ここは、当時のイスラエルに対して語られた禁令です。当時の文化、習慣が偶像礼拝と緊密に結びついていたことが、背景にあります。しかも、偶像礼拝は不品行やむさぼりと結びついていました。彼らが欲にたわいもなくひかれるのは、火を見るよりも明らかなので、このように厳命されているのでしょう。

12節「その地の住民と契約を結ばないように」は、同盟関係や婚姻関係のような、運命共同体的な関係のことでしょうか。こんにちの、いわゆるビジネスやその他、生活上の必要なさまざまな契約のことでないことは、言うまでもありません。要は、これからカナンの地に入るにあたり、堕落腐敗していた当地の民族と融和的な態度を取るなということ。からめ手から陥落させるサタンの罠に陥らないように。むしろ13節、偶像の祭壇を打ち壊せと。もちろんこれは当時の状況に限定されることで、こんにちで言えば、むさぼりや快楽といった偶像に対して、クリスチャンは、みことばと聖霊によって、地の塩、世の光として、闇のわざを駆逐するように、と適用するべきでしょうか。第二コリント6:14、新約p.362不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。…心を尽くして主を愛する (18-26節)>12-17節が「してはならない」禁令でしたが、18-26節は「しなさい」との命令です。以前、学んだのでひとつひとつを詳しくは見ませんが、18節、種なしパンの祭りは、ここでは過越の祭りも含めてこう呼ばれています。

これは、主が彼らを大いなる御力をもって、奇跡的にエジプトから救い出されたことを覚え、きよい生活を送るべきことを覚える祭り。これは、キリストの十字架によって私たちが滅びから救われ、罪からできるだけ離れた生活を送ることを示す預言的な祭りでもありました。19-20節、初物は主に捧げよとは、主を常に第一とすべきことを教えるもの。21節は、安息日厳守の戒め、22-24節は小麦の刈り入れの始まりを告げる七週の祭り。これは、新約時代、福音宣教が始まって、魂の収穫を示す預言的な祭りでした。そしてあらゆる収穫の完了を祝う収穫祭。これは、魂の収穫が完了して、世の終りに用意されている喜びのときを示す預言的な祭りでした。この二つと先の種なしパンの祭りとあわせて、ユダヤの三大祭りと言って、成年男子が年に三度、必ず守るべきものとされました。その際、祭りのためにエルサレムに上る間、留守にする家も守られると約束されました。

25-26節は補足で、過越の祭りのいけにえが聖なるものであること、収穫が与えられたときには、ガツガツと自分が最初に貪り食うのでなく、最初に主に感謝の礼拝をささげるべきこと、子やぎをその母の乳で煮てはいけないとは、こうすれば翌年も豊作になるという異教の、残酷な風習をまねるな、と念押しです。これらは今日の私たちに適用するなら、次のイエス様のみことばでしょうか。マタイ6:33、新約p.11まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。私たちの生活において、神を第一とすることを、身近なところから行っていきましょう。具体的に、何から始めるか、考えてみてください。たとえば、朝、起きたら、まっさきに「天の父なる神様、おはようございます。イエス様、おはようございます。あなたの御名をほめたたえます。」とまず一言、祈るとか。収入が入ったら、まず神にささげる分を取り分けるとか。自分のできる範囲で、自分なりに決めて「行う」ことが大切です。「 わが身になされし 御業を思えば 歌わであるべき 主の御恵み 」新聖歌 218 番さて、最後に主はモーセに「これらのことばを書き記せ。

わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」と言われました。彼は、四十日四十夜、主とともにいて、パンも食べず、水も飲まずに、石の板に契約のことば、十のことばを刻みました。奇跡的に支えられたのでしょう。「十のことば」とあるので、ここに言われたこと全部でなく、十戒を刻んだのでしょう。出エジプト記を順番に読んでくると、今日の個所は、ほとんど前に一度、出て来たことの繰り返しです。しかし、「なーんだ、同じものか、飛ばそう」と言う前に、考えるべきことがあります。ことばは同じだけれども、これが語られた背景が違うのです。今度は、イスラエルの民が主なる神を裏切り、赦すべからざる背信行為をしてしまったあと、それをモーセの命がけのとりなしで、赦されて、与えられた戒めです。御怒りを受けるべき彼らが、赦され、神の民として受け入れられたからこそ、与えられた戒めです。戒めを与えられたことは、恵みなのです。主がこれからも、彼らに対して恵みの契約の主であり続けてくださるということの、あかしです。そう思うと、これは前と同じ戒めでも、ありがたみが違うでしょう。涙が出るほど、ありがたいものでしょう。

もちろん、最初に与えられたときも、ありがたいこと、この上ない恵みなのですが、それが民の取り返しのつかない罪のゆえに、いったん、あきらめなければならなかったのが、赦されて、もう一度与えられたということは、ありがたみが倍増してしかるべきでしょう。そう思うと、この戒めがいとおしく、いっそう、大切な宝となるのではないでしょうか。これは、福音についても言えます。新約聖書の中にもたくさん、戒め、命令がありますが、それは神が私たちを愛して、御子キリストによって、私たちのすべての罪を赦し、赦しに赦して、私たちをご自身の愛する子として受け入れてくださった、ということがまず、あります。だからこそ、神の子どもにふさわしく、このように生きなさい、とみことばを与えられているのです。私たちはもはや罪の奴隷ではないのだから、そこから贖い出されたのだから、そのことをよく知って、これからは神の子どもとして生きなさい、そのためにこのみことばを与えるから、また聖霊を与えるから、みことばと聖霊によって生きなさい、と、ありがたいことに、命じられているのです。

恵みの契約の中にあるのですから、たとえ私たちが何度失敗しても、というか、何もできなくても、神に従いたい、イエス様に従いたい、みことばによって生きたい、という意思があるなら、神が備えておられる赦しは無限です。尽きないのです。足元から、できるところから、示された所から、一つずつ、主に従って行く歩みを始めていけばいい。それを積み上げていけばいいのです。小さな一つ一つでも、それを主は導いて、祝福してくださり、神の国の恵みを味わわせてくださるでしょう。聖書の中の戒め、命令は、私たちを拘束し、不自由にする、うっとおしいものではなく、御子キリストの十字架によって、罪赦されて、神の愛する子とされているからこそ、与えられている、ありがたい恵みなのです。もしそうでなかったら、与えられないのです。罪と闇の中に放っておかれるのです。肉の欲のままに突き進んで、滅びに至るままに。しかし神は、ご自身の愛する子たちに、このみことばによって、いのちの道を行きなさい、天の御国へと至る道を行きなさい。何度失敗しても大丈夫だから。赦しは無限に備えられているから。わたしに信頼して、歩み続けなさい、と励ましてくださるのです。