
4月の第二週、イースター礼拝をささげた後、6月と8月、十字架に向かって歩まれた主イエスが語られた教えに耳を傾けた。マタイの福音書16章16節のペテロの信仰告白を境にして、主はご自分が世に来られた目的が、十字架の死にあることを明言され、それがどのような意味があるのか、はっきりと語り始めておられることを心に留めたいと願ってである。そこに流れているのは、やはり「恵みによる救い」のことである。今朝の個所も、その教えが中心である。人々が思い違いをしないよう、主イエスは19章の最後の言葉、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」に続けて、「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです」と、たとえを話し始めておられる。(1節)※かなり前に、「最後の人にも」という説教題にて話したことがある。
主イエスは、「天の御国は、…・」という語り出しで、幾つものたとえを語っておられる。「神が恵みによってもたらしてくださる救いは、このようなものです」と語ろうとして、「天の御国は」と語っておられた。「家の主人」は「父なる神」、「ぶどう園」は「神の民イスラエル」で、「教会」を指している。従って、そこで「労働者」は神に仕える「働き人」のことである。この働き人たちをどのように集めたのか。そして、それぞれにどのように報いたのか、そこに神ご自身の御思いが明かにされている。神がどのように人を救いに導き、また、どのように報いようとしておられるのかが分かる。主人は「朝早く」、おそらく夜明けとともに「労働者たち」を雇った。「一日一デナリの約束」によって、彼らはぶどう園で働くことになった。ぶどうの収穫期(9月中旬~10月)の忙しい時、短期間に収穫を終えなければならないので、労働者は幾人でも欲しい時であった。主人は、九時ごろにも、市場にいた人たちを「相当の賃金を払うから」と雇い、更に十二時ごろと三時ごろ、同じようにして雇って、最後に五時ごろ、まだ仕事に就けないでいた人たちを、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と雇ったのであった。(2~7節)
労働者たちの労苦は、日中の日照りのもとで、かなり過酷であった。(12節)それぞれに働きをこなし、ようやく仕事が終わって賃金の支払いの時を迎えた。疲れてはいても、心躍る時である。主人は「監督」に命じた。この「監督」は主イエス・キリストを指すと理解できる。「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」主人は何を考えていたのか、最後に来た人々、少しの時間働いただけの人たちから順に支払うように命じた。そして、五時ごろに雇われた者たちが来て、先ず「それぞれ一デナリずつ受け取った」のであった。(8~9節)続いて三時ごろからの者、十二時ごろからの者たちが「一デナリずつ」もらい、ようやく「最初の者たち」の番となった。彼らは賃金の支払いを目を凝らして見ていた。労働時間に見合った労賃を期待し、また当然「もっと多くもらえるだろうと思ったが」、彼らもまた「一デナリ」であった。彼らは自分たちの方がより多く働いた、より長く働いたので、少ししか働かなかった者たちと労賃が同じでは、働き甲斐がない!と憤慨したのである。「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。
それなのにあなたは、一日労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」彼らの言い分は尤もであったと、私たちも同意するに違いない。(10~12節)これが私たちのこの世での常識的な考え方である。時給いくらなのか…と。
しかし、主人は「友よ。私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分をとって帰りなさい」と語って、不正はないことを告げた。そして、「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」と明言した。働きに対してどれだけ報いるか、それを決めるのは主人の専権事項である。途中で変更されることなく、初めの約束は実行されている。最初の人も、雇われたこと、そして報われたことこそ幸いと感謝すべきであった。主人は「それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」と問いかけている。(13~15節)報酬はあくまでも主人が用意して、労働者たちに支給されるもの、働きに応じて報われるものではなかった。「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」と、主人は皆に報いた。報いを受ける者は、主人と自分だけを見つめ、主人によって報われた自分を喜べばよいのである。周りを見回して、他の人と自分を比べてはならなかった。他の人と自分を比べる限り、主人の気前のよさには決して気づかず、不平を述べることになる。「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」との警告を聞かねばならない。(16節)
<結び> 主イエスは、「天の御国は…」とのたとえによって、「恵みによる救い」を説き明かし、神が与えてくださる救いの恵みを、決して取り違えることのないよう、「後の者が先になり、先の者が後になります」と、繰り返し警告しておられた。(19:30、21:31)単純な順序の逆転というよりも、思いや理解、あるいは、発想の逆転を含んでいる。最初から働いていた「先の者」は、多く働いたので多く報いられるに違いないと期待した。ところが、少ししか働かない者は少ししか報われない、と思った「後の者」のようになったことに憤慨したのである。主人は、働きの少なさのゆえに報いを期待できなかった「後の者」にも、「先の者」と同じ報いを与えたいと、そのようになさった。ここにこそ、「恵みによる救い」の奥義が込められている。罪人に対する神の恵みとあわれみは、人の思いを越えて万人に公平である。悔い改めて救いに与るのに、遅すぎることはなく、救いに与って間もないからといって、報いに差がつくこともない。救いに与って、ずっと忠実に歩んだからといって安心したり、特別な報いを期待するなら、それこそ「先の者が後になります」との警告を聞かなければならない。
私たちは、自分が「最後の人」であることを自覚すべきと教えられる。当然雇われ、救われるべき者というより、最後の最後にようやく、良い主人に、すなわち「気前のよい主人」に見出されたのである。「最後の人」は、果たして何時間働いたのであろうか。五時ごろに雇われ、やっとぶどう園に着いたとしても、一時間も働かない内に、賃金の支払いの時を迎えたのに違いない。朝から働いた者から見ると、彼らは「何の働きもない人たち」に見えたはずである。彼らは、主人の言葉を信じてぶどう園に来た人たちであった。彼らは「最後の人にも」同じように報いてくださる方の、その気前のよさによって報われた。私たちも、よくよく思い返すと、「働きのない人であっても」、神を信じることによって救いに入れられ、神の子として、また、その僕、働き人として生きるよう導かれている。何がしか働きがあるとするなら、それは恵みによる救いを喜び、感謝して仕える働きが実を結んでいるのである。心を低くし、神に感謝し、良い実を結ぶ者とならせていただきたい。(ローマ4:2-5)