
クリスチャンのドクターで何人も看取りをしている先生がおっしゃいました。「生きざま」が「死にざま」に反映されると例えば、ベタベタと生きてきた人は、ベタベタと死に、シャキッと生きてきた人は、シャキッと死んでゆくそうです。みなさんはどうでしょうかわたしはベタベタ派だと思います。生き方と死に方は正比例すると何人も事例から感想をのべられましたイエス様の受難と死の直前の様子は、どうだったでしょうか。今日は受難週ではないのですがみなさんと一緒に十字架にかけられる前後、絶命なさるまでの姿を考えていきたいと思います。1,社会的苦難2,精神的苦難3,肉体的苦難4,霊的苦難苦難を味わわれました。a,裁判長の無罪判決:「あの人には死に当たる罪は、何も見つからない。懲らしめたうえで釈放します」(ルカ23:22)。当時の裁判長はそういっています当時、「生殺与奪」の権威を持つのは、イスラエルを支配しているローマ帝国です。裁判の最終判決を下すのは総督ピラトでした最高裁判所の長官が無罪を宣告しましたしかし民衆は「バラバを赦し、イエスを十字架につけろ」と叫んだのです。そして、ついにその声が勝った(ルカ23:23)。
裁判長の無罪判決を無視して、イエスの死刑は強行されました。政治家もある意味人気商売です。民衆からの支持をうけなければうまくおさめていくことができませんイエス様の苦難はここからはじまりました。b,自由と解放を祝う祭日本でいうお正月ですユダヤ人の新年を祝う「お正月」のめでたい時でもあります(出エジプト12:2)。ですから恩赦が与えられる可能性がある。だからバラバは赦されたのです自由と開放を約束するおめでたいお正月の中でイエス様はなくなっていくわけですc,徹夜の裁判:旧約聖書の律法に「朝ごとに、正しいさばきを行なえ」(エレミヤ21:12)とあります。エレミヤ書21章12節ダビデの家よ、【主】はこう言われる。朝ごとに、公正にさばきを行い、かすめられている者を、虐げる者の手から救い出せ。と書いてあります。夜 裁判をやってはだめなのです朝毎に 闇夜がもたらす暗闇の中で裁判をやってはだめです夜は、闇と暗黒が支配する時でもあり、夜間の裁判は行われません。しかしイエスの裁判はどうだったでしょうかイエスは、祭司アンナス→大祭司カヤパ→ピラト総督→ヘロデ王→ピラト総督の順番で一晩中ですたらい回しにされ、一睡もできなかったのです。
裁判長が無罪と言っているにもかかわらず、朝毎に裁判をしなさいと言っているにも関わらず徹夜の裁判が強硬されたのですこういう図面をみたことがありますか?いまでもこの真理は不変です目かくし。手に天秤。手に剣。この三つの象徴人を外見で判断しない。身分によってさじ加減をしてはダメですよ、と目隠ししている被告側と告訴側の意見をしっかりと聞いて正しい判断をくだす。真理はふたつあるわけではないそういう意味が天秤であります正義を犯すものには剣がともないますイエス様の裁判は剣だけが強調された裁判でした。イエス様に弁護人がついていないです。イエス様は自己弁護をしていないです。まことの裁き主である神様に最終判断を任されました。私たち人間はイエス様を暗黒裁判にかけてしまったのです。2,精神的苦難魂への苦痛 これのほうが人間にはきくんです弟子のうちの二人がイエス様を裏切りました。釈迦が涅槃に旅立つときとは対照的であると教えられます。釈迦が涅槃に旅立とうとするとき 時ならぬ花がさきいい香りがしてきれいな花 蝶が集まっている弟子たちもその旅立ちを見守ったとあります。イエス様は全く違いました。
信頼していた・三年間一緒に寝泊りしていた弟子たちがイエス様の周りからいなくなった。本当に心の拠り所 家族です最終的に頼りになるのは友人・知人・弟子たちでしたがイエス様は裏切られた。民衆からの嘲笑 まるで道化師のような恰好をさせられて侮辱を受けた:「いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた」(マタイ27:29)。これを先導したのは時の権力者です彼らはなぜイエスを十字架につけようとしたのでしょうねたみ と書いてあります。嫉妬心です。妬み という漢字女偏に石と書きます。旧約聖書・新約聖書を見ると嫉妬心によって人が殺されます。カインはアベルを嫉妬しました。ヨセフのお兄さんたちはヨセフをねたみました。サウル王はダビデに嫉妬したのです。イエス様は権力者たちからねたまれたんです。ナザレ村の大工のせがれが旧約聖書の教えを解き明かし奇蹟のみわざを行う。年長者が青年のイエスをねたむのです。アメリカで大活躍している大谷選手を妬むひとはいませんあこがれになるんですね。しかし自分の同級生・同期生が自分よりも人気がでる・称賛されると妬みがでてくるのです聖書に関しては女偏をやめて男片にしたほうがあっていますね。
下着をはく奪されて十字架につけられたと書いてあります。今みたいに2ピースではなくワンピースでした。生まれたままの姿で十字架につけられたわけです小学校六年生の時 悪ガキでありましたので友達と二人で大切な花瓶を割っちゃいました。水浸しになりました。先生から厳しくしかられバケツをもって廊下にたたされました。休み時間になると廊下の前を何人も通っていきます。通り過ぎてから笑うんです。目から火が出る 耳たぶが真っ赤になっている自分がいるんです自尊心をズタズタにされ辱めをうけるイエス様がそのような扱いをうけたわけです。3,肉体的苦難屈強なローマ兵がユダヤ人の大工の背中に鞭打つのです当時の鞭は何本も先が分かれていて金属がついているのだそうです。それで背中を思いきりたたかれるのです。数回たたかれると水膨れになる。もっとたたかれると鮮血がほとばしるのです。イエス様は背中がズタズタになっていたので十字架を背負うことができなかったんです。本当に律法違反 人々から妬みをうけて屈辱的なしうちをされて聖書の中に死刑方法がひとつだけでてきます。ステパノがそれで殺されました。石打ちの刑です。ユダヤ人はイエス様を十字架につけろといったのです。
十字架刑は人間が考え出す最高の痛み屈辱的な苦しみを伴う非人間的な処刑方法です。なにも飲まず食わずくぎをうたれ三本の釘で死ぬまで放置されるわけであります。一週間から十日くらい生きているようです。みなさんは自分の皮膚の下にある骨を見たことがある人いますか?歯も骨ですがそうではなくて皮膚の下に隠れている骨がどんな色か見たことがある人いますか?私は24歳の時 神学生の奉仕をしているときに大きな教会でしたので土曜日から人が泊まって輪転機という印刷機があります。あるとき印刷していたら 紙がはさまってぬけなくなりなおそうとしたスイッチを逆転するとモーターが反対に回るのでわたしはそれで紙を抜おうとしたのですが うまくいかなかったんです。引っ張り出そうとしてスイッチをいれたらあっという間に 指がまきこまれて大変です。今度は逆回転して 周りの人に手伝ってもらって印刷機からぬいたわけです。右手の薬指の根元が白くなったのです裂けているんです自分の骨をみたのはあれがはじめてで最後です。真っ白なんです びっくりするくらい。この世のさらしのプロがどれだけかかろうとも本当に白いんです。血が白い骨の上にうっすらかぶさって ピンク色になっているんです
すぐに病院に行かれまして傷口を消毒して縫うことになりました。いまから針と糸で縫うから抑えておいてくれと。他の人に手首を抑えられて根元に麻酔薬を打つんです。その注射がとびあがるような痛さでイエス様の背中はそれどころじゃあないですよね。精神的な屈辱とともに肉体的な痛みを伴っていくわけです。4,霊的苦難「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。イエスは父なる神からも見放され、見捨てられたのです。イエス様は十字架につけられて3時ころ叫ばれたのです。父なる神はそれをよしとしたのです「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた」(マルコ15:33)とあります。天も御子イエスを見捨てたのです。暗黒の時が三時間続くわけであります。昼間であるにもかかわらず、その近辺は暗黒に包まれました。「子よ赦せ。こうせねば、人類の救いの道は開けなかったのだ」父なる神の悲痛な呻き声が暗黒の黒い雲のむこうから聞こえるようです。十字架は神の怒りの避雷針でしょう昨日も今日も雷がなっていました。天からの激しい電流をその身に受けて、その電流を地面に流すその元にいる者は感電死から免れます。
それが避雷針の役目であります十字架はまさに、神の怒りの避雷針です。私たちが礼拝を守るのは イエス様を信じ こころに受け入れイエス様がわたしの身代わりとして十字架にかかってくださったこれが真理であります。このメッセージが聖書の中で一番いいたいこと福音であります。イエスは死の間際に、社会的、精神的、肉体的、霊的な苦難を受けました。耐え抜いたお方でありますわたしたちの罪をその身に背負い、人の身代わりに罰をその身に受けたのです。それ故にイエスを信じる者は罪に定められることはない「人類の救済の道」を完成した瞬間でありましたこれらを聞くと、何かキリストの苦しみが少し分かったかのように思うでしょう。しかし、実際はイエスの受難の千分の一、万分の一も分かってはいないのです。また逆にイエスの苦難と激痛と十字架刑の残酷さの中でも、スコーンと抜ける明るさや、爽快感すら感じられます。イエス様の使命・役割、見事に歩まれたそれは、隣の強盗が信仰告白した新しい命 復活のいのちをもってイースターをむかえることを私たちは知っています。主は、ベタベタではなく、シャキッと地上の人生の最後の幕を下ろされたのです。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(1ペテロ2:22~24)。