
日々、主との愛と信頼の関係の中で、主に従うことが、クリスチャン生活の基本。
前回まで、アロンとその子らを祭司職に任じる任職式を見てきました。今日の38節以下は、その祭司たちが毎日、行うべき務めが記されます。もちろんこのほかにも、奉仕がありましたが、毎日、神にささげるべき、もっとも基本となるささげものについて、記されます。それは、神と民との、本来あるべき基本的な関係が教えられていました。そして最後に、主なる神が、彼らを奴隷の家エジプトから連れ出し、十戒をはじめとする律法を与え、幕屋、祭司の衣裳、祭司職の任職式と、長々と教えてきたのは、何のためだったのか。その目指していたところ、神が切実に願っておられたことが、明かされます。
38節から、祭司が一歳の雄羊を、毎朝、毎夕、一頭ずつささげます。全焼のいけにえです。朝に夕にとは、常に、24時間、絶え間なく煙を立ち昇らせておくということです。それに上質のオリーブ油を混ぜた最良の小麦粉で作ったパンと、ぶどう酒を添えます。全焼のいけにえが、人格、いのちを神にささげることー献身―とすると、パンとぶどう酒は、労働、収穫、わざを神にささげることでしょうか。オリーブ油は聖霊を象徴しますから、聖霊に導かれて、助けられて行う良いわざ。そしてこれらはすべて芳しい香りのための、主への火による捧げものでした。怒っている神をなだめるためではなくて、神を喜ばせようと、神を愛する心、お慕いする心からささげられる、霊のささげ物です。それを神は喜ばれる。これを、毎日、絶え間なく、会見の天幕(聖所)の入り口の前にある祭壇の上で、焼いて煙にして、天に立ち上らせます。すると、その所で主が、彼らに会い、彼らに語られるというのです。42節「これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。」「その所で」が繰り返されて、強調されています。
全焼のいけにえがささげられる所で、主はお会いくださり、お語りくださると、主は言われるのです。全焼のいけにえは、献身を表しました。羊のすべての部分を焼いて、煙にして、神にささげるのですから、わかりやすいと思います。これは、第一義的には、キリストを表しました。キリストが、私たち信じる者の代表として、完全な従順を神に捧げられたので、私たち信じる者すべてが、神に受け入れられました。神と私たちとの関係は、キリストによって保証されています。そこに私たちは平安を得ることができます。と同時に、これは本来あるべき、神と人との関係を表しています。全焼のいけにえは、キリストのことであって、自分には関係ない、ということではない。人の、神への献身は、創造のはじめから定められていた関係です。神は人を愛し、慈しんで、あらゆる良いものを与えてくださった。人も、その神のご愛、慈しみを注がれて、心から神を信頼し、お慕いし、心からお従いする。神と人との相思相愛の関係です。神が人に全き献身を求めるのは、無理なことや不当なことを求めているのでも何でもなく、本来あるべき当然のこと。
魚が水の中を泳ぐのが、何も不思議なことでないように、トンビが悠々と大空を飛んで落ちないのが、何も特別なことでないように、人が神に信頼して、喜んで神のことばに従い、行うのは、まったくもって自然なことだったのです。言うならば、そこが私たち人間のスタート地点。そのスタート地点は、クリスチャンにとっても変わりません。また、ここまで幕屋のこと、祭司のことなど、幕屋礼拝のための指示が与えられたのは、主と民とが、契約を結んだ後でした。主が十戒をはじめとする律法を示したあと、民はそれらをみな、行います、と応答しました。主のことばを守り、行うという意思表示をもって、契約を結びました。そのあとで、幕屋礼拝―主が彼らとともに住むための制度―が与えられました。そこで、主は彼らに会い、語られるのです。主のことばに従うという意思表示の上に、契約の上に、幕屋礼拝という恵みの制度が与えられたのです。もちろん、完全な従順など、私たちにはできません。なので、神は尽きない赦しを用意してくださいました。私たちには御子キリストによる、無尽蔵の赦しが与えられています。
それは、私たちを不従順、不信仰にとどまらせるための恵みではなく、主を信頼して、従うようにと、そこに向かわせるために備えられているものです。私たちは行いによって神の民とされたのではありませんが、神の民とされたので、神の民にふさわしく、神に信頼し、お慕いして、神のみことばを守り、行う。神との相思相愛の関係の中で、喜んで神への従順をおささげする。その本来あるべきところで、神もご自身を現し、お語りくださるという、親しい交わり、神の臨在の祝福が用意されているのでしょう。キリストを信じると言いながら、キリストに従う意思がないなら、本来あるべき場所に立っていないということです。それは神が出会ってくださり、語ってくださる場所に立っていないということです。神に信頼して従うという、この立ち位置に立つことの大切さを覚えたいと思います。案外、おろそかになっているかもしれません。
こうして主は、これまで25章以下、語られてきたことの、いわばまとめとして、なぜ、長々と幕屋や祭壇、それに祭司職について語ってきたか、何を願って、何を望んで、このように語ってきたか、語られます。いや、主が彼らを奴隷の家エジプトから連れ出したところまでさかのぼって、胸の内を明かされます。胸が熱くなるような44-46節。「わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。そうして、わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。こうして彼らは、わたしが彼らの神、【主】であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出したことを知ろう。わたしは彼らの神、【主】である。」これまでのすべてのことは、主が彼らのただ中に住まれ、彼らとともに歩み、彼らの神となるため。神と人とが、相思相愛の関係で、ともに住む。それこそ、本来の神の国でしょう。すでにイスラエルは、神の民、主は彼らの神であると何度も言われてきましたが、それにふさわしい実質が整うということでしょうか。つい先ごろまで、奴隷だったのです。それが神の祭司の王国となるのです。
その喜びを謳歌するかのように、繰り返し「わたしは彼らの神、主である」と言われる主。繰り返し、「わたしは、彼らの間に住む」と言われる主。まるで、うれしいことは、一回言っただけでは収まらず、何度も言うように。神は今、私たちに対しても、同じ思いを持っておられるに違いありません。私たちは、自分の心から、主を追い出していないでしょうか。私たちが主とともに歩むということは、主に信頼して従うということです。目の上のタンコブのように感じて、遠ざけていないでしょうか。主の方は、間違いなく私たちを愛しておられます。私たちも主を愛して、主と相思相愛の中、主に喜ばれる霊のささげ物-従順-をおささげしたいものです。「 げに主は 依り頼みて 従う者を 恵み給わん 」新聖歌316番今日の個所は、全焼のいけにえがあって、主が親しく臨んでくださるという原則が読み取れます。主に信頼して、従うところに、主もまた親しく臨んでくださる。人生の主は、主か、自分か。自分の人生は主に従うためにあるのか、自分のためにあるのか、という根源的な問いにも通じるかもしれません。イエス様は仰いました。ルカ 9:23-24、新約p. 1309:23 イエスは、みなの者に言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。主に従う人生を歩むためには、主が「このように祈りなさい」と教えられた「主の祈り」に自分を合わせることが有効です。父の御名があがめられることが、自分の願いとなるように。父の御国が来ること、父が私たちをご支配くださることが、自分の願いとなるように。そして父の御心が行われることが、自分の願いとなるように。自分の願望が行われることでなく、父の御心が行われることが…。生活のベースに、神への献身・従順があるということです。完全ではないし、そうできないときはある、というか、そうできていないときが、ほとんどかもしれない。でも、ベースには神への献身・従順の思いがあるというあり方。ペテロは言いました。ペテロの手紙第一1:1-21:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、…選ばれた人々、すなわち、1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。
どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。イエス・キリストに従うように選ばれた人々、と呼んでいます。そこが本来の立ち位置だと。同時に、そこからはずれてしまう、人間の弱さを知る老ペテロはすぐに続けて「また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」とも呼びます。すべての罪を洗い流すキリストの血、行いによらず、私たちを聖徒とするキリストの血の注ぎかけを受けている私たち。私たちが神のものであるのは、あくまでもキリストの血によることという、その救いの土台を確かめることを忘れないのです。そのような基本的な立ち位置をおさえるとともに、具体的に、日々の生活において、聖書のみことばを身近なところで行うことも大切です。新約聖書の書簡、特にパウロの書簡は、ほとんど、前半が教理、後半が実践的な勧めという構成です。そこに具体的なことが書いてあります。夫婦、親子、主人と奴隷の関係で、どうすることが神の御心か。主に従うことか。主への従順と言っても、手足を動かして何かをすることだけではありません。全焼のいけにえは内臓も焼いてささげましたが、それは内面が神にささげられることを表していました。
それを適用すれば、神に信頼して、神の御手にわが身をお委ねするという信仰の決断、決心。これも神への霊のささげ物、信頼から出る従順、献身でしょう。本当の献身は、本当に信頼していないとできないもの。委ねる相手の愛と、任せるに足る方という信頼があって、はじめて本当にわが身を委ねることができます。とすると、神にわが身を委ねることは、神への最高の霊のささげ物なのかもしれません。いづれにしても、神が願っておられる従順とは、愛と信頼からなる自発的な従順。恐怖によって隷属させることではない。相思相愛の関係の中でささげられる従順こそ、神がお喜びになる、芳しい香りです。イエス様が最後の晩餐の席上、語られたことばには、その思いが込められているのかもしれません。ヨハネ14:15もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。ヨハネ14:21わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」ヨハネ14:23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。
そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。そして、ヨハネ 14:24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。…神がどれほど、私たちを愛してくださったか、今も愛しておられるか、私たちはわかっていないのが、実情だと思います。聖霊によって、そこのところに目が開かれますように。そして神の愛のうちに、神を信頼し、神に従う、幸いな信仰生活へと導かれることを祈ります。