礼拝説教要旨 2023年10月1日
聖なる注ぎの油
(出エジプト記 30:22~33)
今日の要点

キリストを救い主と信じた者は、聖霊を注がれて、神のものとして聖別されている。

はじめに

幕屋礼拝についての教えも、いよいよ大詰めに近付いてきました。今日の個所は、これまで述べて来た、幕屋礼拝に用いるすべてのものと奉仕者とを、主に聖別するための「聖なる注ぎの油」についてです。幕屋やら祭壇やら、作ったらそのまま用いていいのではなく、この油を注いで、それらを聖別して、はじめて幕屋礼拝に用いることができるのです。ここから、神が聖なる方であるという、とても大切な教えを覚えさせられます。それとともに、「聖なる注ぎの油」は聖霊を象徴しています。私たちもキリストを信じたときに、聖霊を与えられていますので、それがどういう意味があるのか、改めて学びたいと思います。

① 聖なる注ぎの油の材料:四種類の最上の香料とオリーブ油 (22-25節)

最初に4種類の香料と分量が記されます。液体の没薬(液体のものは、上質とされた)500シェケル=約5.75㎏。香りの良いシナモン250シェケル=2.875㎏。香りの良い菖蒲も250シェケル=2.875㎏。そして桂枝が500シェケル=5.75㎏。これらは2:1:1:2の割合になります。それにオリーブ油1ヒン=3.8リットル。次にそれぞれの香料について。「液体の没薬」没薬はかんらん科に属する植物の樹脂。強い殺菌力と芳香を有し、古くから健胃薬、うがい薬として使われ、また古代エジプトではミイラ作りに使われました。またイエス様のおからだは十字架からおろされた後、没薬といっしょに亜麻布で巻かれました(ヨハネ19:39,40)。単に香料として身体や衣服に染み込ませて使ったりもしました。没薬を表すヘブル語morは「苦い」から来ていて、香りはスモーキーで甘苦いですが、味はとても苦いそうです。「香りの良いシナモン」(第三版:香りの強い肉桂)。シナモンは元のヘブル語で「キッナーモーン」。くすのき科の常緑樹で樹木の皮の部分を利用します。シナモンにもいくつか種類があり、日本でも桂皮(ケイヒ)・肉桂(ニッケイ)・ニッキなど、漢方や薬にも配合されています。

清涼感のある甘い香りと言われます。しかし、甘い成分があるわけではなく、口にすると、これも苦い。ただ強い甘い香りで甘く感じさせるということのようです。「香りのよい菖蒲」(第三版:におい菖蒲)。あやめ科。多くはその粉末を歯磨粉、洗い粉などに用い、芳香性の健胃剤として内服することもあるそうです。「桂枝」シナモンと同じ木の小枝の部分。同じような香りですが、品質は落ちるとされます。が、その分、安価で大量に使うのに向いており、香油を作るのに用いられるとのこと。以上の四種類の香をオリーブ油に入れて混ぜ、しばらく寝かせるのでしょうか。こうして見てみると、作られた香油の香りは、清涼感がありながらも甘い香りを放ち、しかし、なめると味は苦い。そんなイメージでしょうか。また健胃薬とか歯磨き粉というのも、何か共通するイメージがあるかもしれません。

② 用途と注意事項:世から取り分けて、聖なるものとする (26-33節)

こうして作った聖なる注ぎの油を、これまで見て来た幕屋とすべての備品、それにアロンとその子らにも、注いで聖別します。これだけの物となると、オリーブ3.8リットルでは、ドボドボと注ぐというより、ふりかける感じでしょうか。あるいは同じ割合で、たくさん作ったのかもしれません。ともかく、こうして聖なる注ぎの油を注いで聖別すると、それは最も聖なるものとなると言います。これらに触れるものもすべて、聖なるものとなる。いけにえの動物、ささげ物なども、これらに触れて聖なるものとなるということでしょうか。油注ぎを受ける前はただの備品です。それが、この聖なる油注ぎを受けた後は、聖なるものとなりました。世から取り分けられて、ただ神を礼拝することのために用いられるものとなった、ということです。以後、他の目的のために使われることはありません。また、この聖なる注ぎの油自体も、このためにのみ用いられるべきことが、強調されます。これと似たものを作ったり、この注ぎの油を、いいにおいがするからと言って、勝手にほかの人がつけたりすることは、民から断ち切られる厳罰をもって、禁じられました。あくまでもこの目的のためだけに、用いるべきことを徹底しました。

どうしてこういうものが必要だったのでしょうか。考えられることの一つは、神が聖なる方であり、その聖なる神を礼拝するという行為もまた、通常の世の営みの延長線上にあることではない、特別な、聖なる行為である、ということを教えるためでしょうか。神は聖なる方。本来、創造者とすべての被造物の間には、無限の隔たりがあるわけですが、その上、世は罪によって堕落し、汚れたところとなってしまったのですから、なおさらです。本来、人間が近づくこともできないお方です。そのことをわきまえずに、いつもの延長線上で、ふさわしい畏れもなく、幕屋で礼拝をすることは、厳に戒められなければならないことだったのでしょう。最初に、燃える芝の中で主がモーセに現れたときにも、主はモーセに「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と言われました(3:5)。神はどこまでも恵み深く、憐れみ深く、ご慈愛に富み給うお方であると同時に、どこまでも聖なるお方。神を礼拝するための幕屋も、この世のものから切り離された、聖なる場所。そうわきまえることが、必要だったのかもしれません。

ところで、ちょうど今日から、教会で使う聖書を新改訳2017版に切り替えて、主の祈りの文言も一部、変わりました。最初の祈願が、「御名が聖なるものとされますように」となりました。これについて、以下、内田和彦師による解説の一部を引用します。「聖なるものとされますように」と訳されたギリシャ語ハギアゾーは、伝統的に英訳ではHallowed、邦訳では「あがめられるように」と訳されてきた(文語訳、口語訳、新共同訳)。英語のHallowは「聖なるものとする/神聖なものとして敬う」という意味で、「聖」という概念が基本にあるが、日本語の「あがめる」は「尊いものとして扱う」「この上ないものとして扱う」といった意味で、「聖」との認識は希薄である。それゆえ「あがめる」という訳語では、ハギアゾーの本来の意味、他のものと峻別して聖なるものとする、という意味が表せない。「聖なるものとする」は、神ご自身を神でないもの、神にふさわしくないものから区別して、他のいかなるものとも異なる聖なる方として認められるように、という祈りの訳として、ふさわしいのではないか。

「聖なるものとされますように」と祈ることが、神の聖性、聖という概念の認識が薄れてきている今日、求められているのではないか。人間中心の神理解ではなく、あくまでも神を神として認め、従うことによって、神の栄光があらわされることを求める祈りであることが、新しい訳によって、より明らかになるものと思われる。以上、心して、第一の祈願を祈っていきたいと思います。「 主を愛する愛をば 愛をば 」新聖歌364番こんにち、キリストは、私たちに聖霊を注ぐことによって、私たちを聖別してくださいました。このことについて、3つのことを見ていきます。世から取り分けられて、神のものとされた。エペソ書1:13、新約p. 3841:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。ここの「証印」とは、古代、指輪に彫られた印証を、巻物や荷物に押して封印するとともに、その所有者を表わしたものです。そのように、キリストを信じたとき、私たちは聖霊によって、神の証印が押されました。それは、私たちの魂に押された、キリストの血による十字架の証印と言ってもいいかもしれません。

神は、私たちを世から取り分けて、区別して、ご自身のものとして証印してくださいました。詩篇4:3、旧約p. 936知れ。【主】はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき【主】は聞いてくださる。そして、クリスチャンはみな、今も区別されていますが、そのことが完全に明らかになるのは、世の終わりの時です。神のものと、そうでないものとを、神は明確に区別されます。神の証印を押されてある魂は、神の栄光に与ります。神のご用のために聖別された。聖霊によって、神のものとして聖別された私たちは、神のために生きるものとされました。何のために生きているのか、という根源的な問いに対する答えをすでに私たちは得ています。ウェストミンスター小教理問答第1問。人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。神のために生きると言っても、修道院のような場所にこもるわけではありません。一人びとりが置かれている所、そこでキリストに従い、みことばによって生きることです。以前、学んだように、聖霊によって聖別されるということは、真理によって聖別されるということでもあります。聖書の教えを拠り所として、生きるということ。

すべてを造られた神を信じ、その神は、御子をお与えくださったほどに、私たちを愛しておられることを信じ、この神がすべてをご支配なさっていることを信じる。だから、試練の時にも、この神に望みを置いて生きる。また神は私たちの祈りに耳を傾けておられることを信じる。すべて私たちの言う通りにするということではないけれども、耳を傾けて、聞いておられることは、確かです。そして、神は、やがてすべてを明らかにして、正しくおさばきになることを信じる。神を恐れて、悪から離れ、罪を犯さないように自戒する。また、やがて、悪や偽りを行う者たちは滅ぼされ、罪によって損なわれていた世界は回復し、正義と平和が実現して、神の国となる。キリストの復活は、その世界の回復の初穂です。こういうときが来るということを、神がデモンストレーションしてくださった。そういった聖書の真理をしっかり握って、それによって生きる。たくさんの情報があふれ流れる世にあって、世の価値観、風潮に流されず、忍耐をもって神に仕え、人々に仕え、聖い生活を保ち、望みを抱いて喜ぶ歩みを!芳ばしいキリストの香りを放つものとして。注がれたのは、ただの油ではなく、芳しい香りを放つ香油でした。

エペソ5:1-2、新約p 3905:1 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。先に見たように、四種類の香は、清涼感のある甘い香りと苦い味という特徴がありました。ただ甘ったるいだけの香りではなく、清涼感のある甘い香り。キリストのきよさと恵み深さが調和していることが表れているようです。また、なめると苦い。ということは、苦味から甘い香りが出ている。これは、十字架から甘い香りが放たれることを表すのでしょうか。キリストの十字架の死から、私たちを生かし、神の愛をあかしする甘い香りが放たれる。これを自分に適用すると、自分自身を十字架につける。キリストに従うことを妨げる肉の思いを十字架につける。自己中心を十字架につける。それが周りに甘い香りを放つものとなる、ということ。これは、案外、盲点だったりします。

主に従おう、御心を行おうという意思はもつんだけれども、肉を十字架につけるということが意識されていないので、アクセルとブレーキと両方同時に踏んでいるみたいになっています。御心を行うことを妨げる思いに対して、ノーと言って十字架につけて、芳ばしい香りを放ちましょう。最後に、これらの根底にあるのは、神の愛だということを心に刻みましょう。私たちに聖霊によって証印を押してくださったのも、私たちを真理によって聖別してくださったのも、私たちにキリストの香りを放つようにしてくださるのも、すべては神の愛から出ていること。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれていることを確認し、また私たちも神を愛する愛を増し加えられるようにと、祈りつつ、賛美しましょう。ローマ 5:5、新約p. 304この希望(神の栄光にあずかる希望)は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。