礼拝説教要旨 2023年12月10日
十字架の死に向かう主イエス
(マタイの福音書 20:17~28)

12月第二週 教会の暦でアドベントを過ごしています。ここ数か月 2か月に1度 私自身はイエス様の教えに耳を傾けようとしてきました。十字架に向かってあゆまれる中 、イエス様がおしえていることに耳を傾けました。あなたこそ生ける神の子キリストですとペテロがいいあらわすことができたそのときを境にして イエス様は世に来た目的を語られました。十字架の死にあると明言されました。そのときからはっきりと語り始めていました。私自身教えられる中で、イエス様の教えの中心 大事なことは十字架の身代わりの死これにどういう意味があるのか、人々にわかってほしいと願っておられたそして身代わりの死を信じたものの罪が赦されることそれを理解してほしいと願っておられた。肝心なのは恵みによる救いを理解することそのことを覚え続けてきました。ところが弟子たち そして今日の教会もそうなのかと思いますが恵みによる救いを思い違いして受け止めていることがあると気になります。実際 イエス様は教えを語りながら思い違いをしないように警告しました。いまお読みした箇所の20:16後のものがさきになると語っておられます。これこそが救いの理解の大切なことなのだ

単純に整理するとわかっているつもりで救われたと思っていると気をつけなさい。救いにふさわしくないのだと受け止めているそういう人たちこそが確かな救いにあずかるのだとそういう警告が含まれている気がしてなりません。私たちはイエス様の十字架のみわざがどれほど大事か。罪の身代わりは自分のためだと信じることが何よりも大切だと覚え続けたいのです。アドベント第二週を迎えました。かいばおけの幼子イエス様は十字架の身代わりの死のためにこの世にこられたとしっかり覚えたいのです。そのことを覚えながら前回の続きとして語られていることどういうことがあったのかに目を向けたいです。前回は天の御国をたとえ話で話されました。めぐみによる救いを語っておられたのです。そのあと17節20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

こうおっしゃってエルサレムに向かっている私たちにはこういうことが待ち受けていますと十字架につけられますと明言されました。一層はっきりと十字架で苦しみを受けることを告げておられますが弟子たちは十分に理解できなかったそんな場面です。弟子たちはエルサレムにいくと重大なことがおきるとわかったのですがそれがどういうことなのか。十字架で死ななければならないとイエス様はおっしゃるけれどもそんなことをおっしゃってはいけません、と受け止めていたと分かります。その様子が20節以下の場面に具体的に表れています。20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。お母さんが息子二人をつれてまだ十代だったかもしれない息子たちをつれてイエス様のまえに進み出ました。聖書の記述はお母さんが主導権をもっていたように母が何かをねだろうとしたと。よく世間でいう xxママというのでしょうか。息子たちがイエス様に頼んだのではなくお母さんが頼もうとしています。イエス様は何を願うのですかと 問うておられます。彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、

一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばをください。」あなたの御国で といっているのでエルサレムで苦しみを受けて何事かがおきてそのあと どうなるのか。天の御国が近づくと聞いたのかもしれない。いずれにしても天の御国でイエスさまがその地位につかれたときに約束しておいてくださいと願い事をしています。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。エルサレムでの苦難を語っておられてその苦難は大変なことが待っているのだあなたがたはそのことが分かっているのか、と聞いておられます。覚悟ができているのですか?と問い返しています。彼らは「できます」と言った。と聖書は記します。20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」こういってご自身のエルサレムでの受難を暗示してその苦難 ヤコブとヨハネですがその二人にも及ぶ苦難であると暗示してそれでも願うのかと迫っておられたのです。

父なる神様のお考えの中にあると言って彼らの願いではなく みこころだけがなると彼らを退けておられます。ここでことは落着したかのように思うのですが一連のやりとりを聞いた弟子たちはこころ穏やかではありませんでした。20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。こういう場面をどう読むか 問われますがこの10人のうちの一人として想像してみると 理解できるのではないかと思います。実際 こういう場面を目にしたわけです。この三人に対して腹が立たないわけがないと思うのです。みなさん如何ですか?イエスさまは彼らをしりぞけた それでいいと 冷静でいられるでしょうか。イエス様はそれをみて 彼らの心の内を読み取っておられます。20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」とおっしゃいました。以前使っていた新改訳第三版は自分のいのちを与えるためにきたのと同じです という翻訳でした。あたらしい版は同じようにしなさいというそういう意味が入っているのだ。これを読み込んだのかもしれませんが同じです ということばで理解するとイエス様がおっしゃっている こうしなさい という意味が弱くなる ということかもしれませんがそのようにしなさい という意味が含まれていると解釈しています。そうであるならば理解の仕方を考えなければならないかなと思います。異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。このことばを思いめぐらせると毎日ニュースで報道されていることが思い浮かんで世界中 権力を持っている者が好き勝手をしていると分かります。みなさん如何でしょう私は子供のころから社会化を習う中で総理大臣という 大臣の英語はミニスターだと聞いてなるほどそのとおりだ。日本語では役人を公僕と教えられました。ところが実際はそうではない

ミニスターとは神様に仕える働き人のことだと聞いたときに日本で使われていることばをきくと元の意味を離れていると思いました。牧師もミニスターです。イエス様はあなたがたの間ではそうであってはならないとおっしゃって20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」そのことを理解しなさいとおっしゃっています。私たちはこの教えをはっきりと聞かなければいけないと教えられます。この世で偉くなりたいとか先頭に立って歩みたいという思いは尊いと思いますしそれがないといい意味での動機付けはつかないのかもしれないですがだからといって それで突っ走っていいのではないとイエス様は教えます。人に仕える事人のしもべになることこのことの大事さをわすれないようにしなさいと。イエス様ご自身が仕えるために世に来られたこのことと関係しているのだとおっしゃいます。多くの人たちの贖いの代価として世に来られた自分と同じようにしなさいと弟子たちはどのくらい理解できたのか気になります。

私たち自身も理解できているかなと問われます。弟子たちがちゃんと理解できなかったと思うのはルカ22章で誰が一番えらいかの議論をしています。同じような場面が弟子たちの間で繰り返されたのかなと思います。上に立つ人は給仕する者のようになりなさいとイエス様はこのようにおっしゃってなかなか理解できない教えだったのかと思いますししもべになるということを自ら進んですることは弟子たちはもちろん 私たちもとても難しいことなのだと気づかされます。私自身の信仰生活も大学を卒業して神学校にいこうと思った時 牧師になろうと思ったのではなくあまり明確ではありませんでしたただどこかの会社につとめる道は開かれず神様がどこに導いてくださるのかわからない その中で大学四年生の時に週の半分大学にいって 半分は神学校の授業に行って授業料は安かったので そこで単位をもらいました。私の父は大学を卒業したらいい会社にはいってもらいたいと思っていたようですが就職活動しないで神学校にいきはじめたので父は怒って最低なバカの選択だと。父は洗礼の準備をはじめていたのでいつか父が折れるだろうと計算しながら 何も話さず父が折れるのを待ちました。

そうしたら父が神学校に行ってもいいと言い出したのです。そんなことを思うとき 私たちが人生をどう考えて神様の導きをどう受け止めるか私自身は消去法で考えていって専属牧師をと 考えていた中 私を伝道師として迎えてくださるというので1971年 にきました先輩牧師がいろいろ教えてくださる中ひとりの牧師は 教会ではスリッパを並べることからはじまるこれが仕える者の手本だと教えてくれました。神戸の神学校では神学生が寮の掃除をするとき トイレの掃除をしっかりするのが大事だとじゃあ自分はどうするのだろうと考えさせられながら ここまで来ました。牧師はこまごましたことをしなくていいみことばの解き明かしに専念してくださいそういう教会もありますが それだけではないんだろうなと私自身は信徒として教会生活をおくった時期があったので信徒の気分が抜けないまま牧師になったのもありますが考えさせられることがたくさんあります。イエス様は世に来たのはご自分の命をあたえるためだったとおしえています。ピリピ人への手紙2章はイエス様がどのように歩まれたか教えてくれる箇所です。こういう思いで教会生活をしてくださいと教えるのですが

2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。と記されています。2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。人として来られた自分を低くして人として来られた

このはじまりが飼い葉おけに寝ていたイエス様だったのかと思います。幼子誕生の知らせを最初に聞いたのは羊飼いでした。彼らはすぐに駆けつけました。彼らはなんらさまたげられることなく幼子に近づくことができたこれが最初のクリスマスの場面です。イエス様は仕える者の姿を取って世に来られた場面があったと思います。このごろ せっせと道を歩いています。昼間歩いていると 赤ちゃんとすれ違うことがあります。そういう赤ちゃんと目が合うかな と通り過ぎますが手を振ってみました。小さな子供は誰にも妨げられることがない雰囲気があり近くの保育園のこどもたちも電車がすきで散歩に来ている子がたくさんいます。目があったら手を振ろうかと思っているのですがかいばおけのイエス様は誰にもさまたげられない救い主の姿そのものだったのではないか誰もが近づくことができる姿だったのかと思います。クリスマスの出来事は誰も妨げることなく招いているのだとそのメッセージが人々に届いたので福音が全世界に届いたのではないか。今日のクリスマスがどれほど変質してしまっていると嘆かわしいと思います。昨日も駅前で サンタをさがせ というイベントがあり違うと思いながら 何もいわずに通ってきました。

クリスマスを本当に救い主のお生まれとして祝っているのか。救い主のお生まれは 十字架の身代わりの死のために世に来られたことなのだと。低くへりくだってくださったイエス様なのだ。世界中 課題はいっぱいです。戦争・気候変動・政治経済も混乱する現代。何事が起ってもうろたえない信仰をもたせていただきたいと信仰がいよいよ堅くされることを祈りたいと思います。十字架の死に向かって歩むためにお生まれになったイエス様を忘れないようにしたいと思います。