礼拝説教要旨 2023年12月3日
怒るのに遅く、恵みとまことに富み
(出エジプト記 34:1~9)
今日の要点

主は私たちに対して、怒るのに遅く、恵みとまことに富む方であることを、感謝し、喜ぶ。

はじめに

金の子牛事件の続き。聖書中、屈指の悪名高い罪の記録。しかし罪が深いところには、神の恵みもまた深いという、福音の真理をおぼろげにあかしするものでもあります。前回までみたように、モーセの必死のとりなしが功を奏して、主は背信のイスラエルの民を赦してくださいました。それで、民の側で破棄してしまった、主との契約をもう一度、結び直してくださるというのが、今日の場面です。赦して、再び民と契約を結ばれる主:ただし労苦は伴う (1-4節)>主はモーセに前と同じような石の板を用意して、再び、シナイ山へ登るよう言われました。そうしたら、主はもう一度、その板に前と同じ、契約のことばを書いてくださると。主を捨てて、欲望を神として仕えた彼らは、御怒りによって滅ぼされて当然でした。彼らのしたことは、そうされるに値することでした。それを、なおも赦し、もう一度、彼らをご自分の民として、契約を結んでくださるというのです。それこそ、文字通り「有り難い」ことでした。モーセは感謝にあふれて、主の仰せを承ったことでしょう。2節の「朝までに準備をし」という言い方は、この時すでに夜か、夕方か、遅い時間のような印象を受けます。

それでもモーセは、言われたものを用意して、翌朝早く、さっそうと山に登ります。神と民とが契約を結ぶ場所、シナイ山は世から聖別された、聖なる空間とされ、モーセのほかは誰一人、家畜一匹、山のふもとにさえ、いてはならないと命じられました(3節)。主が、再び、民と契約を結んでくださることは、言葉に尽くせないほど、ありがたいことでした。ただ、一つ、気になるのは、前回は石の板自体も、神ご自身が作られたものでしたが(32:16)、今回は、モーセに石を切り出して、作れと言われたこと。ということは、神ご自身が作られた板を、手にすることはできないのです。赦されたとしても、失うものはあるということです。また、「あなたが砕いたこの前の石の板」(1節)という言い方からすると、モーセが壊したものは、モーセ自身が償わなければならないということでしょうか。自分が蒔いた種は、自分が刈り取らなければならない。罪は赦されたとしても、多少の労苦は伴います。アダムも、罪を犯して、生き延びることは許されましたが、労働に伴う労苦は増し加えられました。エバも、出産の祝福は残されましたが、それに伴う苦痛は大いに増すと言われました(創世記3:16-19)。

それでも彼らは、恵みを残して頂けたことで、感謝したでしょう。主は恵み深いお方。さばきの中にも、恵みを残される方です。ただ、罪を犯して、何もないということはない。その懲らしめ、痛みは必要なこと、そして謙虚に受けるべきことです。実はそれも、私たちをイエス様の似姿に造り変えるための恵みなのですから。怒るのに遅く、恵みとまことに富み:主なる神の本質 (5-7節)>さて、モーセが山に登ると、主は雲の中にあって降りて来られました。そして前回、言われた通りになさいます(33:19)。主がモーセの前を通り過ぎるとき、こう宣言されました。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(6-7節)「【主】、【主】は」と御名を二度、繰り返して強調しています。【主】は、原文はヤハウェ。これは神と民との特別な契約関係を示す呼び名とされます。

モーセに対して、こうご自身の御名を宣言された、それも二回繰り返されたということは、イスラエルの民を―捨てられて当然のことをしてしまった彼らをー確かにご自身の恵みの契約の中に保ってくださるとの宣言でしょう。わたしは、あなたにとって、なお、恵みの契約の主―ヤハウェーであり続けよう、と。涙が出るほど、ありがたいことです。その恵みの契約の中にある民に対して、主は「あわれみ深く、情け深い神」と似たような語を重ねて強調します。「あわれみ深く」は、元のヘブル語では母の胎を表わす語。悲惨な状態の我が子を不憫に思って、いたたまれない心でしょうか。あふれ出て、抑えきれないあわれみの思い。これが最初に来ているのは、このことをモーセと民に知ってほしいからでしょうか。悪いことは悪いと、身に沁みさせるために、厳しい顔をしなければならないこともあるけれども、そのお心のうちはあわれみがあふれて仕方がないのです。「怒るのに遅く」忍耐に忍耐をされる方ということ。できる限り、悔い改めてくれることを願って、怒りを抑え、忍耐される方です。旧約の神は、怒ってばっかりいると誤解されがちですが、実際は、怒るのに遅い方なのです。

ただし、「怒ることがない」と言っているのではないことに注意。神は悪に対しては怒るのです。しかしそれをグッと抑えて、忍耐される。しかし永遠に怒らないのではない。忍耐に忍耐を重ねて、最後の最後まで悔い改めを拒む者には、定めの時が来たら御怒りを注ぎ出される。罪や悪をそのまま放置することは、決してない。あわれみが尽きることなくあふれても、悔い改めない悪人に対しては、さばきを行わなければならない。ただ淡々とさばきを執行するのでなく、怒りをもってです。神は怒られるのです。そのときには、激しい怒りを注ぎ出されます。だから、神が忍耐してくださっている間に、悔い改めなければいけない。そのための神の忍耐です。使徒ペテロの時代、主はいつまで経っても来ないではないか、さばきはないではないか、とうそぶく者がいました。それに対してペテロは言いました。第二ペテロ 3:9、新約p. 476主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

それぞれの今の生活、状態で、私たちが悔い改めるのを、主が忍耐して待っておられることはないでしょうか。もしあったら、今のうちに悔い改めましょう。悔い改めたら、神の国です。神の恵み、霊的祝福がドドドッと流れ込んでくるでしょう。「恵みとまことに富み」恵みは、過分なよいものを与えられること。それを頂くに値しないのに、その資格も権利もないのに、与えられることです。神の民とされること、神の子とされること、神とともに生きること、御国を受け継ぐこと、永遠のいのちにあずかること等々。すべては恵みです。これだけで、喜びがわいてきます。いや実は、日々の糧、空気も恵みです。覚えておられるでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で、善悪の知識の木からとって食べるその時、必ず死ぬと言われていました。それなのに、その後も、日々、必要な糧を与えられ、楽しみ喜びも残されました。いのちの源である神に背いたその瞬間に、死ぬべき者だったのに。アダムの背信以降、人間に与えられた、あらゆる良きものは、空に浮かぶ太陽から、地を潤す雨から、大地が実らせる穀物、果実から、すべて、受ける値しない者に与えてくださっている神の恵みなのです。そして「まこと」は、真実であること。

ここでは、主の恵み深さが永遠に変わることがないという、主の真実さを表わします。それは次の「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」につながります。千代まで保つとは、永遠に保つということです。それは咎と背きと罪とを赦し続けることを意味します。恵みの契約のうちにある者には、子々孫々、とこしえまでも恵みを保ち、罪も赦し続けるのです。飽くことなく。もちろん、悔い改める心、主に従う心を持つ者には、ということです。良心を捨てたら、赦しもありません。第一テモテ1:9-10、新約p. 4191:19 ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。しかしそのような者も、悔い改めて、立ち返る機会は残されています。第二テモテ2:25—26、新約p. 4272:25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。2:26 悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。

私たちが祈っている誰かが、今は良心を捨ててしまっているかのように見えても、なお、忍耐強く祈り、導くことによって、悪魔の支配から目を覚ますこともあるのです。最後に「罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる」先の恵みは千代までなのに対して、罰は三代、四代と限定されます。ここにも主の恵み深さが表れています。ここは、父が神に背いた場合、子や孫が何も悪くないのに、その罰を負わされるという意味ではありません。親がどれほど極悪非道でも、子がそれを見て悪から離れ、神を恐れ、神を信じて、従う歩みをするなら、その子は必ず生きると主ご自身が保証しています(エゼキエル書18章、旧約p. 1442以下、参照)。ではここはどういう意味か。親が主なる神に背き、偶像―欲望、むさぼりーに走るなら、その影響は当然に子どもにも及び、子ども自身が罪を犯すことになるので、罰を受けることになる、ということと思われます。なので、親の責任、特に信仰上の責任を自覚させることばと思われます。またここに「罰すべきものを必ず罰して」とあるのは、先に尽きることのない赦しが用意されていると言われたことと、矛盾しません。

先述の通り、悔い改めない者、神を侮り、心をかたくなにし、神に反逆することをやめない者こそ、罰すべき者であり主が必ず罰する者です。しかし、悔い改めるなら、赦しは尽きることなく、無限に与えられます。ある時、ペテロがイエス様に、自分に対して罪を犯した者を何度まで赦すべきでしょうか、七度まででしょうか、と尋ねました。それに対してイエス様は「七度まで、などとは言いません。七度を七十倍するまでです」と答えられました(マタイ18:21-22、新約p. 37)。490回という意味ではなく、無限ということです。こう言われた主ご自身も、当然、そのようになさっておられます。だからこそ、私たちも赦しに赦されて、キリストに従う歩みを続けることができるのです。私たちの咎と罪を赦し:モーセが望みを置くのは赦しの一点のみ(8-9節)>この主のことばを聞いたモーセは、すかさず主の前にひれ伏して、申し上げました。すでに主がともにいてくださると、おことばを頂いていましたが、民のかたくなさを知っているモーセは、主は恵み深い方ではあるが、罰すべき者を必ず罰すると言われると、不安になったのでしょうか。再度、とりなさずにはいられませんでした。

「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」この民にも、良いところがあるから、と交渉しているのではありません。確かにこの民はうなじを固くする(=素直に悔い改めない、聞き従わない、心がかたくな)民ですが…、と民の罪深さをそのまま、認めた上で、ただ主が私たちの咎と罪を赦して、ご自身の所有の民としてくださいますように、と乞い願うのです。ただ尽きないあわれみのゆえに、赦しに赦してくださって、あなたの所有の民であらせてくださいと。モーセが拠り所とするのは、神のあわれみのみ。恵みのみ。そして赦しのみ。そこにのみ、訴えます。実際、それ以外にないのです。そしてそこにこそ、救いの確かさがあり、平安があり、そして神の無条件のご愛があるのです。「 われ罪人の 頭なれども 主はわがために 生命を捨てて」新聖歌33番私たちが今、神の子どもとされているのも、赦し以外に、よって立つことのできるものはありません。100%、赦しのゆえにのみ、神の子どもとされています。

絶好調の時も、最悪の時も、私たちが神の子どもであることの根拠は、ただ一つ。キリストを信じることによって与えられる、まったき罪の赦し。これのみです。その赦しが与えられているのは、神が私たちをあわれまずにはいられないほど、愛しておられるからです。クリスチャンはみな、神から母親のようなあわれみを注がれているし、恵みを与えられているし、忍耐して頂いている者です。一言で言うと、愛されている者。無条件に愛されている者です。神の恵みとまことを惜しみなく注がれている者なのです。その、恵みとまことに満ち満ちておられる神の御心の現われが、人となって世に来られた神の御子イエス・キリストです。ヨハネ1:14、新約p. 175ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。