
天の父なる神は、私たちが御前に来て、祈りの交わりをもつことを望んでおられる。
この30章は、最初1—10節で香をささげるための祭壇について記されていました。そしてこの30章の終りには、香そのものの作り方について記されます。天に立ち上る香は、祈りを表しています。30章は、祈りに始まり、祈りで終わるというわけです。宗教改革者のカルヴァンは、「神を呼び求めること(=祈ること)こそ、神礼拝における最高の要点である」と言っています。何の道具もいらない、最も単純な行為でありながら、多くの人々から遠ざけられていること。しかし、神が最も望んでおられること。祈り。教会学校の子どもから、信仰歴何十年という老聖徒まで、また金持ちも貧乏人も関係なく、学者も無学である者も関係なく、みながささげることができるもの。往々にして子どもの祈りの方が純粋で、率直で、神に喜ばれるものかもしれない、そんな祈りについての学びです。香の材料:4種類の香を調合する (34-35節)>最初に原料となる4種類の香料が記されます。中には、よくわからないものもあるのですが、一応、調べたところで一つ一つ、簡単に説明します。まずナタフ香。カンラン科モツヤクジュ属の木から採れる、没薬の一種(他の説もあり)。濃厚な甘さと、スモーキーな香りだそうです。
ただし、なめると苦い。「ナタフ」はヘブル語で「しずく」の意味です。涙を連想します。祈りと涙は、調べてみると、聖書ではけっこうたくさん出て来る組み合わせです。ヨブ(ヨブ記16:20、旧約p. )、ダビデ(詩篇39:12、旧約p. 973)、エズラ(エズラ10:1、旧約p. 831)、ヒゼキヤ王(イザヤ38:5、旧約pp. 1227-1228)。涙とともに祈った経験がないことは、幸せなのか、どうなのか…。その願い通りになるかどうかは別として、そこには神との深い交わりがあるとは、言えると思います。また、イエス様は、これからご自分を十字架にかけるエルサレムを前にして、そのエルサレムのために涙を流されました。私たちも、誰かのために涙と共にとりなすということも、あるのではないでしょうか。放蕩する若き日のアウグスティヌスのために、涙とともに祈った母モニカの例もあります。誰かのためにとりなして流される涙は、神の御目にはどんな宝石よりも尊いものと映るでしょう。そのような涙の祈りは、決してさげすまれません。次にシェヘレテ香。これは植物ではなく、ソデガイの類のへたであろうと言われます。
このへたを燃やすと強い香りを発しますが、それを他の香りと混ぜるとその香りを長持ちさせる効果があるそうです。これは祈りの持続性をあらわすのでしょうか。気まぐれでなく、継続すること。絶えず祈りなさいということも。忍耐が要ります。祈りたくない、気が進まないときも、あるのです。祈りの人と言われる人でも、そういうときがあるので、さまざまな工夫をしているようです。賛美から始めたり、賛美を聞くことから始めたり、あるいはこれまでの祈ってきたことと、その結果を書き記したノートを読み返すとか、祈りの人の伝記を読むとか、あるいはいきなり聖書を読むことから始めるとか。とにかく自分に合った方法を工夫をすることです。それからヘルベナ香。セリ科。ガルバナム、楓子香(フウシコウ)とも呼ばれ、深い森の中にいるような個性的な香りとか、フレッシュな刈りたての草木を思わせる香りとか、またシナモンのような甘くスパイシーさが入り混じった複雑で個性的な香り、などと記されています。一言では言えない、複雑そうな香りなのでしょうか。
様々なニュアンスを持つ香りのため、どの精油ともブレンドしやすいというメリットがあり、他の精油とのブレンドに利用することでクセが弱まり、互いの良さを引き立てると言われているとのこと。複雑な香りのヘルベナ香は、私たちの、ことばにならない、さまざまな思いを汲み取り、御心に従ってとりなしてくださる御霊の働きを表すのでしょうか。ローマ書8:26、新約p. 310同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。ときに、祈りの言葉が出て来ないことも、あるかもしれません。それでも、ただ神の御前にいるだけでも、よいのです。言葉にならない、深い思いも、御霊が汲み取ってくださり、とりなしてくださるのです。乳香。カンラン科の植物の樹脂。名前からすると、ミルキーな香りを想像しますが、これは幹を傷つけて出て来る樹脂が乳白色だからで、香りはというと、森林を彷彿させるような爽やかで清涼感のある香りとか、あるいはレモンのようなと称されるスッキリとした香りです。なお、空気に触れて固化した乳香は、クリーム色や琥珀色になるそうです。
さわやかな香りの乳香は、賛美、感謝をあらわすのでしょうか。私たちの祈りに、常に伴うべき霊のささげ物です。ピリピ4:6-7、新約p. 3994:6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。また、へブル書13:15、新約p. 457…私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。祈りというと、何か願い事をするかのように誤解しがちですが、ただ神をほめたたえることも祈りの大切な要素です。それだけでも、毎日、絶やさずささげる意義と価値と、それによって自分自身が整えられるという霊的な祝福があると思います。以上、これら4種類の香を同量で調合します。これは、ただ混ぜればいいというものではないようで、「調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香」を作るようにと言われます。塩気のある香とは、いかなるものなのか、ちょっとピンとこない気がします。醤油は香りがしますが、塩は無臭ですし。
で、これは塩を加えるということのようです。聖書では、塩はきよさの象徴として使われます。悪い動機からでなく、きよい良心をもって祈りをささげるようにということでしょうか。罪や汚れを覚えるなら、悔い改めて、キリストの十字架の血潮によって赦され、きよめられていることを覚えて、祈りましょう。ささげ方と注意事項:砕いて、あかしの箱の前に (36-38節)>次にこうして作られた香のささげ方。一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、至聖所の前の香の壇に供えます。以前、見たように、香を焚く壇は、仕切りの幕をはさんで、あかしの箱に向き合う形で置かれました。幕の向こう側にあかしの箱、こちら側に香の壇です。聖所の中の、パンの供え物を置く机や、金の燭台よりも、至聖所の一番近く、「わたしがあなたと会う」と言われたあかしの箱の真ん前です。主は何よりも、私たちの心を、祈りのささげ物を、求めておられることがうかがわれます。ろくに会話もしない、よそよそしい関係ではなく、常に祈り心をもって、主に心を向ける、そういう親しい関係が望まれています。香を砕いて粉にして供えるとあるのも、象徴的です。
私たちの父なる神様に、私たちはいい格好して、立派な所だけ見せなければならない、そんなよそよそしい関係ではない。私たちが砕かれたとき、打ちひしがれたとき、そういうときでも、いや、そういうときこそ、天の父は、わたしのもとにきて、癒されなさいと招かれる。詩 51:17、旧約p. 986神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。特に、自分の罪によって、砕かれた魂のためには、イエス様が「わたしは罪人を招くために来たので」とやさしく、親しく臨んでくださることでしょう。最後に、ここでもこの香は主に対して聖なるものであって、自分の楽しみのために、アロマのように焚いてはならないことが厳命されます。この調合で作られた香は、ただ神のためにのみ、用いられる聖なるものとしなければならない、と。正直、どんな香りだったのか、一度、試してみたいな、とも思わないではありませんが、それはサタンのささやきでしょうか。「これは神様だけにささげられる、聖なるもの。私は触れてはいけないものなのだ」と我慢するべきなのでしょう。善悪の知識の木ではありませんが、知的好奇心にも、節度というものを訓練されます。
「 祈れ物事 皆ままならず 胸に憂いの 雲閉ざすとき 」新聖歌196番臨床心理学者の河合隼雄という人が、次のようなことを言っていました。「西洋と付き合うようになって、日本にも急激に『個人主義』が入ってきた。特に戦後はそう。しかし、個人主義と言うのは、西洋で背景にキリスト教があって生まれたものなんです。神様が見ていてくれるから、個人といっても一人ぼっちではないんです。見ていてくれる神様を支えにして初めて個人が成り立っている。ところが、日本人は背後に神様がいることを考えないで、うわっつらだけで真似しようとしたんです。真似をするのはうまいから、ある程度はやっているんだけど、見ていてくれる神様の支えがないので、日本の個人主義はすごく弱いし、その事の自覚もなさ過ぎるんです。」と、そんなことを言っていました。アメリカの第二代大統領ジョン・アダムスという人が、大統領職を退いて後、しばらく上院議員として働いていたある時のこと、会議のために首都ワシントンに赴き、多くの政治家たちとあるホテルに同宿しました。
あれこれと談義が終わり、そろそろベッドにつこうという時に、アダムスは一人、ベッドの上に伏し、あかたも母親のひざに伏す幼子のような態度で、この「主の祈り」を声を出して祈ったそうです。いい年をした、大統領までした男が、「天のお父さん」と声に出して、祈ったのです。いならぶ政治家たちは面食らって、いったいなんの真似か、と聞いてみると、彼は「私は、母から教えられて以来、この主の祈りを祈らずして床に就いたことはないのです。」と答えたと言うのです。初期のアメリカは、初代大統領ワシントンも、奴隷解放を実現した第16代大統領アブラハム・リンカーンも、熱心な母親から聖書を読み聞かされて、祈りの中で育てられた、敬虔な信仰者だったと言います。リンカーンも、南北戦争の間、「私はしばしばひざまづいて祈らざるをえなかった。それ以外にどうすることもできないことを確信させられたからである。私自身の知恵も、また周囲のすべての人の知恵も、そのような事態に対処するには、不十分だと思われたからだ」と記しています。八方ふさがりの時に、神に祈ることができたことは幸いでした。
「天にいます私たちの父よ」と、神にお呼びかけすると言うことは、自分がこの世界を造られた神の子という関係にあることを確かめることです。こう呼びかけることによって、自分がどういう存在なのか、思い起こさせられ、平安が与えられ、希望が与えられ、力が与えられるのです。このことのもたらす力は、侮ることができません。最後に、これもアメリカでの話です。ある孤児院の院長が息子を亡くしました。院長は妻と相談した結果、亡くなった息子と同じ年ごろのケンという子を養子にすることにしました。ケン少年には、愛する息子がかつて使っていた部屋と、服やおもちゃ、本などそっくりそのまま与えられました。そればかりでなく、父母としての愛情も注がれました。一週間ほどたった頃、ケン君がソワソワしていたので、院長先生が「何かまだ欲しいものがあるかい。遠慮なくいってごらん」と尋ねると、ケン君ははにかみながら、それでも決心して言いました。「欲しいものが、ひとつだけあります。『おとうさん』って呼んでいいですか」すると院長先生は、「おお、ケン。私はおまえのおとうさんなんだよ。だからいつも私はそう呼ばれたいんだよ」といってケンをしっかりと抱きよせたのだそうです。
神もそんな思いで、私たちを待っておられるのではないでしょうか。どうしてそんなによそよそしいのかと。あかしの箱の前で、香を焚くようにと定められた神は、今も私たちが御前に祈りのときをもつことを、待っておられるに違いありません。