
私たちを御怒りから救うため、キリストは自ら進んで、のろわれた者となってくださった。
有名な「金の子牛事件」の記事です。シナイ山の頂では、これまで25章から前回の31章まで見てきたように、幕屋礼拝について主がモーセに教えていました。愛する同胞が、天地を造られた神、アブラハム、イサク、ヤコブの神を礼拝する神の民とされる!かつて、モーセが召されたとき、思い浮かべたであろう夢のような光景が、いよいよ実現する…。喜びと光栄とに震えながら、モーセは、主が語られるみことばを聞いていたことでしょう。ところが、その神聖な光景は、この32章でガラリと変わります。暗転します。イスラエルの背信 (1-6節)>モーセが山頂に行ってから、40日40夜、経っていました(24:18)。民はしびれを切らしていました。自分たちをエジプトから連れ上った、あのモーセという男がどうなったか、わからないから、我々を導く別の神々を造れ、とアロンに迫ります。こんなところでグズグズしていたら、食べ物も飲み水も尽き、またいつ敵から襲われるかわからない。我々はモーセに見切りをつけて、民心をまとめるために、我々を導くほかの神々を造らなければならない…。神を作る、という発想自体が、一発アウトです。神は天地万物をお造りになった方。
神が人間をお造りになったのであって、人間が神を造るのではありません。人間が造った神ではなく、人間を造った神です。アロンは、モーセがいない間、民を治めるようにと務めを託されていました(24:14)。彼は、これが罪であること、神への背信であることを知っていたはずです。しかし、彼は神よりも人を恐れた。そして罠にかかった(箴言29:25、旧約p. 1133参照)。アロンは、民のその罪の要求に屈してしまいました。神を裏切り、神ご自身を捨てて、ほかの神々を自分たちのために作るという、決定的・致命的な罪を犯してしまいました。アロンは、人々から金の飾り物を供出させ、それで金の子牛の像を造りました。人々はその像を指して「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言って盛り上がると、あとは流されるまま、アロンはその子牛像の前に祭壇を築き、「明日は主への祭りだ」と言い出す始末。古代、異教の祭りは非常に乱れたものだったと言います。エジプトでそういうのを見て知っていたのでしょうか。人々は翌日が来るのを待ちかねて、翌朝早く、全焼のささげ物をささげ、交わりのいけにえを供え、あとは飲めや歌えやの乱痴気騒ぎに興じました。
そこには聖さのかけらもありませんでした。彼らがこのような大きな罪を犯した理由の一つは、待ちきれなかったことです。待ちきれずに失敗してしまった経験、ないでしょうか。神のタイムテーブルは、ときに、私たちが思い描くタイムテーブルと、違うことがあります。私たちは、一日も早く、と思っても、神は数年先、数十年先を考えていたり。神への信頼と、忍耐が求められます。神の御怒りとモーセのとりなし(7-14節)>場面は再び、山頂。主は、その民のありさまをモーセに伝えました。悲痛な7節の主のことばをご覧ください。「【主】はモーセに言われた。『さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。…』」民の言い草をそのまま「あなたがエジプトの地から連れ上った」と言い、そして「あなたの民は」と仰っています。これまでは「わたしの民」と呼んでいたのに。もう彼らを、わたしの民とは呼びたくない、そんな主のお心がうかがわれるようです。これまで彼らに真実を尽くしてきたのに、彼ら自ら、主の民であることを捨てて、ほかの神々の民になることを選んだのですから。
9節「うなじを固くする」とは、馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことで、これは彼らの心がかたくなで、まったく神の言うことをきかない、聞こうとしない様子を表します。かわいさ余って、憎さ百倍と言います。神は、民を愛していればこそ、その背信に怒りを燃やします。主は、彼らを断ち滅ぼすと言われました。しかし、モーセに対しては、彼を大いなる国民とすると言われました。アブラハム一人から、星の数のような民を作り出したように、モーセ一人から多くの民を作り出そうというのです。しかし、モーセはそれには耳を貸さずに、ひたすら民のためにとりなします。もともと、モーセという人は、自分が王宮で何不自由なく暮らしていたのに、同胞のイスラエル人が虐げられているのを見て、我慢できず、王宮の生活を捨ててでも、同胞を助けようとした人です。自分さえよければ、という人間ではありません。その彼の本質は変わっていませんでした。彼は主に嘆願して言いました。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。」
主よ、あなたがエジプトの地から連れ上った、ご自分の民ではありませんか、と先に主が言われたことを訂正します。さらに、そんなことをしたら、主はイスラエルの民を滅ぼすために、悪意をもってエジプトから連れ出したのだ、という悪評が立ちます。そんなことを言わせていいのでしょうか、と神の栄光に訴えます。さらに、13節では、彼らの先祖アブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブのこと)に対して、ご自分にかけて誓って、彼らに、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ」と言われたではありませんか、と神が彼らと結んだ約束に訴えます。神は真実な方、約束を破ることなど、おできになるはずがありません、と。神と人との間に繰り広げられるドラマです。主はモーセのとりなしを受けて、彼らに下すと言ったわざわいを思い直されました。まだ赦したわけではありません。ひとまず、わざわいを下すのを思い直したということです。ここでは、モーセの崇高な姿を心に留めたいと思います。
神に対して不従順で不誠実な民に見切りをつけて、モーセの子孫を祝福すると言われても、それには耳を貸さず、ひたすら懸命に愛する同胞のためにとりなしをするモーセの姿です。民の背信に怒りを燃やし、徹底的なさばきを断行するモーセ(15-29節)>ひとまず、主に思いとどまっていただいたモーセは、クルリと向きを変えて山を降りました。彼の手には、神ご自身が造られた石の板に、神ご自身が書かれたという、二枚のさとしの板がありました。十戒が書かれていただろうと言われます。途中、後継者のヨシュアが控えていました。彼は40日40夜、そこでモーセを待っていました。いっしょにふもとに近付くと、何やら民が大声で叫んでいるのが聞こえます。ヨシュアは、これを戦の声と思いました。しかしモーセは言いました。「あれは勝利を叫ぶ声でも、敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」そして宿営に近付いて、子牛像と、そのまわりで行われていた、いかがわしい踊りを見るなり、モーセの怒りは沸点に達しました。手にしていた、あの二枚の板を投げ捨て、砕きました。そして金の子牛を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき、人々に飲ませました。
火で焼いたとあるので、金の子牛の像は、木で作ったものの上に金をかぶせたのでしょうか。偶像を破砕したゴミ入りの水を飲ませたというのは、彼らに、自分が行った罪の結果を自分で味わうようにさせるためでしょうか。ついでモーセは、アロンを問いただします。アロンは、民が悪いことはあなたも知っているでしょう、と言い、カクカクシカジカ、と事情を説明しますが、言い訳ばかりで、自分が罪を犯したと認めません。とりわけ、最後の24節の言い草はどうでしょう。民が金を自分によこしたので、それを火に投げ入れたら、なんと、この金の子牛が出て来た、とまるで奇跡であるかのようにはぐらかしています。自分が作ったのではなくて、火に投げ入れたら、これが出て来た、ととぼけているのです。しかし神の目はだませません。4節にちゃんと「のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした」と記しています。モーセは民が乱れ、アロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、さばきを断行します。唐突に「敵」と出てきますが、これは周囲の部族と取るものもありますが、霊的な敵、サタンのことかもしれません。ともかく、主の民が、敵の物笑いになったままでいるわけにはいきません。
これはちょっとやそっとの懲らしめではダメだと見て取るや、荒療治を決行します。もしかしたら、この期に及んでもまだ、乱れた行いにふけっていた者たちがいたのでしょうか。それらの者たちを、たとえ自分の兄弟、友、隣人であっても、剣をもって取り除くという裁きを命じました。その日、当時、200万人とも言われるイスラエルの民のうち、約三千人が剣で倒れました。神の民の中に聖さがなくなれば、民全体が腐敗して、死に至ってしまう。断腸の思いでのさばきでした。一方では、自分の祝福に見向きもせず、民のために必死に執り成したモーセは、他方では、民にこのように厳しくさばきを行って、きよさを保とうとしたのでした。こんにち、これと同じことはすることは、もちろん、ありませんが、教会は神の民の聖さを守るために、戒規を執行します。それは、厳しいことですが、神の民のいのちを守るために、しなければならないものです。ただ、戒規の場合は、戒規を行われた当人の悔い改めを願ってなされるという面もあります。モーセの、いのちと引き換えのとりなし(30-35節)>さて、これだけのことをして、モーセは再度、主の御前に出て、民のために赦しを乞います。
これほどの大きな罪を、神は赦してくださるだろうか。しかし神は恵み深く、憐れみ深い方。もしかしたら、赦して頂けるかもしれない…。主を良く知るモーセは、あきらめずに主の前に出ます。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。」罪を犯したときは、まず、罪の告白です。当然です。そして暗黒の章の中で一等星のごとく輝く32節。「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」ここの「書物」とは、いのちの書のことでしょう。この書に名前が記されているなら、救われるという。モーセは、自分が救いから除外されることと引き換えにでも、民の赦しを乞うているのです。一方では、民に鬼のような形相で厳しい裁きを断行したモーセは、裏では彼らのために、自らが神から断ち切られて、滅びに至る覚悟さえ、していました。神はこのモーセの申し出に対して、誰であれ、神の前に罪ある者が、神の書物から消されると答えられました。ここの「罪」は神の書物から消されるに値するほどの罪ということでしょう。
人間に過ぎない者に、誰かほかの人の罪を背負って犠牲になることはできません。しかし、ひとまず、今は約束の地を目指して、旅を続けよ、と言われました。そのために、使いも遣わすとも。ただし、神が報いる日に、神は彼らにその罪の報いをされるとも。「 わがため悩める 神の御子を 」新聖歌230番モーセが民のために「私の名を消し去ってください」と願ったことは、退けられました。それができるのは、罪なきお方だけです。モーセと言えども、罪がないわけではありません。ただ罪なき神の御子イエス・キリストが、私たちに罪の赦しをもたらすために、自ら進んで、私たちの身代わりに十字架にかかり、神にのろわれた者となってくださいました。ガラテヤ書 3:13、新約p. 378キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。木にかけられた者とは、十字架にかけられた者のことです。十字架は、神に呪われたことを表すのです。私たちのために、のろわれた者とさえ、なってくださった生ける神の御子キリストをよく思いめぐらし、心からあがめ、ほめたたえましょう。