礼拝説教要旨 2023年11月5日
何度でも、聖別して下さる主
(出エジプト記 31:1~18)
今日の要点

主のみこころを実現するために、主は賜物を与えられる。私たちがきよめられるのは、主のわざ。主が何度でも、洗いきよめ、聖別してくださる。

はじめに

前の章までで、幕屋礼拝のために必要なすべてのものがモーセに示されました。しかしいくら設計図や仕様書きがあっても、その通りに作れる人がいないと、それこそ、絵に描いた餅です。これまでザッと見てきた通り、これらを作るのには、とても高度な技術と芸術性が必要でした。これまで奴隷としてエジプトでレンガ作りをさせられてきた彼らに、果たしてそれを作ることができるのか…。聞いていて、モーセも心配になったかもしれません。しかし神にぬかりはありません。神はこれらを作ることのできる人物を備えておられたのです。神が御心を行われるとき、計画倒れになることはなく、それを実行できる賜物を与え、成し遂げられます。主はご自身の民に賜物を与える:みこころを実現するために (1-11節)>主は最初に総監督を指名しました。モーセとは別にこの務めのための人を立てて、役割分担するのです。主にあって一致して、役割分担する。これは教会を建て上げるときの大原則です。ここではユダ部族のフルの子ウリの子ベツァルエルという人が名指しで指名されました。彼に「知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした」とあります。それは、金や銀や青銅の細工に意匠(デザイン)を凝らすため。

これまで見た幕屋の備品には、金や銀や青銅の飾りがありましたが、具体的にどういうデザインかまではモーセには示されていませんでした。それはベツァルエルの役割だったのです。大祭司の胸当てや肩当てにはめ込む宝石に12部族の名前を彫るのも、高度な技術が必要でした。以前、見たように、めのうはナイフでひっかいても傷がつかない硬度のあるもので、そこに12部族の名前を彫るのは高度な技術が必要だったでしょうが、それほど固いものだからこそ、彫った文字が崩れず、摩耗せず、いつまでも消えない。それで12部族の名前がいつまでも残り、主に覚えられることを表しました。その他、木の彫刻も含めて、あらゆる仕事をするために必要な知恵を、神の霊によって与えました。彼のもとに、補佐としてダン部族のアヒサマクの子オホリアブも主によって指名されました(6節)。ダン部族は小さな部族でしたが、そこからも民の上に立つ人が立てられました。そしてその他、大勢の人々がこの働きのための知恵を与えられます。「わたしは、すべて心に知恵のある者の心に知恵を授ける」とは、持っている人は、さらに与えられるというイエス様のみことばとも符合するでしょうか。

走るのが好きな人は、いっぱい走って、ますます走るための筋肉が強くなるように、何かに秀でた人は、それを喜んで用いることによってさらに新しいことを吸収し、熟練し、成長するのでしょう。その賜物を用いて作るものが7節以下11節まで、ズラリとリストアップされています。これまで一つ一つ見て来たものです。幕屋、あかしの箱、その上の「宥めの蓋」(第三版では「贖いのふた」)等々、幕屋の備品、庭にある祭壇、洗盤、それに関係する道具など、そして目を見張る美しさだったに違いない大祭司の衣裳に、祭司たちの衣裳。はたまた調合に高度な技術が必要だった香と香油。これらをすべて、主が命じた通りに作らなければなりませんでした(11節)。ですから、具体的な作業、工程、技術にも、神の霊が臨んで、どんな間違いも入り込まないよう、守られたのでしょう。ちなみに、これは幕屋を作るという特別な場合であって、私たちが普段、行う奉仕は完全ということは、残念ながらないのだと思います。私たちは不完全な者であり、誠心誠意、奉仕してもミスもあるでしょう。けれども、それらもすべてキリストによってきよめられて、神に受け入れられます。

完全でなければ、奉仕できないなどと考えてやらないより、すべてを主に委ねて主のために何かしたいという心があるなら、積極的にする方が、主に喜ばれるでしょう。主は、精一杯やってもしてしまうミスに目くじら立てる方ではなく、10の内1しかできなくても、その1を大切に受け取って高く上げ、喜び、私たちを励ましてくださる方です。大切なのは、主に喜ばれたい、主にお仕えしたいという、その心です。ペテロの手紙第一4:10-11、新約p. 4704:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。4:11 語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。ところで、ここで一つだけ、奉仕に関して教会のあり方について、私の考えを書かせて頂きたいと思います。私の考えと言いつつ、清水武夫先生から教えて頂いたことですが、教会には二つの中心があると考えます。楕円に二つの焦点があるように。

一方は、何もできなくても、いてくれるだけでいい。Beingの尊さを表わす円。何かをする前に癒しが必要な人もいます。また何かの事情で何かをすることが難しい場合もあるでしょう。でも何も奉仕ができないからと言って、小さくなる必要はまったくありません。私たちはキリストにあって、みな、神の目に宝石のように尊い存在です。何かができるから尊いのではありません。存在そのものが主の目に尊いのです。主が尊いと見られるのです。そのひとのためにも、主は十字架にかかってくださったのです。それともう一つの中心は、主のために奉仕をしたい、仕えたいという人が、賜物を用いて喜んで仕えるということ。doingを表す円。主は、私たちが主に仕えるため、また互いに仕えるために、互いの益となるために、賜物を与えておられるのですから、その賜物をもって仕えるのは、主のみこころです。怠惰から、あるいは失敗を恐れて、賜物を眠らせておくことはむしろ、戒められています。主が与えた賜物は、愛の原則に基づいて、大いに用いるべきです。賜物は、誇るためではなく、仕えるために与えられているからです。そして大切なことは、この二つの中心が、お互いがお互いを裁きあわないことです。

教会はそういう所だとよく理解して、お互いに心から受け入れ合い、尊びあうことです。それが、キリストを中心とした交わりの一面なのだと思います。以上、神は賜物をご自身の民に与えて、みこころを行われることを教えられます。賜物は、すべて神のみこころを行うために与えられるのであって、自分が誇るためではありません。私たちも、何かをさせて頂くときに、ただ主の御心が成し遂げられ、神の栄光が現れることを喜ぶ者でありたいものです。また自分でなくほかの人が活躍するときにも、主のみこころが行われ、神の栄光が現れることを喜ぶ者でありたいものです。安息日を守ることを命じる主:繰り返し民を聖別するため (12-18節)>ここは、安息日厳守を命じています。十戒の第四戒です。これまでも何度か、語られていました。それだけ繰り返し、言う必要があったということでしょうか。ここではかなり厳しく命じています。幕屋は、神を礼拝するために特別に取り分けられた「場所」ですが、安息日は、神を礼拝するために特別に取り分けられた「日」です。

新約の時代の今は、神を礼拝するための特別な場所というのはありませんが、週の初めの日は神を礼拝するために聖別して、こうして今、みなさんが礼拝しているわけです。これは、神の民の大切なあり方です。旧約の時代は、これが神とその民との間のしるしとされました(13節)。これを守っていることが、神の民であることのしるしということです。安息日を守ってさえいれば、それでいいというわけではありませんが、特別な事情がない限り、最低限、求められたということでしょう。なぜ、安息日を守ることを、主はそれほど求められるのか。それほど大切なのか。その理由がその続きに記されています。「わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。」主が、安息日を定めた目的は、主が彼らを聖別する方であることを知るため、というのです。ただ単に彼らを聖別するため、というより、主が彼らを聖別するお方であると知るため。主がそういうお方だと知るためというのです。もう少し詳しく見てみましょう。ここの「聖別する」という動詞は、ヘブル語のピエル形という語形で、これは激しい動作、または反復動作を表します。

ここでは安息日ごとに繰り返されるわけですから、反復を表すのでしょう。つまり、主はご自身の民を、安息日ごとに呼び集めて、繰り返し繰り返し、彼らの罪を洗い流し、罪の赦しを覚えさせ、主への献身の思いを起こさせるのです。おそらく、安息日には幕屋に来て、一般民衆は外庭までしか入れませんでしたが、それでも入ってすぐのところにデーンと据えられた大きな祭壇のところに行き、そこで絶えず捧げられている全焼のいけにえを見ては、罪の赦しと主への献身の思いを新たにする。それを毎週、毎週、繰り返すことによって、彼らを神の民として聖別してくださるというのです。彼らの罪と汚れをそのままにしておかない。ほったらかしにしない。彼らをちゃんと洗い清めて、聖なるものとしてくださる。主なる神は、そういうお方であることを、彼らが知るために、安息日を定められたというのです。彼らを聖別せずにはおかない神の愛を知るため、彼らがそんな風に神に愛されていることを知るため、神はそんな風に彼らを愛しておられることを彼らが知るため。中心にあるのは、神と人との人格的な関係なのだと思われます。「 罪汚れは いや増すとも 主の恵みもまた いや増すなり 」新聖歌376番

モーセの時代、安息日ごとに民を幕屋礼拝へ招き、というより厳しく命じてでも、御前に来させ、毎週、何度でも繰り返し、飽くことなく、彼らを洗いきよめ、ご自身の宝の民として聖別しようとされた主は、今も変わらず、私たちを御前に招いて、何度でも、繰り返し繰り返し、飽くことなく、私たちを洗いきよめ、聖別してくださるお方です。週日、御前からフラフラと世に流れ出そうな私たち、転び、穴に落ち込み、罪と汚れを負ってしまう私たちを、何度でも何度でも、御前に集め、キリストが流してくださった十字架の血潮によって、私たちをきよめ、私たちの良心を洗いきよめてくださいます。みことばと御霊によって、私たちを罪の力からきよめ、御子イエス様の似姿に造り変えてくださいます。失敗に次ぐ失敗に嫌気がさし、投げ出したくなる時にも、「あなたをきよめるのは、わたしだ。自分の力できよまるのではない。わたしはあなたを決して見捨てない。わたしに、ただわたしに信頼して、わたしに従う歩みを続けなさい。」と励ましてくださいます。どこまでも尽きざる忍耐をもって、私たちをご自身のものとして何度でも聖別し直してくださいます。そしてご自身の宝として磨き上げてくださいます。

第二コリント3:18、新約p. 359私たちはみな、…鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。もちろん、地上にいる間、誰も、完全にきよくなどなれないのです。しかし主はわたしたちを何度でも洗って、きよめてくださる。親が、毎日、赤ちゃんのシモのお世話をするように。主は、聖なる方でありつつ、忍耐強く、私たちを何度でも洗いきよめてくださる。聖別し直してくださる。愛には忍耐がつきものなのです。その神の、親のようなご愛を知ることができますように。今日この後、持たれる聖餐式においても、その、私たちをきよめ、聖別してくださるために、自ら進んで十字架にかかり、血を流してくださったお方を、親しく覚えることができますように。