礼拝説教要旨 2023年8月27日
贖いに用いられたものを、食べる
(出エジプト記 29:26~34)
今日の要点

キリストの十字架は、私たちを贖うだけでなく、霊を養い、成長させるものでもある。

はじめに

大祭司・祭司の任職式を見ています。前回は任職のいけにえの前半部分、儀式的な部分を見ました。今日はその続きの後半部分、なんとそのいけにえに用いた羊の肉とパンを、聖所の前で「食べる」という部分です。その前に少し挿入的な部分(26-30節)がありますが、今日の中心は「食べる」というところで、私の得意分野でもあります。本題に入る前に、この任職のいけにえのベースとなっているのは、「和解のいけにえ」(28節)と呼ばれるものです(2017版「交わりのいけにえ」)。その特徴は、前半でいけにえの一部を祭壇で焼いて煙にして主に捧げ、残りをそのとき奉仕した祭司と奉献者(いけにえを持ってきた人)とで分け、奉献者は聖所の前でその肉を食べるという形式をとることです。これは、主とともに食事をするということです。同じものを分け合って食べて、いっしょに食事をするということは、喜ばしい、親しい交わりを意味します。これが和解のいけにえの特徴です。今日見る任職のいけにえも同じように、羊を捧げたアロンたちが主の前で、主と食事をともにし、親しい交わりをもちます。

「和解のいけにえ」と言われるのは、主と和解するためのいけにえという意味ではなく、和解したことを表わす食事の交わりだからでしょうか。その意味では「交わりのいけにえ」は、そのものズバリです。主との喜ばしい食事の交わりのとき。先にささげられた罪のためのいけにえも、全焼のいけにえも、ここを目指すものだったのです。主と主に仕える民との親しい交わり、その聖い喜びです。今日は、ここに表されているキリストを学び、私たちも生ける神との交わりをさらに深められることを願いつつ、読んでいきたいと思います。

① 主にささげられたものが、主から祭司に与えられる:(26-30節)

ここでは、モーセが祭司の代わりにいけにえを捧げる奉仕をしているので、その奉仕に対する報酬として羊の胸の肉がモーセに与えられます。と言っても、羊の胸肉を切り分けて、それをそのまま直接モーセに渡すわけではありません。まず奉献物として主に向かって揺り動かしてからです。主に向かって揺り動かすとは、祭壇に向かって(あるいは上に向かってという説もあり)差し出して、そして自分のところに戻すという動作です。これは、まず主に捧げ、そして主から頂くということを表します。その後で、モーセのものとなります。そして以後、これにならって、祭司が和解のいけにえをささげる奉仕をするときには、同じように彼らが受ける分の肉を、主に向かって揺り動かしたあとで、それが彼らに与えられることが、永遠の定めとして定められました。どうして、わざわざ主に向かって揺り動かすという動作をしてから、祭司たちに与えるのでしょう。そんな手間を省いて、最初から彼らの分として与えてもよさそうなものなのに。しかしそれは、祭司たちを養うのは、あくまでも主であることをわきまえさせるためだったと思われます。民が祭司を養っているのではないということです。

つまり、民が養っているのだから、祭司は民の要求に応じて奉仕するべき、という理屈を断っているのです。主が彼らを養い、彼らは主の御心に従って奉仕する。それが祭司の本分。そこを間違えるな、と。のちにアロンは、モーセ不在の時、民の強い要求に押されて、屈服して、民に罪を犯させてしまいました。その結果、イスラエルに厳しい裁きをもたらしました。祭司は、主の御心に反することは、民の要求にも、強い要求にも、ノーと言わなければならないときがあるのです。祭司も民も、弱さをもつ人間ですから、民が祭司の生活を養っていると勘違いしていたら、その辺があやしくなるのかもしれません。それで、目に見える形で主に向かって揺り動かしてから、祭司に与えられることが、定められたのでしょう。29-30節には、大祭司職がアロンの子孫に代々、受け継がれ、前に見た大祭司の特別な衣装、純金や宝石がふんだんにあしらわれた衣裳も、代々、受け継がれるものとされます。旧約の時代の祭司職は世襲制でした。そして受け継ぐときには、その都度、任職式を行います。それは七日間にわたって天幕にとどまって行われました。その間、幕屋の囲いから外に出ることはできず、もちろん家にも帰れません。

彼らが徹底的に主に聖別されることを、本人たちにも、民にも、徹底的に認識させました。

② 贖いに用いられたものを、食べる:(31-34節)

さて、羊の肉を食べるところです。羊の肉は、最近、健康ブームで注目されてきているそうですが、まだあまり日本人にはなじみがないかと思います。モーセが受け取った羊の胸の肉とは、どういうものだろう、鶏の胸肉とは違うんだろうな、と思って調べてみたら、これは骨ごとカットするといわゆるスペアリブと言われる部分のことで、けっこう濃厚な脂肪がついているそうです。やはり鶏の胸肉とはだいぶ違いました。しかし、羊の油は、魚や植物性食品と同じ不飽和脂肪酸で、動脈硬化や血栓予防、血圧を下げる、悪玉コレステロールを減らすなどの作用があるそうです。ちなみに、羊の肉には必須アミノ酸が多く含まれており、免疫力をアップさせるリシン、アレルギーを和らげるメチオニン、食欲を抑えるフェニルアラニンなどが豊富で、さらにビタミンB1、B2を含み、これは摂取した栄養素をエネルギーに変換するのを助け、脂肪の蓄積を防ぐ効果が期待されます。さらに、L-カルニチンという、脂肪の燃焼を促進する物質が多く含まれているのでダイエットにもよく、ラム肉は低カロリーでヘルシー!と。以上、あるお肉屋さんのHPにあった情報でした。そんな体によさそうな羊の肉を、聖所の前で煮ます。

「焼く」のは主への火によるささげものですから、それと区別するために煮ると限定されるのでしょう。もちろん、いけにえとしてではなく、普段、食べる分には焼くなり煮るなり、好きにしていいのです。この聖所の前で煮た肉と、先にかごに入れておいた、種を入れないパンとを、アロンとその子らがここで食べます。そのことについて33節で言われている言葉が目を引きます。「彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。…」ここでわざわざ、贖いに用いられた、その肉とパンを食べる、と言っています。何か意味ありげです。そしてこれらの肉とパンは聖なる物であって、ほかの人は食べてはならないし、また朝まで残ったら、火で焼いてしまわなければならない、とされました。もったいないからと、食べてはいけないのです。もちろん、これも普段はいいのです。この肉とパンは特別だから、聖なる物だから、禁じられているのです。ところで「交わり」にあたるギリシャ語「コイノニア」の元々の意味は、共有するという意味です。たとえば、一つのビジョンをみんなで共有し、そのために一人びとりが責任なり何なりを分け合って引き受けるのもコイノニアです。

クリスチャンがあかしをしたときに、その一つの経験をみんなで分かち合い、共有するのも、コイノニアです。本当はこれがクリスチャンの交わりの大切なところです。ともかく、一つのものを共有して、分け合うという交わりです。この任職に用いられた、一頭の雄羊も、主とモーセとアロンたちで分け合いました。ここでは特に、主とアロンたちの交わりが表されているのでしょう。あたかも同じものを食べる食事の交わりのように、羊の一部は、祭壇で焼かれて、煙となって天に立ち上り、神に喜ばれる芳ばしい香りとして神に受け入れられ、他の部分は、聖所の前で煮て、アロンたちが食べる。天と地で、神と人とが、ともにほふられた羊を味わうのです。ほふられた羊を共有するのです。そこに神と人との真実な交わりがあり、聖い喜びがあるのです。この任職のいけにえの羊は、キリストを表すものでした。「 主にありてぞ われは生くる 」新聖歌511番任職のいけにえの雄羊が、キリストを表わすとすると、祭壇で焼かれて煙として天に立ち上ったものは、キリストの内面を表わすのでしょうか。父なる神への心からの信頼、愛、そこから生まれる心からの従順。

また私たちを愛して、私たちのために私たちの罪を背負って身代わりに、自ら進んで十字架にかかられた犠牲的隣人愛。そしてそれらに伴う祈り。そういった霊のささげ物が天に立ち上り、父なる神に芳ばしい香りとして受け入れられた。そして私たちも、そのキリストのお姿を思い、キリストが自分のためにしてくださったことを思い、キリストを心において味わうときに、私たちも、キリストを父なる神と共有することになるのではないでしょうか。その十字架上でほふられたキリストを共有することにおいて、真実な、神との交わりがあるのではないでしょうか。このような父なる神との交わりを深められたいものです。それは私たちに聖い喜びを与えるものとなるでしょう。また、キリストがしてくださったことに思いを巡らし、味わうことによって、私たちが思っている以上の霊的栄養が、私たちの心に供給されるのでしょう。イエス様は、ご自分のことをパン、また肉と仰いました。ヨハネ6:51、新約p. 187わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

キリストというパン、また肉を食べるとは、キリストが、私たちのために十字架にかかってくださったと、信じることです。単純なことですが、これを信じる決心をするときに、罪のまったき赦しが与えられ、私たちは死から永遠のいのちに移されます。神とともに生きる新しいいのちが始まります。キリストとともに生きる新しいいのちが始まります。そしてこの福音を信じることは、一回きりのことではなくて、その後も、日々、必要なことなのです。それこそ、毎日食事をとる必要があるように、私たちは福音を毎日、心に思い巡らして咀嚼し、それを飲み込むように心に受け入れて、福音から霊の栄養を供給され続ける必要があります。そうして、食べたものによって体が養われ、作られるように、心に取り込んだキリストによって、私たちの霊が養われ、形作られていくのでしょう。先週、「今日のみことば」でピリピ2:13-16(新約p. 384)を取り上げました。2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。…13節はいろんな場面で用いられるみことばです。それはそれでよいと思いますが、本来の文脈は、へりくだって、神の御心に従ったイエス様に従いたい、という願い(志)が起こったならば、それは神からのものであって、神があなた方の内に力を働かせて、その願いを実現に至らせる。しかし神の御心に従おうとするときに、ときには面白くないこと、肉にとっては不快なこともある。だから、つぶやかず、疑わずに行いなさい、と続きます。そして、そうすれば、そこに書かれているような、すばらしい恵み、栄光にあずかることになると、指さして励ましています。そして、この箇所の前の2:6-9には、十字架に至るまで従われたキリストのことが書かれているのです。2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。このみことばは、繰り返し読み、暗唱してもよいかもしれません。キリストが私たちの霊のからだの血となり肉となるようにといいますか。先に単純な福音と言いましたが、福音は単純ですが、深いものです。一生かかっても味わい尽くすことができないほど、計り知れない霊の滋養があります。このキリストを天の父と共有し、交わりが深められますように!