
キリストは私たちを贖い、御霊とみことばによって、洗いきよめてくださる。それは、私たちをよりご自身の近くで仕えさせるため。
今日の個所、イスラエルの人口調査のための登録の話が出てきます。これまで幕屋礼拝の話だったので、唐突な感じがします。人口調査について言えば、今読んでいる出エジプト記の次がレビ記、その次が民数記となっていて、そこにはイスラエルの12部族の人口調査の記事から始まっています。「〇〇族の△△の一族は××人」のような記述が、最初の数章続きます。それで「民数記」と名付けられました。英語では単にNumbers(数)と味もそっけもない名称です。人口調査自体は、これからイスラエルを国として整えるため、いろんな意味で必要だったのでしょうが、ここでは人口調査そのものについてではなく、その際に納める贖い金というものに意味があって、ここに記されたようです。
この人口調査のために、20歳以上の者を登録するにあたって、その登録される人が自分自身の贖い金を、主に納めなければならないとされました。代金は銀半シェケル=約5.7g。これは大きさで言うと、1辺が1cmのサイコロを半分に割ったくらいになります。これは、それほど高価なものではなかったでしょう。ちなみに、当時の価値はわかりませんが、最近の相場では5.7gで710円ほどのようです。なぜ登録するのに、贖い金が必要だったか。12節に「彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないため」とあります。古代においては、一般的に、名前を登録するときには、わざわいが降りかからないように、きよめのようなものとして、このようにする習慣があったようです。しかし単に登録することでタタリが降りかかるというのは迷信のように思われます。考えられるのは、神の民として登録されるにあたって、改めて、自分たちが神のものとされるためには、贖われる必要があるのだ、ということを覚えさせるためかもしれません。生まれながらの罪びとが神の民として登録されるには、贖いが必要なのです。
15節に、贖い金は、富んでいる者も定められた分より多く払ってはならず、貧しい者も定められた分より少なく払ってはならないとあるのは、魂の贖いの代価は、みな同じということ。金持ち、貧乏人で、魂の価値に重い軽いはない。それにしても、彼らの罪を贖うための贖い金が、わずか銀半シェケルとは、安すぎます。これはもちろん、象徴です。もし本当に、神の御前に自分の魂を贖ってもらうためには、どれほど高価なものをささげても足りません。詩篇49:7-8、旧約p. 95249:7 人は…自分の身代金を神に払うことはできない。49:8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──地上のすべての金銀財宝をかき集めても、神の前に自分の魂を滅びから、地獄から贖い出すことはできません。それができるのは、生ける神の御子キリストだけです。神の御目に全宇宙を集めたよりもはるかに尊くきよい御子のいのちです。マルコ10:45、新約p.88人の子(キリスト)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
私たちをいのちの書に登録するための贖い金は、神ご自身が用意してくださった御子イエス・キリストです。それは信じる者たちのために、既に支払われました。それで信じた者たちは、いのちの書に名前が登録されました。その書に名前が登録されたということは、世の終わりに用意されている神の都に入る権利を与えられています。黙示録21:27、新約p.501しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。この書に名前が登録されたということは、神のあらゆる祝福を受け継ぐ権利が与えられたということ、永遠の御国を受け継ぐ権利が与えられたということです。そこで神に仕える栄光と喜びにあずかります。それゆえ、イエス様は言われました。ルカ10:20、新約p.133だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」これは弟子たちに語られたことですが、この世での成功や人からの賞賛を喜ぶのでなく、ただ自分の名が天に登録されていることを喜びなさい、ということです。真に喜ぶべきことは何か。
私たちも、天にあるいのちの書に、キリストの血潮という贖い金が払われて、自分の名前が登録されていることをしっかり覚えて、その意味することを思って、このことを何よりも喜びましょう。それは永遠に喜ぶに値することです。
お次は洗盤です。祭司たちが奉仕に着く前に、身体を洗うための水をためておく、大きなたらいのようなものです。それを置く台も用意します。これが置かれる位置は、祭壇と会見の天幕(聖所)の間です。聖所に入る前にも、また祭壇で全焼のいけにえをささげる前にも、この洗盤で身をきよめてから、務めにつきました。それは彼らが死なないためである、とぶっそうな言葉が2度、繰り返されています。もちろん、水でバシャバシャ洗ったくらいで、人の心の汚れは落ちるものではありませんが、これは神の聖さをわきまえさせるため、ということがあったのでしょう。旧約の時代、祭司の務めも命がけです。今日のクリスチャンー神に贖われて神の民、神の子とされた私たちーは、神のことばと御霊によって、魂と生活をきよめられるようにと、召されています。そしてそのときに、私たちを洗いきよめるのは、主ご自身です。エペソ 5:26-27、新約p. 3805:26キリストがそうされたのは(教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたのは)、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。教会をきよめて、聖なるものとするのは、誰でしょうか?キリストご自身です。キリストが、私たちを洗ってくださるのです。またテトスへの手紙2:14(新約p. 420)も。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。やはり、ご自分の民をきよめるのは、キリストご自身です。キリストご自身が、私たちをきよめてくださる。洗ってくださるのです。私たちは、自分の無力さ、罪の性質の頑固さに、ときに落胆してしまうことがありますが、自分の力によるのではなく、聖霊により、みことばによって、キリストご自身が私たちをきよめてくださると知ることは、大いに励まし、支えとなるでしょう。そこに信頼して、忍耐をもって、聖化の歩みを続けることができるのです。主が私たちを洗いきよめるために、具体的に、何を用いるのでしょう。魂にこびりついた,がんこな汚れを落とす特別な石鹸があります。みことばという石鹸です。
みことばは、祈りと礼典とともに、恵みの手段と呼ばれます。主が定めた恵みの手段ですから、これらを誠実に用いるとき、そこに主の御霊が働かれ、恵みが注がれます。礼拝、祈祷会、それに個人のデボーション。みことばに触れる機会を多く持つようにしたいものです。そして、この二つの聖句を読むと、キリストがご自身をささげられたのは、私たちに罪の赦しを与えるためだけではなく、私たちをきよめるためであることが、わかります。赦しだけありがたく頂いて、きよめの方はけっこうです、というわけにはいきません。キリストがご自身をささげてまで、私たちに与えたいと願っておられるものは、すべて感謝して、受け取りましょう。それはすべて、私たちにとって良いものなのですから。「 主の民 われら光の子 」新聖歌352番贖いと洗い。これは私たちの信仰生活の両輪です。この両者は切り離せないもの、切り離してはいけないものです。洗いのための贖いであり、また贖いあっての洗いです。私たちは、キリストの十字架のみわざによって、世から、滅びから、神のものへと、永遠のいのちへと贖い出されました。この救いの土台は、揺るぎません。
私たちがきよい歩みができたかどうかには、いっさいよらず、何もできなくても、ただキリストが成し遂げてくださったわざにのみ、基づいています。この救いの土台は、未来永劫、決して揺るぎません。そして、この土台は、私たちがキリストに従い、キリストに似たものに造り変えられるために据えられた土台です。みことばと御霊によって洗われて、罪の垢を落とし、本来、造られていた神の似姿が現れるため、回復するための土台です。そしてそれは、私たちの本来の姿を取り戻すことですから、私たちにとって幸いなこと、喜ばしいことに違いありません。何よりも、神ご自身が喜ばれることです。一つ、覚えておきたいことは、神は気の長い方だということです。私たちは、この世にあって、自分ひとりの力や一存ではどうにもならないこともあるでしょう。また自分自身の内に罪の性質が根強く残っていることもあるでしょう。そんな中で、洗いきよめられることが困難であり、時間のかかることであることも、主はよくご存じです。主は、短気なヒステリックな教師ではなく、私たちをよく理解し、忍耐強く教え、導き、訓練し、励ましてくださる、よき教師です。無理なことを命じません。
私たちの生活の中で、できるところから始めて、少しずつ、できる範囲を広げていけばいいのです。聖化は生涯かけて走る超・長距離走です。主はそれに、付き合ってくださいます。それと、誤解のないように付け加えます。私たちがきよくなるとは、罪を犯さなくなるとか、完全になるということではなく、むしろ罪が見えるようになる、そこから離れたいと願うようになる、ということです。川の水が澄むと、底にあるゴミが見えてくるように、それまで何とも思わなかったことが、罪だとわかってくる。自分には罪がないと思っていたのが、自分の中にある罪に気づく。それを悲しむようになる。それと同時に、そこで自分に注がれている神の無条件のあわれみ、キリストの愛のまなざしに気づくのです。最後に、先に言いましたが、この洗盤は、祭壇と聖所の間に置かれました。祭司はそれらの場所で奉仕をするために、身をきよめました。祭壇と聖所は、いづれも、主がそこで現われ、語られると言われた場所です。主の臨在に仕える場所です。ということは、主が私たちをきよめようとされるのはーキリストがご自身をささげられたのはー私たちを近くで仕えさせたいということではないか、と思います。
私たちをもっと近くで、ご自身に仕えさせたい。ご自身の臨在の近くで。そのために私たちを洗いきよめられる。忍耐をもって。主の近くで仕えると言って、宣教師や牧師のような肩書は関係ありません。肩書関係なく、きよめられて、尊く神に用いられている方はたくさん、います(参考 第二テモテ2:20-21)。何も手足を動かして何かをするということとは、限りません。今、置かれている状況で、主が自分に何を求めておられるのか。ただ主に信頼することかもしれません。誰かに仕えることかもしれません。不平を言わず、むしろ感謝することかもしれません。また、誰かを赦すことかもしれません。とりなしの祈りをすることかもしれません。賛美することかもしれません。人を恐れないで、ただ神のみを恐れることかもしれません。それが何であれ、主の御心を悟り、従うときに、主の用いたもう尊い器となっています。最後にイエス様が語られたみことばを。マタイ5:8(新約p. 6)。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。