礼拝説教要旨 2023年11月19日
嘆き悲しみ
(出エジプト記 33:1~16)
今日の要点

主ご自身を愛し、慕い、主ご自身の臨在を求めることから、それないように。

はじめに

「金の子牛事件」の続きです。ほんの40日前に、主なる神とイスラエルの民は契約を結び、主は彼らの神となり、彼らは主の民となるという契りを結んだばかりなのに、彼らは神を捨てて、自分たちのために金の子牛の像を作り、これが我々の神だ、とやってしまいました。聖書では、神と民の関係は、夫婦の関係に例えられます。これは、結婚の誓約をしてまもなく、真実に愛する夫を捨てて、妻が不倫に走ったようなものです。自分から、関係を壊す背信行為です。この民の裏切りにより、神との契約は無効になりました。それだけでなく、かわいさ余って憎さ百倍、主は彼らを愛すればこそ、その不貞行為に対して怒りを燃やし、彼らを滅ぼすとさえ、言われました。もっとも、それはモーセの、彼らのために熱心にとりなす姿を引き出すために言われたのではないか、とも思われるのですが。事実、モーセの命がけのとりなしによって、主は彼らに対するさばきを思いとどまり、彼らをとにかく約束した地へ導くように、と言われました。約束の地へは行けても、主なる神の不在を嘆き悲しむ民 (1-6節)>主なる神は、再度、モーセに民を約束の地へ導き上れと命じられます。

しかしよく見るとまだ「あなたがエジプトの地から連れ上った民」(1節)と突き放した言い方です。愛する民の裏切りに傷ついた神のお心は、そう簡単には癒されないということでしょうか。そして、今、目の前にいる背信の民のゆえでは決してなく、ただ彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って「この地をあなたの子孫に与える」と約束したので、彼らのゆえに、民を約束の地に連れていくと言われます。しかし、そこは「乳と蜜の流れる地」(3節)、すなわち、放牧にも耕作にも適した豊かな地です。物質的には恵まれた、バラ色の生活が期待できます。しかし、しかし、です。主ご自身は、彼らと一緒には行かないと仰るのです。「しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。…」(3節)彼らがあまりにも、主に逆らい、従う気がなく、かたくななまでに反抗的なので、一緒にいて彼らを滅ぼしてしまわないようにと。一見、厳しい主のことばですが、それも主に対する反抗、不従順がいかに罪深く、御怒りを買うものであるか、彼らが身に染みてわかってくれるようにとの、親心でしょうか。モーセはこのことを民に告げました。そして、それを聞いた民の反応が4節。

「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。」これです。この嘆き悲しむ彼らの姿こそ、神のみこころにかなったものでした。その嘆き悲しみをあらわすために、彼らは飾り物を身から取りはずしました。その悔い改めの仕方も、主が前もってモーセを通して教えていた通りでした(5節)。そうしたら、これからどうするか、考えようと主は仰いました。そして民は、その通りに従ったのでした。しおらしく。ところで、彼らは何を嘆き悲しんだのでしょう。約束の地は与えると言われました。そのために一人の使いを遣わして、彼らを守ってくれるとも。しかも、その約束の地は、何不自由ない、豊かな生活が待っているのです。何を嘆く必要があるのでしょう。彼らは、主なる神ご自身が、彼らとともに上ってくださらないことを嘆いたのです。主が、彼らの中には住んでくださらないことを悲しんだのです。主の不在を嘆き悲しんだのです。あたかも、約束の地に入れてもらっても、主が私たちのただ中に、ともにいてくださらないなら、意味がない、喜べない、と言うかのように。私たちは、どうでしょう。

別に神がともにいなくても、祝福された生活が約束されるなら、いいじゃないか、と思わないでしょうか。もしそう思ってしまうとしたら、神はさびしい思いをなさることでしょう。あなたが求めるのは、結局、わたしが与える祝福だけなのか。わたし自身ではないのか。あなたの心は、わたし自身と結びついていないのか。わたしを愛してはいないのか、と。人間にとって、本当の祝福とは、何だったでしょう。それは、神ご自身が、私たちとともにいてくださることです。アダムとエバが最初に罪を犯したときに失ったのは、その祝福であり、キリストが回復してくださったのも、その祝福です。キリストは「インマヌエル」と呼ばれます。「神が私たちとともにおられる」という意味です。神ご自身が、私たちとともにいてくださるという祝福。これが、人が本来、神から頂いている真の祝福であり、またその他のすべての祝福の源です。あらゆる良きものは、神から来るのですから。マタイ6:33、新約p. 957まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。神の国とは、神の支配のことです。神が私たちの生活をご支配くださることは、何と幸いなことでしょう。

それは義に立っていますが、堅苦しいのではなく、恵みに満ちたものであり、平和と喜びと神の臨在のある生活です。へりくだって、神のみことばに従う用意のある人には、神は、誰にでも喜んで与えてくださいます(ルカ12:32、新約p. 142)。私たちの生活に神の国が到来することを切望して、私たちの内に住まれる聖霊の力に信頼し、神のみことばに熱心に従いましょう。そこに神が、一層親しく住まわれることでしょう。モーセの三度目のとりなし。主は再び、彼らとともに住まれる(7-16節)>さて、その頃、モーセは人々が宿営しているところから少し離れたところに天幕(テントのようなもの)を張り、そこを主とお会いするための場所として「会見の天幕」と呼んでいました。本来、主がお会いくださる天幕は、宿営の中に置かれて、そこを中心にイスラエルの十二部族が取り囲むような形で宿営を張るのですが、今は主は彼らのただ中には住まわれず、離れたところに会見の天幕を張っておられました。距離を取っていたのです。そこに入れるのは、モーセただ一人でした。民に対して怒っておられる主が、ただ一人、モーセだけを受け入れて、モーセとのみ、語ってくださいます。

民の望みは、モーセ一人にかかっていました。それで、モーセが会見の天幕に出て行くときは、民はみな、自分の天幕の入り口に立って、息をのんで、モーセが会見の天幕に入るのを見守りました。そしてモーセが天幕に入ると、主の臨在を表す雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、そこでモーセと語られたと言います。そのとき、雲の柱が入口に立つのを見ると、民はみな、自分の天幕の入り口で伏し拝みました。緊張の瞬間だったでしょう。しかし主は、モーセとは、友と語るように、顔と顔を合わせて語られたと言います(11節)。と言っても、20節に、人は誰も主の顔を見ることはできないとあるので、実際に顔を合わせたわけではなく、それほど親しく語られたという意味と思われます。そこで、モーセは、主がどうするか、考えようと仰ったまま、その後の指示がないので、大胆にも主をせっつきました。主よ、あなたは私に、民を連れ上れと言われ、一人の使いを遣わすと仰いましたが、まだ誰を一緒に遣わすかを教えてくださいません、と。そして自分が主からご好意を頂いているのを足がかりに、またも民のためにとりなしをします。自分のために何かを願うのでなく。どこまでも、どこを切っても、モーセです。

あなたは、私を名指して選び出し、私を特にあなたのみこころにかなっていると仰ってくださいましたから、どうか、私にあなたの道を教えてください、と訴えます。使いを遣わしてくださらないのでしたら、私が彼らを導きますから、私に必要なすべてのことを教えてください、というのでしょうか。主はここでついに「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と言われました。そこまで言うか、モーセよ。しかしあなた一人にこの重荷を負わせるわけにはいかない。私自身が一緒に行って、あなたを休ませよう、と。待望のおことばです。主がともにいてくださる!そこですかさず、モーセは本心をぶつけました。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから連れ上らないでください…」主がともにおられないなら、カナンの豊かな土地も、何の意味があるのでしょうか、と言わんばかりです。イスラエルの民が、神抜きで自分たちの国を造ることではなく、彼らが主とともに生きるようになることが、モーセの切なる願いだったのです。モーセは神の国を切望していたのです。続けて、私とあなたの民がーモーセは民と一体化していますーみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるでしょう。

それは、あなたがこれまでのように私たちと一緒に行き、他の民と区別して、特別に扱われることによるのではないでしょうか…。神がご自身の民によって、栄光をあらわされることを願っていたのでしょう。それにしても、最初、神はモーセに「今は、わたしにまかせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ」(32:10)と言われたのが、モーセの執念のとりなしが実って、今は「わたし自身が一緒に行って、あなたを休ませよう。」と言われました。とりなしの力の絶大なこと。モーセのとりなしは段階を踏んで、第一は徹底的な破滅からの救い、第二は約束の地を与えられることの確認、第三は主の臨在同行の約束、と一つ一つ勝ち取っていきました。モーセの粘り勝ち。いや、主はこの熱心にとりなすモーセの姿を引き出すために、このようなやりとりをされたのでしょうか。モーセの姿をご覧になって、主もまた「モーセよ。よくぞ、そこまで熱心にとりなしてくれた」とうなづかれたのかもしれません。このモーセの姿には、キリストの姿が透かし模様のように描かれています。私たちも、身近な人のために、熱心にとりなしの祈りをささげる者でありたいものです。

「 キリストには代えられません 世の何物も 」新聖歌428番神は、幕屋造営の指示の最初に言われました。「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)。またその終わりにも言われました。「わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者である。」(29:46)。神の方は、ご自身の民とともに住むことを、心待ちにしておられたのです。そのためにエジプトから連れ上り、そのために長々と幕屋の指示をモーセに与えて来たのです。いや、そもそも世のはじめから、神は人とともに住むために、この世界を造られました。神の方は、私たちをどれほど慕っておられることか。それに比べて、私たちの方は、どれほど神に対してつれない態度をとってきたか。せいぜい神がくださる祝福を求めるばかりで、神ご自身をどれほど慕い求めていたか、などということも、今日の個所から探られるのです。神は私たちとともにいつまでも済むことができるために、御子を救い主としてお遣わしくださり、十字架にまで渡してくださいました。

御子はそのために、ご自分から進んで、私たちの罪を身代わりに背負い、私たちの盾となり、壁となって、私たちが受けるべき刑罰を受けてくださいました。そのゆえに、神は私たちを赦すことがおできになり、受け入れることがおできになりました。神の方が、私たちとともに住む道を開いてくださったのです。大きな犠牲を払って。それほどに神に愛されていることを、ゆめゆめ忘れることなど、ありませんように。むしろ、詩篇27:4、旧約p. 957の詩人の心に私たちの心も合わせることができたら、と願いたい。一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。キリストにあらわされている、主の麗しさを心の目を開いて、よく見つめ、思い巡らして、主をお慕いする心を育ませて頂きたいと願います。