
二か月に一度の奉仕をさせていただています。6月に終わった後、次は8月第二週だ。八月第二週はいろんなことを考えるときだといろんなことを考えていっぱいでした。猛烈に暑い暑さの中で8月をむかえて今までの経験で何年かに一度は酷暑になっていて猛烈な暑さの中で歴史の中の重い事柄を思い返しながら礼拝をささげる意味を考えさせられます。長老教会では日本という国で歴史の事実を忘れないで主の日を迎えることができるようにと社会委員会のニュースが配られています。私は戦後78年をむかえたと聞かされる時自分の年を再確認させられています。生まれてからこの方年を忘れても世間は思い起こさせてくれる。78年の間に世界はうんとかわってしまったと15日は終戦の日なのか敗戦の日なのか議論が繰り返されています。そういう中でみことばから何を聞くのかということを思いめぐらせて何をどう聞くのが正しいのか、いろんなことを思わされます。そんななかで今までは平和をつくるものは幸いです、とか平和について教えられて今回マタイの福音書19章の箇所わたしについてきなさい とイエスさまから語られついていった人とついていかなかった人がいたとこころに留めたいと導かれました。
みことばにしっかりと耳を傾けてどこにたっているのか振り返ることが大事だと思います。ゆるがない土台を得ているとはっきりさせることが必要だとつくづく思わされました78年の人生と世界の78年どんな思いが人々の中にあったかいろんなことを考えさせられたのですがイエス様のことばに聞き従うことに導かれたいのです。ユダヤ人の世界で旧約聖書に従って歩んでいるひとたち。どう歩んだらいいのかたくさん聞いていたと思います。十戒を覚え神様を愛する 隣人を愛することも彼の中に入っていたと思いますが平安がなかった。永遠のいのちをいただいている確信を得てなかった事実があったと思います。この質問に対してイエス様はよいかたはひとりだけです。あなたはわたしを神と信じて聞いているのですか?そういう問い返しの言葉だったかもしれません。イエス様は十戒のことばを順番にあげてあなたの隣人を愛せよといって大事なことはここにあるとおっしゃるのです。ところが彼は20節でこの青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」戒めについてはよく知って守っていたということはとても真面目な人だったと思います。
人との関係でも いい人と思われるように生きていた、それは事実だったと思います。19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」聞いていた彼はどんな思いで聞いたのか詳しく書かれていないのですが22節をみると19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからであるこう聖書は記します。イエス様が去っていく青年の後ろ姿をどんな思いで見送っておられたのか聖書は触れていないです。みなさん想像してみてください。彼は悲しんで去っていった。後ろ姿というのはその人の気持ちを表すものです。すこし頭を下げて去っていったかもしれません。その心中はどうだったかというと23節以下19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。この青年には神様に従うには財産が邪魔をしているとイエス様は見抜いておられました。
実際 多くの財産を持っていたということも聖書は記しています。イエス様はその青年を見送ったあとで、19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」このらくだが針の穴を通るというのはとっても無理なことです。当時の社会を理解しなくても 聞いただけでありえないと考えます。エルサレムには門があってアーチ形の通り道で その門を通り抜けるのにラクダに乗って通ることはほとんどできないという解釈を聞いたことがあるのですがアーチがそんなに高くない、そんな解釈は別としてもイエス様がおっしゃったことは金持ちが神の国に入るのはほとんど不可能だとおっしゃっていたのだと思います。金持ちに限らず 地上のみにこころが奪われているのであれば天をあおぐことは決してしないとよくわかることです。私の 子どものころから教会にいったものとして父方の家と母方の家は200メートルくらいしか離れていませんでした。周りがうんと金持ちがいそうな家が多く柳のおじいさんはなにもしていなくて庭先で水まきをしていました。庭先のあじさいがなくなり 浜百合を育てていました。
悠々自適かもしれないですが ちょっと変わった人でした。夏の暑い時期にすててこ をはいて歩いていました。いろんなひとが自分をどう見ているのか楽しんでいる人でした。200メートルくらい離れたところに母方の家があってそこのおじいさんは会社を経営していて蔵がありました。いかにも金がありそうな家だったのですが考え方が全然違いましtあ。わたしたちがクリスチャンになってから母方の祖父は教会に行く途中で転んだらなんにもならないと絶対来ようとしなかった。仕事のほうが優先でとにかく教会にはきませんでした。ふたりのおじいさんは対照的でした。父方の祖父は 叔母がクリスチャンになったのもあり洗礼をうけました。おじいさんの気持ちをもっと昔に確かめておきたかったというのがありますがなぜ洗礼をうけたのかということに対してわしはイエス様みたいなもんやと。この世の富を全部捨てたようになって地上になにもない自分を言ったのかなと思うんです。母方の祖父はずっと会社を続けていまはわたしのいとこが継いでいます。いろんなことを考えた時に永遠のいのちをあまりほしいと思わないのかなと子どもながらにそう考えました。母方の祖父のことを悪く言ったら また間違うのかなと思います。
祖父は聖書のことばに耳を傾けなかった事実があります。ふたりの対照的な姿の中に この世の富のことはブレーキになるのかなとつくづく考えさせられました。お金のあるなしだけではなく この世の事柄が優先しているとイエス様の教えは耳に入らないこの世のことから自由にされてふっきれることがなければ福音に耳を傾けないこれが事実なのだと教えられました。弟子たちはそれは大変だ むずかしいと金持ちに限らず地上のことをふっきらなければいけないとなるととても難しいと弟子たちも気づいたのだと思います。神様のことを考える永遠のいのちを第一にするのはとっても難しいと感じたと思います。19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」救われるということ 永遠の命をいただくということは人間にはできないのだと弟子たちが気づいたそれは確かだと思います。でも神様はどんなことでもできるのだと救ってくださる神様がいらっしゃる そこに目を向けなさいとおっしゃっています。神さまはめにみえないけれども でも神様はそこにいらっしゃる救ってくださる神さまがいらっしゃるかどうかに気づくかどうかそこが鍵だと思います。
救いはあくまでも神様の恵みによることなのだとこのことをいつでも思い返してそこにかえらなければならないと思います。弟子たちは19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」彼らは自分たちはイエス様に従ってきた ついてきた確かにそうだったと思い出すわけです。それに対してどんな報いがあるのですかと招詞で読んだ箇所にペテロとアンデレがイエス様に従ったということガリラヤ湖の漁師だったのですがイエス様のわたしについてきなさいということばを聞いたときにためらうことなくついていった人たちでした。ついては何がいただけるのか聞いてしまったペテロたちですがあなたがたはもうしっかり永遠の命をいただいているのですよ私が栄光のうちに天の座に就くときにあなたがたも同じように支配の座につくことができるのですと もう永遠のいのちをいただいていると語ってくださっていると理解できます。19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、
わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。あなたがたは確かに永遠のいのちを受け継いでいるのですよとはっきり理解できます。心配しなくても大丈夫と 念をおしてくださったとこの世で大切にしていたものを捨ててイエス様に従った事実がありました。それに対して天の御国で受ける祝福は用意されているのだと青年が主のもとを去ったのと違って あなたがたはもういただいていますよと。永遠のいのちを理解するのは難しくなりますが神様ご自身との親しい交わりの中に生きる神様がおられて私がいることに生きる事 そういう命が永遠のいのちだと教えてくださっています。ヨハネ17章17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。知るということばの意味することは 知識ではなく交わりの中にあることを理解することにつながります。神によって生かされていることを喜ぶこと。神様によって生かされ 来るべき世にあっても神とともに生きる事。わたしたちも改めて覚えておきたいのです。永遠のいのちは何かをして得られるのではないのだ。
どんなよいことをしたとしても それによって得られるものではない。善い行いによって得られるものは自分自身高慢になる他の人よりも自分のほうがすぐれているとなるそういう意味で天を仰ぐことにはつながらないのだと神様の前にはこころを低くして歩むことイエス様がわたしについてきなさいとおっしゃったものはイエス様に従うときにためらうことがないことが大事だと最後まで従いとおすことも大事だと覚えておきたいのです。生ける真の神様の信じて生きる日々それこそがわたしたちにとっての幸いだと心にとめたいと思います。それをするにあたって自分では無力なのだ。自分に頼ろうとすると19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。と警告が発せられています。弟子たちの多くは貧しい人たちでした。イエス様に従うのにためらう必要がない人たちでした。私の家族の中で父方の祖父と母方の祖父の違いの中で何もないほうが従う決断はしやすいのかなと思ったのですが多くの富をもっていてもイエス様に従うことはできるはずですがそれをさせてくださるのは神さまなのだと神様の御手が働くときに富みがあろうがなかろうが 従う決断に導かれる
そこにも神様の恵みによる救いの御業につながるのだと思いますし救いの御業は神様のなさる不思議だと思います。その御業がわたしたちひとりひとりにも実現しているのだと。わたしたち一人一人の人生のある所でわたしについてきなさいということばに聞いたのだと思います。形は違う。私は時々 妙な夢をみて起きてからうなっているときがあるのですがイエス様がどういう形で語り掛けられたのかひとりひとり違うとは思います。そうであるならば永遠のいのちをいただいたものとしてしっかり歩んでいるのか自分自身に問うべきと思いますし永遠のいのちをいただくことを求めて歩んでいるのかそれを問い直して振り返ることが大事だと思います。8且5日を前にして改めて振り返るときと思います。わたしの独断と偏見があるのかわからないですが1945年8月15日は忘れてはならないと思います。日本という国がガラッと方向転換した日です。毎年報道を通してニュースが入ってきます。ガラッと方向転換した事実は覚えておかなければならないです。価値観の転換を迫られたのです。全く迫られて数年間すごすのですがアメリカの占領がおわるとまた古い価値観が入り込んできて今に至っている。
その中で戦争放棄があり自由と民主主義が国中に満ち溢れて多くの人が教会に足を運んだ事実がありました。日本長老教会の多くの先輩先生方がそのころに教会にいって信仰に導かれました。みなさん同じ年代で軍国少年からいままでとは違う価値観で生きるとクリスチャンになった先生方。長老教会は戦後に歩みだした教会として戦前とは違う歩みをこの国で生きようとしたそういう人たちが一生懸命伝道して私たちを導いてくださったのだとそれを覚えておきたいなともう一度思いました。それを忘れないようにと私はすごく思わされました。30周年を記念する委員会で考えたこともあったのですが自分もその空気の中で教会に導かれていた。聖書に真理があるその空気が時間とともに薄れてしまっているそれも事実だと。その空気を忘れないようにしなければならないとすごく思います。先輩クリスチャンのかたがたがいて今の長老教会があるのだなと地上ではなんら報われることがなかったとしてもこの道を行こうと思った方々がおられてわたしたちもそれに倣っているはずなんだなとイエス様に従っていく思いを新たにしたいなと。長老教会のスタートの時に先生方はとても熱い思いを抱いていたんだなと。
社会の様子はあまりにも変わってしまった経済中心の世の中は地上に富をたくわえるのが第一だとなっているのが気になります。ひとにはできない でも神さまにはなんでもできるのですということばをもう一度きいてみわざをなしてくださることを待ちたいと思います。これまで以上にこころしてイエス様についていきたいという思いを天に宝をつむために私はどう生きるのだろうか目を覚まして歩めるように祈りたいと思います。主の日の礼拝を 交わりを喜んで歩み続けることに導かれたいです。