礼拝説教要旨 2023年10月15日
光の人生
(サムエル記 第二 23:1~4)

聖書の列王記をみると多くの王様が出てきます。記録された王達は良い王か、悪い王かが評価されています。その評価の判断基準は神の前で、神の目で正しかったかです。決して人の評価ではありません。私たちも人の評価ではなく,神に評価される事です。神はダビデ王と共にいました。神と共にあったダビデは4節には光のような人生だと教えています。輝いたダビデは、人に喜ばれ、神にも喜ばれる人生を過ごしていました。私たちは、輝いている人に会うと嬉しくなります。別れてもまた会いたくなります。今日の箇所は光の人生、その生き方を教えています。私たちも神の前に、そして人の前に光のように輝く人生になる事を願います。Ⅰ 正しい自我像(アイデンティティ)がある人(1節)1節は、ダビデ王の最後のことばであると書かれています。それは、遺言ではなく、自分の人生を振り返って大事なことを教えています。ダビデの告白、「いと高き方によって上げられた者、ヤコブの神に油注がれた者」だと言っています。ダビデ自身は神によって立てられたと教えています。自分のアイデンティティが凄く重要です。多くのキリスト者がこのアイデンティティの問題につまずいて倒れてしまうからです。

ダビデは農夫であったエッサイの末子として生まれました。預言者サムエルはイスラエルの王を立てるためにダビデの町に来ました。お父さんであるエッサイはダビデが王に相応しい人とは思いませんでした。兄たちはサムエルを待っていましたが、ダビデは羊の番をしていました。サムエルが見ても、ダビデの兄たちは王に相応しい人に見えました。しかし、神はサムエルに言われました。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」心をご覧になった神様はダビデを王に選んでくださいました。油が注がれたダビデは羊飼いでしたが、やがて王になります。ダビデは王にたてられてから色んな失敗がありました。姦淫と殺人の罪を犯したのです。彼は大きな過ちを犯した後、徹底的に悔い改めて、続けて神に従いました。ダビデは過去の出来事に落ち込んだり、挫折することもなく、自分自身は「いと高き方によって上げられた者」だと告白しています。ダビデは人の基準で自分を評価していません。神はギデオンに「力ある勇士よ」と言われました。(士師記6:12)しかしギデオンは「弱い、若い」者だと答えます。ギデオンは周りの環境や状況を見て、自分を評価しています。(士師記6:15)

神はエレミヤを国々への預言者として定めてくださったのにもかかわらず、自分は口下手でまだ若いから,できないと思ったのです。(エレミヤ1:5-6)神様はモーセに何度も共にいると言われますが、モーセは自分の姿を見て、また環境をみて自らできないと思いました。(出3:11、12、4:10、12-15)サタンはイエス様に神の子であれば、石をパンにしなさいと誘惑します。もし出来なければ神の子ではないと言っています。すでに、イエス様はバプテスマを受ける時に、愛する子であると神様から言われました。今も、サタンは私たちに誘惑します。能力があれば神の子である。真面目で他の人に模範にならなければキリスト者ではないと教えています。あなたは弱くて、何もできないから、要らない、迷惑だからあなたは居ないほうが皆が助かるなど。しかし、神様は私たちが持っている能力ではなく、私たちの条件と環境とも関係なく、私たちを神の子にしてくださったのです。ペテロの手紙第一2:9「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」

社会的な地位、貧富や、人種や、学識の違いに関係なく、環境や状況に恵まれなくても、この世の人々が言われているような成功は出来なくても、神様が共にいて導いてくださる生き方こそが光の人生です。周りの環境と状況によって、自分を評価してはいけません。私たちは周りの評価によって,自分の価値が決まる事ではありません。私たちは神の前で歩んでいる者です。ダビデは「ヤコブの神に油注がれた者」だと告白しました。私たちも神に選ばれたものです。神に選ばれた者は、大切な存在です。神様にとって私たちは「高価で尊い」神に愛されているものです。(イザ43:4)私たちは神の者です。主に選ばれたものです。神の教えに従って、信仰の道を歩んでいるならば、それこそが光の人生です。Ⅱ 御言葉を伝える人(2節)ダビデの口を通して神様が語りかけてくださいました。光の人生は神の霊が共におられ、御言葉を伝える人です。五つのパンと二匹の魚で5000名を食べさせた時に、同じ状況において弟子たちとイエス様の反応は異なります。弟子たちは持っているパンと魚の量は少ないので、難しいと思って否定的に発言をしています。しかし、イエス様は天を見上げ、神を賛美し、感謝をしました。

(ルカ9:13、16)イエス様はいつも感謝と賛美をしました。人の口は、心に満ちていることを話します。(マタイ12:34、ルカ6:45)私たちの心の中に聖霊に満たされているのであれば、口を通して神の御言葉が流れていくでしょう。神の愛に満ちていれば、人を愛し、赦し合うこともできるでしょう。悪い心から悪い言葉が出るし、良い心から良い言葉が出ます。いつも神を見上げて感謝と賛美をしている人であれば、間違い無く、光の人生を過ごしていることになります。ふだん私たちは口から神に感謝と賛美をしているのか、私を通して神様が語っておられるのか、自分を吟味する必要があります。「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある」とダビデは言っています。おそらく主の霊がダビデの心に満ちていて、口から神のことばを語ったのです。私たちも、心に御言葉と聖霊に満たされていれば、互いに愛し合い、赦し合い、他の人を支えていく者になるでしょう。今は大変な状況にいても、主の導きと助けを期待して、主を賛美し、感謝する人になります。主の霊が私を通して語り、神の言葉が私を通して流れていきます。

ヤコブ1:26を身近な日本語に訳されているリビングバイブルでは『「私はクリスチャンです」と言いながら、平気で、とげのあることばを口にする人がいれば、そんな人は自分を欺いていることになります。そんな信仰には何の値打ちもありません。』と教えています。とげのあることばを口にする人は心にとげがあるので、とげのあることばを口にしたのです。(ルカ6:45)口から出る内容が、その人の思いや考え、心を表しています。心が大切です。心が何で満ちているのかが重要です。心が希望で満ちていれば、今は大変な状況に置かれていても落胆しません。御言葉の約束を持っていれば、不安に落ちることなく、聖霊様の導きに信頼を置いて歩む事ができます。絶望に落ちている人がいるとしましょう。彼は、絶望的な状況に置かれているからではなく、その状況を見て心で絶望だと思ったからです。御言葉を蓄えていく事によって、良い心を保つ事ができます。(箴言4:20-22)良い人は御言葉に心が満たされて、御言葉に従う人です。わたしたちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」しかし、選ばれた理由があります。

「それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(ペテロの手紙第一2:9)。福音を宣べ伝えるためです。私たち皆は、主の霊が私を通して語り、神のことばが私の口を通して流れて行けるように願います。Ⅲ 神を恐れる人(3節)光の人生を過ごしているダビデは『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。」でした。義は神のものです。人の思いではなく神の御心で歩み、神の心で人を治めた意味です。義は神からのものなので、私の中には義はありません。つまり、私たちは正しさが無いので、神の義を求めるだけです。義を持っていない自分に気づかないと他人を裁いたり不義に定めたりします。周りの人を批判してしまいます。ダビデは神の義を求めて、御心に従った人でした。また、ダビデは神を恐れる者でした。主を恐れることは知識の初めです。(箴言1:7)仕事も主を恐れながらやっていくことです。勉強も主を恐れながら、家事もそうです。子どもたちに主を恐れることを教えて行かないといけません。ヨセプは主を恐れる者でした。(創世記42:18)誰も見ていない時に、ヨセフは神の前に歩んていた人でした。

(創世記39:6、9)誰もいないときに私たちはどのように考えて、行っているでしょうか。教会の外での私の歩みはどうでしょうか。誰も見てないし、知らないから、犯している罪はないでしょうか。人の思いで歩まず、神を恐れて歩むものになりたいです。初代教会の姿をみるとリバイバルがありました。信者の数が増えていきましたが,目に見えない神を恐れて歩んでいたのが、初代教会のリバイバルでした。(使徒9:31)この世では多くの誘惑があります。しかし、キリスト者は、主を恐れながら過ごす者です。それが光の人生です。これからも人のほめる言葉や、世の富、世のほまれのために生きることではなく、御言葉に従い、日々感謝しながら神を褒めたえる者になりたいです。私は誰でしょうか。学歴も、お金もなく、人に認めて貰えなないことで落ち込んでいるでしょうか。わたしたちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民だからです。日々主を褒め称え、感謝をもって歩みたいです。人の評価につまずかないように願います。主が共におられるなら輝いている光の人生を過ごしていることでしょう。イエス様を信じ、御言葉に従って行き、互いに支え合い、福音を伝える者になりたいです。

私たちは、神の前にいる者として、神を恐れて歩む者です。主が喜んでくださる光の人生になりますようにお祈りいたします。