礼拝説教要旨 2023年8月20日
耳、手、足の聖別
(出エジプト記 29:19~25)
今日の要点

まず主のみことばに聞き、そして御言葉を実行することによって、味わえる祝福がある。

はじめに

大祭司・祭司の聖別任職式の続き。洗い、着衣、油注ぎ、そして罪のためのいけにえ、全焼のいけにえをささげるところまで見てきました。ここまではいわば、準備段階です。次にいよいよ任職のいけにえになります。これは前半の儀式的な部分と、後半の食事をする部分とに分かれています。今日は前半部分を見ていきます。これまでと同じように、今は万人祭司の原則により、クリスチャンすべてがキリストに仕える祭司です。今朝も、現代の私たちに適用すべき霊的原則を汲み取りたいと思います。

① 耳と手と足の聖別:(19-20節)

ささげられるのは雄羊です。これまで同様、任職されるアロンとその子らが、「この羊は私の代わりです。私の罪をこの羊に負わせます」という思いを込めて、その羊の頭に手を置きます。そして羊をほふります。彼らの罪を背負った羊が、彼らの代わりに血を流すことによって、彼らの罪の赦しがなされたことを覚えます。これはキリストが、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架上で罰を受けてくださったことによって、私たちの罪が赦されたことを表します。神とともに生きる新しいいのちは、罪の赦しからはじまり、その後もずっと罪の赦しだけが土台であることを何度でも思い起こしましょう。すべての土台が罪の赦しであるとは、何とありがたいことでしょう。ここに神の深い知恵を見る思いがします。ほふった羊の血は、アロンとその子らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指につけます。これは任職のいけにえに特徴的なことです。「右」であるのは、左右両方を代表して右ということです。親指も同様、両手も両足ともすべてということです。これに羊の血をつけるのは、これらを罪からきよめて、神のために用いるよう聖別するということです。

罪の赦しはすでに与えられていますが、ここでは特に祭司としての働きのために、これらの部分がきよめられる必要があることを意識するためでしょう。神のみことばを聞くための耳。そしてそのみことばに従って、神に仕えるための手と足。神のみことばを聞かずに、走り出して、御心にかなわないこと、御心と反対のことをしていたということのないように。また逆に、神のみことばを聞くだけで留まってしまい、そのみことばを行なわないということもないように。みことばを熱心に学び、熱心に行うこと。これは信仰生活の両輪です。残りの血は一部を残して、祭壇のまわりグルリにふりかけます。羊の血に囲まれて、罪の赦しの中で、祭壇の上で祭司による奉仕が行われることを示しているのでしょう。神に仕える働きは、徹頭徹尾、罪の赦しの中で行われる。神の絶対的なきよさを覚え、自らの罪の深さを覚え、そして神の底知れない赦し、ご真実、ご愛を覚えさせられるのです。

② 血と油による聖別:(21節)

次に、一部残しておいた血と、注ぎの油(特別に香料など調合された油)とを、アロンとその装束、アロンの子らとその装束にふりかけます。油は香料入りなので、良い香りがすると思いますが、血と油ですから、見た目は汚くなったのではないか、と思います。が、霊的には、これこそが聖められるために必要なことだったのでしょう。血はキリストが十字架で流された血を、油は聖霊を表します。黙示録には、天にいる聖徒たちが「衣を小羊の血で洗って、白くした」と言われています(7:14、新約p. 484)。血で洗ったら、赤くなるんじゃないか、と思いますが、キリストの血はすべての罪、咎、汚れを洗いきよめるものなのです。そして聖霊は、神のご用のために世から取り分けて、神のものとされたことを表すのでしょう。私たちも、キリストを信じたとき、神のものとなったという聖霊の証印を押されました(エペソ1:13、新約p. 373)。また聖霊は、私たちの救いを導いてくださるとともに、奉仕のために聖別し、賜物を与え、力を与えてくださいます。アンテオケの教会では、聖霊がパウロとバルナバを宣教のために聖別するよう、語られました(使徒13:2、新約p. 253)。

万人祭司として主に仕える奉仕は、キリストの十字架の血潮を受け、聖霊を注がれた人によってなされます。キリストを信じた人は、みな、その両方を受けています。

③ 祭壇の上で焼いて煙にするもの:主への芳ばしい香り(22-25節)

さて、羊のからだについては、焼いて煙にして主にささげる分と、モーセの奉仕に対する報酬として与えられる分と、羊の奉納者であるアロンとその子らが聖所の前で食べる分と、三つに分けられます。そのうち、22節は主にささげる分についてです。前に見た罪のためのいけにえとほぼ同じ、脂肪と肝臓、腎臓を焼いて煙にします。これに右のももを加えるのは、任職のいけにえに独特なことですが、説明すると長くなるので省略します。これに種を入れないパンの中から、丸型のパン、油を入れた輪型のパン、それにせんべいを各1個ずつ、計3個。パンは、人の勤労・労働の実ということで、ここではキリストが地上で行われたみわざを表します。それはパン種(罪を象徴)のない、きよいものでした。これらのきよいパンと先の羊の内臓とを、アロンとその子らの手のひらに載せ、彼らはそれを主に向かってー祭壇に向かってということのようですー前後に揺り動かす、という独特な動作をします。そのココロは?というと、まず、ささげ物を神のものとしておささげし、それから再び奉献者に与えられることを表す、と理解されているようです。

そののち、モーセは彼らからその手の上にある物を受け取り、前回見た全焼のいけにえといっしょに祭壇の上で焼いて煙にします。これは「なだめのかおり」(新改訳第3版)でなく「芳ばしい香り」(新改訳2017)として、煙となって天に立ち上ります。一番最初に「罪のためのいけにえ」がささげられたので、すでに罪の赦しがなされ、神との関係は回復しているので、神の怒りを恐れる恐れから「なだめる」ためでなく、神の恵み、慈しみ、ご愛を受けているので、その神への愛から、感謝の心から捧げるものだからです。それで、英語の聖書ではsweet aroma(甘美な香り)と訳しているものもあるということは、前回紹介した通りです。私たちが主にささげるわざも、神に怒られないように、罰が当たらないようにするのではなくて、すでにキリストによって神に愛されている子とされているのですから、神を喜ばせようとしてなされるものです。それこそ、御前に芳ばしい香り、sweet aromaです。「 成し給え汝が手の 器なるわが身と 」新聖歌394番さて、今日の箇所から、現代の私たちに適用するべき霊的原則は、耳、手、足に小羊の血が塗られて、きよめられたところです。順番に見ていきます。

耳の聖別。人を造られたのは神です。そして神は、私たちがまず何よりも神のことばを聞くようにと、二つの耳をお与えくださいました。もちろん、ほかに音楽を聴いても落語を聞いてもいいのですが、第一に聞くべきは、神のことばです。まず神によって教えられて、神のことばに従って、生きる。そのとき、人々の間に調和があり、平和があり、従って祝福が流れて、神の国となります。神はもともと、この世界を祝福に満ちたものとして造られました。ところが、人は神のことばに聞こうとせず、めいめいが自分勝手な道に進み、自我を押し通そうとするところから、争いが起こり、悲劇が起こります。生まれながらの人は、罪のゆえに、神のことばに対して耳をふさいでいる状態です。私たちも、気が付いたらみことばを何日も何週間も何か月も聞いていなかったということがないでしょうか。それは、人間が本来造られたあり方から、遠くかけ離れた状態です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とイエス様は言われました。私たちを本当の意味で生かすのは、神のみことばです。この世界を造り、万物をすべ治めている方のみことば。

そして私たちを愛して、御子をさえくださった方が、私たちのためにと語りかけておられるみことばです。日々、まず神のことばを頂いてから、一日を始めることができたら、どれほど幸いなことでしょうか。羊は羊飼いの声を知って、ついていくとも主は言われました。ということは、羊飼いなる主は、私たちに語りかけておられるということです。私たちの霊の耳がさらに開かれて、主のみ声を聞き分けることができるようにと、切に願います。世の中にはいろんな声があふれています。いろんな人がいろんな意見を言います。誰の、どの声を聞くか、というのは、私たちの生活に、また人生に大きな影響を及ぼすものです。人類の数千年の歴史を経て、長い歴史に試されて、今なお世界中で多くのクリスチャンたちの拠り所とされている聖書のみことばにこそ、第一に聞くものでありましょう。そして手と足の聖別。神が与えた手と足は、神のみことばを行うために与えられています。みことばに聞く姿勢はとても大切なものですが、聞いただけでそれを行動に移さなかったら、実生活に生かさなかったら、意味がありません。スイカの育て方を学んでわかっても、実際に栽培しなければ意味がないのと同じです。

学んだみことばに従って、実際に行動することで、神がそこに備えておられる祝福の実を味わうことができるのです。ヤコブ書は実践することの大切さを説いていました。1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。…1:25 …完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。ここで、みことばを実行するとは、律法を一心に見つめて守り行うことと言い換えられています。イエス様が与えた律法、神を愛し、人を愛するという二つの戒め。またもう少し具体的には十戒を思い浮かべてもよいでしょう。

これを一心に見つめて離れない人というのは、これらの律法をどう自分に適用するか、あるいは置かれている状況に適用するかを、思い巡らす人のこと。そうすることによって、みことばの理解が深まり、心に根を張るようになります。その結果、実行する人になる。実を結ぶに至る、というつながりでしょう。礼拝でみことばを聞いて、もしかしたらその時は反省するときもあるかもしれません。しかし、その反省はその場だけだったりします。一心に見つめていないからです。私たちはとかく、みことばを学ぶのに熱心であっても、みことばを実行するのにあまり熱心ではないきらいがあるのではないでしょうか。ある人はこれを「日本人の英会話」に似ているといいました。知識はあるけれど、失敗を恐れて話そうとしない。だから身につかないと。事を実行する人は、「行いによって祝福される」とあります。行いによって救われる、のではありません。救われるのは、いっさい行いによらず、ただ信仰のみによって救われる。ここで言っているのは、行うことによって味わうことのできる祝福があるということです。

そして自分では宗教に熱心と言って、よく聖書を勉強し、熱心に祈っても、口から出ることばが悪い言葉だったり、ああだこうだと言い訳をして、自分の心を欺き、神のみことばに従わないなら、その宗教はむなしい、実質がないといいます。そして、ヤコブが具体的にあげている行動は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をすることでした。困っている人、助けを必要としている人を、持てる力に応じて、助けとなることです。そのためには、自分が犠牲を払うこともあるでしょう。しかし、それはイエス・キリストの似姿に造り変えられることです。神に喜ばれることです。クリスチャンは、万人祭司として主に仕えるべく召されています。私の耳は、神のみことばを聞く耳、私の手と足は、みことばを行う手と足!と改めて覚えたいと思います。その信仰の従順を通して、少しでも愛するイエス様の似姿に造り変えられたら、これほどうれしいことはありません。