礼拝説教要旨 2023年9月17日
「贖いのふた」の手前に
(出エジプト記 30:1~10)
今日の要点

主は、私たちが祈ることを切望していることを知り、祈りの生活を送る。

はじめに

29章は、祭司職の任職式について語り、38節以下は、その祭司たちが毎日、行うべき務めとして、祭壇で全焼のいけにえを朝に、夕にささげることが示されました。それは、神と民との、本来あるべき基本的な関係を教えていました。そして、主なる神は、あたかも感極まったかのように、その所でわたしはあなたがたに会う、その所であなたがたに語る、と繰り返し、さらにわたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となる、と何度も繰り返されました。待ちに待った、待ち焦がれていた、神と人とがともに住むときが、ついに来た。わたしは彼らの神だと、感慨を込めて語っておられるようでした。そして今日の個所では、香を焚くための壇について語られます。天に立ち上る香は祈りを表します。ここには祈りについての神の御心が示されていて、また祈りに励まされます。

① 香のための壇の作製、置く場所:主の臨在に最も近い位置に (1-6節)

以前見た、聖所の調度品―あかしの箱、供えのパンを置く机、燭台ーと同じく、アカシヤ材で作ります。荒野で手に入り、虫がつきにくく、朽ちにくい堅牢な木です。これで縦横1キュビト(約44cm)の正方形に、高さはその2倍の2キュビト(約88cm)。上面の四方には角をつけます。壇全体(底面を除く)に純金をかぶせ、周りには純金で飾り縁をつけます。そして持ち運びのための棒を通すための金の環を2個つけます(図参照)。その棒もアカシヤ材で作り、金をかぶせます。金は腐らず錆びず、永遠の輝きを放つ天を象徴するのでしょう。聖所は天の模型ですから(へブル9:24、新約p. 435)、聖所の器具はすべて金で覆われます。この香の壇を聖所と至聖所を仕切る垂れ幕の手前に置きます(図参照)。その幕の向こう側には、神の臨在をあらわす契約の箱と「贖いのふた」があります。神がそこで会い、そこで語ると言われた「贖いのふた」です。垂れ幕をはさんで、この「贖いのふた」と香の壇が向き合う格好になります。パンを置く机や燭台は左右後方に控えて、中央の一番前、至聖所の幕に近いところに香の壇があります。

聖所にあるものは、みな尊いものですが、その中でも特に香の壇は重要視されているようです。主なる神が一番近くに置いておきたいものなのです。

② 香の壇に関する大祭司アロンの務め: (7-10節)

その香の壇で、アロンは「かおりの高い香」を朝に、夕にたきます。燭台の世話も朝夕するので、そのときに行ないます。先週見た全焼のいけにえは、外にある祭壇で、朝に夕に焼いて煙にしましたが、こちらの香は聖所の中で、朝に夕に香をたきます。朝に、夕にとは、毎日、絶やさずということです。それで「主の前の常供の香のささげ物」と呼ばれます(6節)。その際、決められた香以外のものをささげてはいけない、と警告されます。香の材料、調合については34節以下に記されますが、自分はこっちの香りがお気に入りだから、と別の香を使ってはならない。自分の好きな香ではなく、主が定めた香をささげるのです。また全焼のいけにえや、穀物のささげもの、注ぎのぶどう酒など、外の祭壇でささげるべきものを、どうせ主にささげるんだから、どっちでもいいだろう、などといい加減に考えて、香の壇でそれらをささげてもいけない。香の壇は、ただただ、主が定めた香をたくためだけに用いられなければいけない。そして、この香の壇は、年に一度、罪のためのいけにえの血をもって、贖いをしなければいけませんでした。

世にある物はすべて、罪の影響を受けているので、神の御前に用いられる調度品も、定期的に罪の影響を取り除く必要がありました。さて、ここでたかれる香は、祈りを表します。詩篇141:2、旧約p. 1048聖所でアロンが香を焚くのは、キリストが私たちの祈りを執り成してくださることを表すのでしょうか(参考 ローマ8:34、新約p. 302、ヘブル7:25、新約p. 432)。「 静けき祈りの 時はいと楽し 」新聖歌190番さて、香は朝に夕に、絶えずささげられました。「常供のささげ物」でした。ここで思い浮かぶのは第一テサロニケ5:17のみことばです。このさい、その前後も含めて16-18節(新約p. 401)を読みましょう。有名なみことばです。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。「いつも喜んでいなさい。」これはベースにこういう心を持っているように、ということだと思います。ベースにあるものが、怒りのようなものだと、喜ぶべき事も喜ぶ事が難しくなり、逆に良くないことが起こると、すぐに過敏に反応します。

マグマのように、怒りの感情が出口を探している状態は、怒りを正当化できる口実を見つけると、すぐに怒りの感情を発散させるのです。これは、不幸なスパイラルです。しかし、ベースに喜んでいる心があると、反対に良いスパイラルになります。喜ぶべき事があったときに、素直に喜べるし、それは生きる意欲を増し、逆に良くないことが起こった時に、ダメージが小さくて済みます。もちろん、つらいとき、悲しむ時、涙を流す時もあっていいのです。それが必ずしも、不信仰なわけではありません。人には心があるのですから。「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」ともあります(伝道者の書3:4、旧約p. 1105)。また「悲しみなさい」というみことばさえ、あります(ヤコブ4:9、新約p. 449)。いつも喜んでいなさい、とみことばにあるからと言って、文字通り、むりやりどんなときでも喜ぶということではないと思います(一部の極端なところでは、そのように言うところもあります)。

ただベースには、キリストにあって神のこの上なく尊い愛、すべてが新しくされた新天新地を受け継ぐという素晴らしい救い、そして神とともに永遠に生きる永遠のいのちを頂いているので、望みがあり、喜びがあるということ。そこに気づき、立ち返ることを勧めているのだと思います。私たちはすぐにそれらの莫大な恵みを忘れて、目の前のことに心を奪われてしまいがちなので、それがいかに素晴らしいものか、じっと見つめ、考え、思い巡らすように。喜びとなるくらいに。ベースにそういう喜びがあると、それは、何かでダメージを受けたときにも、それをやわらげ、回復を助けるものです。流行りの言葉でいうところの、レジリエンスということでしょうか。神から頂いている計り知れなく尊いご愛が、私たちの心に深く根を張り、生きる力、喜びをもたらすものとなりますように。「絶えず祈りなさい」も、もちろん、24時間祈っていることは不可能ですから、ベースに祈り心を持っているようにと、考えるとよいでしょう。一日のうち、何かあるごとに、何度でも、心を神に向けて神に呼びかけ、語りかけていいのです。うれしいことがあったら、主よ、感謝します。賛美します。困ったことがあったら、主よ、助けてください。

不安があったら、主よ、お守りください。ともにいてください。良心に呵責を覚えることがあったら、主よ、私をきよめてください。聖霊によって強めてください。御子の十字架のゆえに赦しが与えられていることを感謝します。そして、何もなくても、神が御子によってしてくださったことのゆえに、神を賛美する。そしてさらに望ましいのは、日中も折に触れて、神の御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように、と主の祈りを自分の祈りとして神に捧げることです。このように祈ることは、自分自身を罠から守ることになるでしょう。ともかく、祈り心をベースにもつことです。改まって時を聖別して捧げる密室の祈りも必要ですが、歩きながらでも、電車の中でも、折に触れて神に心を向けて祈ることも大いに有益です。そして「すべてのことについて感謝しなさい」も、ベースにそういう心を持っているように、と考えると良いでしょう。神は、天地万物の造り主であり、全てのことを支配しておられます。雀一羽、神のお許しなしには、地に落ちることがありません。その神は、キリストにおいて私たちに対する、この上ない真実な愛を証ししてくださっています。

なので、すべてのことは、間違いなく、私たちにとって益となるように定められています。そのことは、つゆほども疑う余地がありません。ただし、それは私たちを御子の似姿に造り変える上で益となるということです。その栄光にあずからせるために、有益ということです。自己中心なあり方を助長するようなことではありません。目指すところを間違えていたら、益にはならないでしょう。ここが本当にわかるとーというより、受け入れられると、と言った方がよいでしょうかーすべてのことが益となるというみことばが、本当に腑に落ちるのではないかな、と思います。地上の歩みには、快適ではないこと、苦しいこと、悲しいこともあります。中には、どうしても感謝できないこともあるかもしれません。それを無理やり、感謝する必要はありません。悲しむべき時は悲しむのがいいのです。ただ、その時は感謝できないことがあったとしても、やがて感謝に導かれるのだという信仰に、神への信頼に、立つようにということです。心の深いところで神に信頼するのです。神は私たちを愛して、私たちのために、御子をさえ、お与えくださったのですから。この事実は、計り知れなく重いです。

先に、歩きながらでも、電車の中でも、祈るのがいいと書きましたが、それはそれとして、時を聖別して祈ることも、やはり必要だと思います。それがあって、そこにいのちが通ってこそ、それ以外のちょっとした一言の祈りもいのちが通うものになるという面があります。また、その祈りの中で、喜びを回復したり、感謝に思えなかったことが感謝に変えられたり、ということがあるでしょう。なかなか難しいかもしれませんが、最初は5分でも10分でも時間を聖別して、主に祈るときをもてるとよいと思います。ある人は、車の中が集中できると言ってそこを祈祷室にしたそうです。祈りに集中できる環境がないという方は、可能でしたら、教会に来て祈ってくださっても結構です。ちなみに、ウェストミンスター大教理問答の問178以下に、祈りについてまとめられています。それによると、「祈りとは、わたしたちの願いを神に、キリストの御名において、その御霊の助けにより、私たちの罪の告白と、神のあわれみへの感謝とともに、ささげることである。」とあります。

ここで「キリストの御名において」とは、私たちがキリストに従うという立ち位置に立ち、キリストの仲保の働きのゆえに、神がお聞きあげくださると信頼することと、続きます(問180)。また自分の罪の告白と、神のあわれみへの感謝とともに、というところは、特に自分の罪に落ち込んでいるときに、とても励まされるところです。私たちが神に受け入れられているのは、あわれみ、あわれみ、ただあわれみのゆえです。一にも二にも、百にも千にも、あわれみのみです。ただただあわれみのゆえに、神はキリストをお与えくださったのです。そのことを覚えると、祈りに向かう意欲と元気がわいてくるのではないでしょうか。主が、香の壇を一番近くに、「贖いのふた」の前に置かれました。まるで、私たちが来るのを待ち構えておられるかのようではありませんか。主は私たちが御前に祈るのを望んでおられるのです。主との交わりをもつことを待っておられるのです。「贖いのふた」=十字架を用意して。その主の御心を思って、私たちも祈りのときを進んでもつことができますように。