礼拝説教要旨 2023年9月3日
祭壇に触れるものは聖となる
(出エジプト記 29:35~37)
今日の要点

キリストを信じた者は、みな、キリストの血潮によって聖なるものー聖徒―とされている。

はじめに

29章は大祭司・祭司の任職式について記していますが、今日はその最後です。任職式が七日間にわたって行われることと、祭司の働きと特に密接な関係のある祭壇の贖いと聖別について記しています。ここから今日の私たちに適用すべき霊的教訓を得たいと思います。

① 任職式は七日間、行われた:徹底的に罪の贖いをする

これまで罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、そして任職のいけにえの三つを見てきました。牛1頭、雄羊2頭をほふり、解体し、焼き尽くし、あるいは煮て食べるというのですから、一日がかりだったと思われます。アロンとその子らを祭司職に任命するには、これを七日間、行わなければなりませんでした。おそらくそれら三つのいけにえを毎日、ささげたと思われますが、ここには「罪のためのいけにえ」だけが記されます。七日間、毎日、祭司職に任じられる彼らの贖罪のために、罪のためのいけにえとして、雄牛一頭をささげなければならないと。牛、それも雄牛は、とても高価なものです。それが、七日間、計七頭、ほふられます。毎日、自分が手を置いて、自分の罪を代わりに背負った牛がほふられ、血を流される。大量に流れ出ます。そしてその血を祭壇の4本の角に塗り、土台にドボドボと注ぐ。それを七日間、行う。言うまでもなく、動物とはいえ、ほふるのは気持ちのいいものではありません。それは当時のイスラエル人にとっても、同じだったでしょう。彼らは牧畜を生業としていたので、現代日本に住む私たちよりは慣れていたとはいえ、です。

それも一日、二日ならまだしも、三日、四日になるとちょっと嫌気がさしてきて、五日、六日、七日となったら、もう吐き気がしたかもしれません。しかしそれが必要だったのでしょう。七は完全数ですから、徹底的に彼らの罪の贖いをしたということでしょう。七日間、こうすることによって、彼らは、自分にはこれほどの罪があったのか…、と深く心に示されたでしょうか。人と比べていただけではわからないけれども、神の御前には、どれほど深い罪を宿している者なのか。言葉だけよりも、このような実物教育は教育効果があったでしょう。お金や物ではない、手塩にかけてきた自分の雄牛、野生のではない、自分の家畜のうちから愛着のある雄牛をとって、自分の手でほふることによって、心に痛みを覚えるときに、罪というものの支払う報酬が何であるか、罪というものがいかに悪いものであるか、忌まわしいものであるかを覚えさせられるのでしょう。犠牲をささげることによって神に仕える祭司は、神の聖さと、人の罪の深さを知ることは、必要なことでした。また他方、この定めは、それほどの罪深い者をも、神はお見捨てにならず、罪の贖いの道を与えてくださったということでもあります。

人間の罪がいかに深くても、それに付き合って、それを贖うだけの血を流してでも、人を赦したいと切望しておられるということです。人の側からすれば、こんな手間のかかることを…と思ってしまいそうですが、神の方こそ、こんな手間のかかることをせずに、罪びとを滅ぼしてしまうこともできたのです。神が、こんな手間をかけてまで、彼らを赦し、受け入れる手立てを用意してくださったのは、ただただ罪びとに対する一方的な憐れみ、恵み、ご愛によることです。感謝すべきことです。ここでも、「私たちは自分が思っている以上に罪深い。と同時に、私たちは夢にも思っていないほどに、神に愛されている」ということを覚えることができるでしょう。

② 祭壇も贖いがなされた:すべての被造物が罪の影響を受けている

それから少し意外なのは、祭壇のための贖いをするということです。物にも罪があるのでしょうか?そんなはずはありません。ただ人間の罪の影響は、すべての被造物に及んでいるということはあります。それで祭壇のためにも、罪のためのいけにえがささげられて、贖われなければならなかったということのようです。祭壇も、七日間にわたって、徹底的に罪の影響が取り除かれなければならなかったのです。最初、人間は、被造物の冠として造られました。人は、神の似姿に造られ、地上において神の代理人として被造物を治めることによって、神をあらわすものでした。そういう意味で、神の子と言われました。その人間が神に背き、神から離れてしまったときに、人間の支配下に置かれていた世界、被造物全体が狂い出しました。罪を犯したアダムに対して、神は「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。」と宣告されました。地はいばらとあざみを生じる所となりました。自然は多くの恵みを供給してくれますが、ときに凶暴になって、災害をもたらします。人の罪ゆえに、呪いを受けているからです。

パウロは、被造物自体が滅びから解放されることを待ち望んで、うめいていると言いました(ローマ8:19-22, 新約p. 301)。被造物の冠として造られた人間の光栄と共に、その責任の重さを覚えさせられます。しかしここにも、罪を贖う神の恵みは用意されて、罪のためのいけにえを七日間にわたって、祭壇の上でささげることによって、祭壇は罪から贖われ、そして油を注いで聖別することによって、祭壇は「最も聖なるもの」となりました。

③ 祭壇に触れるものはみな、聖なるものとなる

「最も聖なるもの」となった祭壇は、特別な効力をもつようになったようです。祭壇に触れつものはみな、聖なるものとなるというのです。これに関連して、イエス様が律法学者たちに、興味深いことを言われました。当時、ユダヤ人たちは、宗教行為について事細かに、それこそ箸の上げ下ろしまで、細かな規則を作っていましたが、彼らは誓約について、「祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」と言っていました。それに対してイエス様はこう言われました。「…供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」(マタイ23:18-20、新約p. 48)。イエス様は、この出エジプト記の個所を念頭に置いておられたのでしょうか。祭壇を、ただの、いけにえを燃やすための台くらいに思っていると、いけにえが大切であって、祭壇はたいして重要ではないと思ってしまうところです。しかし、祭壇はただの、いけにえを燃やすための台ではなかったのです。聖なるものとするという、必要不可欠な役割があったのです。

もちろん、いけにえは大切ですが、祭壇なしには、いけにえだけでは、受け入れられないのです。牛でも羊でも穀物でも何でも、神に捧げるものは、最上のものを選びますが、それでも、罪の影響を免れているものは、一つもありません。それらのささげものが受け入れられるためには、祭壇で、聖なるものとされなければならないのです。そのために、祭壇は徹底的に雄牛の血をもって贖われて、「最も聖なるもの」とされました。「 十字架の血に きよめぬれば 」新聖歌45番今日の個所で、祭壇に触れるものは、みな、聖なるものとなるというのは、印象的です。福音書の中に、信仰をもってイエス様の衣のすそに触れたとたん、長年の病がスーッと癒された女性がいました(ルカ8:44)。ツァラート(一種の伝染性の皮膚病)に冒された人に、イエス様が触れると、その瞬間、ツァラートがきよめられたこともありました(マタイ8:3)。今日、イエス・キリストを、神が、世を救うためにお遣わしくださった救い主と信じるなら、その瞬間にその人は「聖なるもの」とされます。とは言っても、残念ながら、病がその瞬間に癒されるわけではありません。からだが贖われるのは、復活の時です。

しかし、霊的な身分、立場は、キリストを信じた瞬間に、すべての罪から贖われて、神に受け入れられます。世から贖い出されて、神に属する、聖なるものとされます。聖徒となるのです。霊的な立場は、ガラリと変わります。キリストを信じる前と後で、人の目には変わらなく映っても、神の御目にはまったく違うものに見えているのだと思います。大祭司の胸当てにあった宝石のように、輝いて、尊いものとされているのだと思います。使徒パウロの時代、コリントという町はとても風紀の乱れた町でしたが、そこにも福音が宣べ伝えられると、信じる者が起こされ、教会ができました。ところが、キリストを信じはしたものの、実生活はこれまでの悪習をひきずって、とてもクリスチャンとは思えないありさまの人もいました。「神の教会と言うより、サタンの会堂と呼ぶ方がふさわしい」と言われるほどでした。しかし、パウロがそのコリントの教会に向かって書いた手紙の書き出しは、次のようなものでした。第一コリント1:1-21:1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ…から、1:2 コリントにある神の教会へ。

すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。…コリントの教会の人々を、聖徒として召され、キリストにあって聖なるものとされた者と呼んでいるのです。お世辞を言っているのではありません。彼らは、ただキリストの血潮のゆえに、神に受け入れられ、聖徒とされたのです。それは、いっさい、彼ら自身の聖さによらず、ただキリストの血潮を受けているゆえです。身分、立場はすでに聖なる神に属する、聖徒とされている。だから、生活においてもそれにふさわしく歩むようにと勧めるのです。人は自分が何者であるかという自覚によって、生き方が変わるのではないでしょうか。私たちも、神の御子の尊い血潮によって、世から取り分けられて、罪の赦しを頂いて、神に属する聖徒なのだということを、改めて心に刻みましょう。聖徒というと、自分では気恥しいかもしれません。でも、コリントの教会が聖徒と呼ばれたのと同じように、私たちが聖いという意味ではなくて、キリストの血潮のゆえに、聖徒なのです。実質は後からついてくればいいのです。

遅々とした歩みでも、神は尽きない赦しを用意しておられます。そして神は聖霊と御言葉を与えてくださっています。ですから、私たちは、そのように、自分自身のことを聖徒と自覚するべきです。キリストの血潮のゆえに、キリストが聖なるものとしてくださったから、聖徒だと。神にそれほどまで愛され、この上ない尊い血潮を流してまで、神のものとされた、愛されている聖徒なのだと。雄牛七頭どころではない、全宇宙とその中にあるすべてのものを集めたよりもはるかに尊い、生ける神の御子の、この上なく尊い血潮を心に塗られて、神の聖なるものとされていると。そして、それゆえふさわしい歩みに励みましょう。コロサイ3:12-13、新約p. 3933:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦すこと…。これらのうち、まずは一つでも二つでも、今週、心に留めてみてはどうでしょうか。

生まれながらの肉の性質にとっては従いたくないことも、あるかもしれませんが、そのときこそ、チャンスです。祈りの中で、祈りの格闘の中で、その思いを十字架につけて、聖霊に励まされて、みことばに従うときに、私たちはイエス様の似姿へと造り変えられていくのでしょう。それはまた、神への芳ばしい香りのささげものです。最後に、神の御子の尊い血によって聖徒とされた者たちに与えられている希望を確かめておきましょう。エペソ1:18、新約p. 374。パウロの祈りです。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、(を知ることができますように。)この望みに励まされて、神に感謝をささげつつ、キリストの血による神の聖徒として、新しい一週間に歩み出しましょう。